第三十四話:火の国の街
翌日、セリナは朝から外出の支度をしていた。
昨日の礼装ではない。動きやすい外出着だ。髪も簡単にまとめている。学術院にいる時の彼女に近かった。
「今日は案内役だから」
セリナはそう言って、胸を張った。
「よろしくお願いします」
「任せて」
屋敷の馬車で中心区まで出ると、帝都の音が一気に近くなった。
商人の呼び声。
兵の号令。
鍛冶場の槌音。
祠の前で短く祈る人々。
聖都の鐘が一日を整える音なら、帝都の音は人を動かす音だった。
「まずは火神殿」
セリナが指した先に、大きな神殿があった。
白ではなく、赤い石と黒鉄で造られている。屋根の上には炎の意匠があり、門前には兵や商人、子ども連れの親が並んでいた。
「帝国では、炎と変革の神ピュラを信仰する人が多いんだ」
「光の神とは、雰囲気が違います」
「うん。帝国の人は、変わること、鍛えること、勝ち取ることを好むから」
セリナは神殿の前で軽く頭を下げた。
エアリスもそれに倣う。
祈りの言葉は知らない。
だから、ただ礼をした。
神殿を出ると、広場に出た。中央には巨大な戦功碑が立っている。黒い石に、無数の名が刻まれていた。
広場の端では、子どもたちが木剣を持って順番を待っていた。
指導役の兵が、姿勢を直し、足の置き方を教えている。遊び半分の顔をした子もいるが、教える側は真面目だった。
「子どもの頃から、訓練するんですか?」
「本格的なのは家によるけど、体を鍛えるのは普通かな。魔法の才能がなくても、帝国の子は走らされるし、木剣くらいは触る」
「セリナさんも?」
「もちろん。私は剣より魔法の方が得意だったけど」
セリナは木剣を振る子どもたちを見て、懐かしそうにした。
「お父様は厳しかったですか?」
「厳しかった。でも、できないことを笑う人じゃなかった」
セリナは木剣を振る子どもたちから、一度視線を外した。
「ここは?」
「帝国の戦死者碑。魔物との戦いで亡くなった人、邪教の追跡中に命を落とした人、魔淵方面で帰らなかった人。全部じゃないけど、代表者の名が刻まれてる」
エアリスは石碑を見上げた。
名は多すぎて、すぐには読めない。
それでも、一つひとつは誰かの名前だった。
「ここに名前がある人たちは、誰かを守ったんですね」
セリナは目を細めた。
「そう思いたい人は、多いと思う」
セリナは碑から目を離さず、親指で袖口を一度押さえた。
広場の端では、軍の募集掲示が出ていた。魔淵外縁安定化計画に伴う新兵募集。外縁防衛線の強化。後方支援員の増員。
その隣には、若い士官と工房主向けの説明会の案内が貼られていた。赤い縁取りの紙に、軍務局、火神殿、赤炉会の印が並んでいる。
後援者の欄には、ライオネル・ヴァルター・アルディオンの名があった。
名前だけではない。小さな肖像画まで添えられている。
凛々しい横顔。
まだ若い皇子。
だが、掲示の置き方は、すでに一つの旗のようだった。
「魔淵が荒れてるなら仕方ないだろ」
「また税が上がるんじゃないか」
「息子が行きたがってる。止めるべきか、誇るべきか分からん」
通りすがりの声が、断片だけ耳に入る。
セリナは足を止めなかった。
エアリスも、聞いた声をそのまま覚えるだけにした。
掲示の下には、魔淵方面の簡略図があった。
赤い線で防衛予定区域が描かれている。細部は伏せられているが、線は地図の端まで伸びていた。
「外縁というのは、魔淵の周りの防衛地帯ですか?」
「うん。帝国では、魔淵を囲む防衛線と、その後ろに続く砦、補給路、工房、療養施設までまとめて外縁と呼ぶことが多いの」
セリナは赤い線の外側を指でなぞった。
「地図だと線に見えるけど、実際にはそこで暮らしている人もいる。外縁勤務っていうのは、そういう場所へ出る仕事も含むの」
「こういう掲示は、いつから?」
「ここ数か月かな。聖都にいる間にも、帝国から届く話題は増えてた」
セリナは掲示の端にある皇子の名を見た。
「ライオネル殿下の名が前に出るようになったのは、もっと最近だと思う」
「第二皇子の方ですね」
「うん。若い軍人や外縁勤務の家には、受けがいい。本人が前線に理解を示している、という見え方をしているから」
「見え方、ですか」
「本当に理解している部分もあると思う。ただ、今はその見え方を必要としている人たちもいる」
「セリナさんは、どう思いますか?」
「必要な部分はあると思う。でも、全部が必要かどうかは分からない」
彼女は掲示から目を離した。
「そこを判断するのが、本当は大人の仕事なんだけどね」
その言葉に、疲れが混じっていた。
次に向かったのは、飲食店の並ぶ通りだった。
焼けた肉の匂いがする。赤い香辛料を塗った串焼き、鉄板で焼いた平たいパン、豆と肉を煮込んだ濃いスープ。昼前だというのに、店先には人が多かった。
通りの奥には、鍛冶と魔導具を扱う店も並んでいた。
武器だけではない。馬車用の術式板、携帯用の火打ち魔導具、訓練用の防護具。店先に置かれている品は、聖都の商店より実用的なものが多い。
工房の軒先では、若い職人が赤く光る板を水に沈めていた。白い蒸気が上がる。隣では、軍服の男が注文書を見ながら店主と話していた。
向かいの通りを、家紋入りの馬車が二台通り過ぎた。
一台は金の縁取り。
もう一台は黒鉄の車輪飾り。
中にいるのは、年配の貴族ではなかった。窓越しに見えた横顔は、セリナと同じくらいの年頃の青年と少女だ。
馬車の先導役が、広場の方へ道を取る。
掲示にあった説明会場の方向だった。
セリナは一瞬だけそちらを見て、すぐ前へ向き直った。
「知っている方ですか?」
「顔だけなら。どこの家も、家長だけで動く時期じゃなくなってきてる」
「若い方も、家の考えを背負うのですね」
「背負わされるし、自分から背負いにいく人もいる。帝国では、早く役に立てることが誉れになるから」
「あの補助板も、軍のものですか?」
「たぶん輸送車の補助板。帝国の工房は、民間の仕事と軍の仕事が混ざることが多いの」
「大変そうです」
「儲かる時は儲かるけど、軍の注文は断りにくいって聞くよ」
セリナは軽く言ったが、商人の顔はあまり軽くなかった。
「帝国の店は、すぐ戦いに繋がるものが多いですね」
「そうだね。飾り物もあるけど、使えるかどうかを見られることが多いかな」
セリナは小さな防護具を手に取り、値札を見て戻した。
「学生でも買うんですか?」
「買う人は買う。普通は学校の備品や家の支給品を使うけど、自分に合う道具を探す人もいるよ」
力を持つための道具が、街の中で普通に売られている。
帝国では、それも日常の一部だった。
「帝国に来たなら、まずこれ」
セリナが買ってくれたのは、赤銅焼きとは別の料理だった。薄いパンに炙った肉と野菜を巻き、火の香草で味をつけている。
「辛いですか?」
「聖都基準なら辛い」
「帝国基準では?」
「普通」
エアリスは一口食べた。
すぐに水がほしくなった。
セリナが期待した顔で見る。
「どう?」
「おいしいです。水が必要です」
答えながらも、エアリスは巻かれたパンの端を見た。焼けた肉の間に、緑の香草が細かく挟まっている。
「だから、それを辛いって言うの」
セリナは楽しそうに笑った。
昨日より、笑い終わるまでが長かった。
食べ歩きをしながら、二人は市場を抜けた。軍人は通りの一部で優先的に道を通される。市民たちはそれを当然のように受け入れていた。
エアリスの視線に気づき、セリナが声を落とした。
「帝国では軍人への敬意が強いの。特に魔淵帰りや、裂け目の現場に出る人たちはね」
「皆、納得しているんですか?」
「納得というより、そういうものとして育つんだと思う。魔物は遠い話じゃないから」
そこまで言って、セリナは表情を引き締めた。
「でも、何でも軍のためならいい、ってわけじゃない」
「はい」
「そこを間違える人もいる」
それ以上は言わなかった。
午後になると、二人は赤い花を売る店の前で足を止めた。隣の区画では、傷病騎士のための小さな支援窓口が開かれていた。
花屋の老婆が、セリナに気づいて頭を下げる。
「グランツベルクのお嬢様ですね。お戻りで」
「こんにちは。今日は友人を案内しているだけです」
「それはようございました。帝都は強いだけの街ではありませんから」
老婆はそう言って、赤い小花を一本差し出した。
セリナは代金を払おうとしたが、老婆は首を振った。
「お友達に。初めての帝都なら、よいものを見て帰っていただきたいので」
エアリスは花を受け取った。
「ありがとうございます」
花は小さく、香りも強くない。
帝国の色をしていた。
老婆は花を包みながら、戦功碑の方へ目を向けた。
「この時期は、あちらへ持っていく方も多くてね」
「慰霊ですか?」
「ええ。魔物に取られた人も、邪教にやられた人も、帰らなかった人は皆、家の誰かですから」
老婆は花紙の角を、指の腹で何度も撫でていた。
エアリスは花を両手で持った。
「大切にします」
「そうしておくれ」
赤い外套を着た職員が、義肢魔導具の調整券や慰問金の手続きをしている。列に並ぶ人々の中には、腕や脚に補助具をつけた騎士もいた。
「あれは?」
「赤炉会。傷病騎士や軍属を支援する組織だよ」
セリナの声は低くなった。
「帝国ではかなり信頼されてる。うちも関わりがある」
「よい組織なんですね」
「うん。……少なくとも、していることは必要なこと」
その言い方に、エアリスは顔を向けた。
「何か、気になることが?」
「今はまだ。名前を覚えておくくらいでいいと思う」
セリナはそう言って、職員たちの方を見た。
支援窓口の横には、別の小さな札が立っていた。
外縁計画協力者家族向け説明会。
外縁功労者交流会。
慰霊式参列受付。
三つの案内は、それぞれ違う行事のはずなのに、同じ赤い縁取りでまとめられていた。
街の人々は、それを特別なものとして見ていない。
花を買う者。
手続きに並ぶ者。
掲示の前で立ち止まる者。
それぞれが別の用事で、同じ赤い印の前を通っていく。
そこへ、一人の老人が支援窓口の職員へ深く頭を下げていた。職員は慣れた様子で相手を支え、書類を渡している。
老人の手は、職員の袖を離すまで少し震えていた。
セリナはその手元を見て、すぐには口を開かなかった。
帰り道、セリナは明るく別の店の話をした。
エアリスもそれに答えた。
エアリスは、窓口に掲げられていた赤い炉の徽章を思い出した。
屋敷へ戻る馬車の中で、エアリスは受け取った赤い花を膝の上に置いた。
「押し花にしますか?」
セリナが聞く。
「はい。帝都で最初にもらった花なので」
「そういうの、ちゃんと覚えるよね」
「忘れたくないものは、覚えます」
「じゃあ、今日の帝国はどうだった?」
エアリスは言葉を選んだ。
「怖いところもあります。でも、好きになれそうなところもあります」
セリナは窓の外を見た。
その横顔は、昨日より明るかった。
「それなら、案内役としては合格かな」
「はい。合格です」
「採点が早い」
馬車は公爵邸へ向かって走った。
屋敷へ戻る頃には、日が傾き始めていた。
玄関で迎えた使用人が、セリナへ一通の書状を差し出す。
「赤炉会より、正式な招待状が届いております」
セリナの表情が、ほんのわずかに変わった。
今日、街で見たばかりの名前だった。
広場の掲示にあった赤い炉印が、エアリスの頭に浮かんだ。
「分かった。あとで見る」
セリナは書状を受け取り、エアリスへ目を向けた。
「明日は、これの話になるかも」
「はい」
客室へ戻るまで、エアリスは花を手放さなかった。
机の前で、エアリスは手の中の赤い花を見た。
花の赤。
封蝋の赤。
エアリスは二つを見比べてから、赤い花をそっと机に置いた。




