第三十三話:叔父の挨拶
翌日の午前、ライムント・フレイア・グランツベルクが屋敷を訪れた。
セリナの叔父。
オスカーの弟。
そして、上皇派に近い人物。
セリナから聞いていた情報は、それくらいだった。
応接室に通されたライムントは、穏やかな笑みを浮かべていた。身なりは整っているが、派手ではない。声も柔らかい。
年齢はオスカーより少し若く見える。
身のこなしに無駄がなく、相手がどこで緊張するかを知っているような目をしていた。
同じ部屋にいても、オスカーとは圧が違う。
オスカーは正面から来る。
ライムントは、横から入ってくる。
どちらが扱いやすいかといえば、おそらく前者だった。
「久しぶりだね、セリナ」
「お久しぶりです、叔父上」
「聖都での生活はどうだい」
「よい先生と友人に恵まれています」
セリナは背筋を伸ばしたまま答えた。
学術院で見る明るさはない。
ライムントの指が、膝の上で一度だけ止まり、すぐに戻る。
「それは何よりだ」
彼は視線をエアリスへ向けた。
「こちらが、セリナのご友人かな」
「エアリス・アウレリア・ヴァレンです」
エアリスは立ち上がり、一礼した。
「神聖法王領ルミナリアより参りました」
「礼儀正しい方だ。セリナが聖都で友人を得たと聞いて、少し安心していたのですよ」
「叔父上」
セリナが軽くたしなめる。
ライムントは笑った。
「おっと、余計なことだったかな」
言葉は軽い。
セリナは茶器に伸ばしかけた手を止めた。
部屋には茶が用意されていた。
帝国の茶は、聖都のものより香りが強い。セリナは茶器に手を伸ばしたが、すぐには飲まなかった。ライムントの前では、些細な動作も見られる。
エアリスも茶器を持つ。
熱はちょうどいい。
だが、味を見るより先に、室内の席順が気になった。
オスカーの席はまだ空いている。エレオノーラは部屋の奥、ライムントに近すぎず遠すぎない位置。セリナは父の席に近い。エアリスは客として、横に外されていた。
その席からは、三人の顔が順に見えた。
やがて、オスカーも応接室へ入ってきた。ライムントは立ち上がり、兄へ礼をした。セリナの背も、わずかに伸びる。
「兄上」
「来たか」
「セリナが戻ったと聞きましたので。顔を見ておきたかったのです」
「顔を見るだけなら、もう済んだな」
オスカーの返しは短い。
ライムントは苦笑した。
「相変わらず手厳しい」
「用件を言え」
兄弟の会話に、遠慮は少ない。
それでも、客人が入る隙間はなかった。
ライムントは懐から一通の封書を取り出した。赤い封蝋に、赤炉会の炉印と皇室の印が重ねられている。
封書の表には、細い銀線で軍務局の副印も添えられていた。
私的な招待なら、ここまで印は重ならない。
誰か一人の好意として受け取れないように、最初から形が整えられている。
封書を出す動作は、急ではなかった。
ライムントは雑談の途中で封書を出した。封蝋は、まだ割られていない。
「近く、上皇陛下のご臨席を賜る小さな集まりがあります。若い世代の外縁功労者交流会、と言えば聞こえは固いかな。セリナにも顔を出してほしい」
セリナの表情が固まる。
オスカーは封書を見たまま、すぐには受け取らなかった。
「小さな集まり、か」
「政治の場ではありません。若い世代の顔合わせです。魔淵外縁安定化計画に関わる家の子息令嬢も多い」
「その言い方で政治の場ではないと?」
ライムントは笑みを消さない。
「今の帝国に、政治と無縁の顔合わせなどありませんよ」
ライムントは本音を隠さなかった。
オスカーの眉が、わずかに動いた。
「魔淵が揺れています。陛下は戻られず、臨時議会は長引いている。こういう時こそ、家と家が余計な不安を減らすべきです」
「不安を減らすために、娘を使うのか」
「使う、という言い方は寂しいですね。セリナはグランツベルク家の娘です。家の未来を考える席に出ることは、悪いことではない」
ライムントはそこで、封書の端を指で軽く叩いた。
「それに、ライオネル殿下も出席なさる。殿下は外縁計画を支える若い軍人たちから信頼を集めておられる。セリナが一度挨拶するには、悪い席ではないでしょう」
ライオネル。
第二皇子。
昨日、夕食の席でエレオノーラが口にした名だった。
セリナのまつ毛が伏せられる。
家同士の顔合わせだけなら、体調でも学業でも、断り方はいくらでもあった。
だが、封書には皇室紋と赤炉会の印が並んでいた。
ライオネルが来る。
上皇の耳にも届く。
軍務局の席も、赤炉会の席も用意されている。
返事の一行だけで、家の姿勢を読まれる。
セリナは黙っている。
母のエレオノーラも、離れた席で手を重ねていた。
彼女はライムントの言葉に反発していない。
かといって、心から賛成しているようにも見えない。
エアリスは、それを見ていた。
エレオノーラの指先は、膝の上で動かない。
「ヴァレン嬢」
不意に、ライムントが声をかけた。
「はい」
「聖都のAクラスに在籍していると聞きました。セリナと同じ教室に?」
「はい」
「それは頼もしい。聖都の学術院は、大陸でも指折りの学び舎だ。セリナはよい友を得た」
「ありがとうございます」
「Aクラスともなれば、各国の才ある者が集まる。家名も、才能も、将来も、それぞれ重い」
ライムントはそこで一度言葉を切った。
「重いものを持つ者同士は、早いうちに互いを知っておくべきだ。そう思いませんか」
ライムントは答えを待つ前に、茶器を持ち上げた。
「私の方こそ、セリナさんに助けられています」
「なるほど」
ライムントは目元を和らげた。
「では、帝国のことも少し見ていくといい。ここは聖都とは違う。秩序よりも、力が物を言う場面がある」
「覚えておきます」
「怖いとは思いませんか?」
ライムントの声は、先ほどと同じ穏やかさだった。
セリナの指が、茶器の縁で止まった。
「知らないことは多いです。けれど、怖いかどうかは、見てから考えます」
ライムントはすぐには返さなかった。
それから、楽しそうに笑った。
「セリナ。よい友人だね」
「はい」
セリナの返事だけは、迷わなかった。
封書は最終的にオスカーの前へ置かれた。
オスカーは封書を開かず、封蝋の端に指を置いただけだった。
ライムントはそれ以上強くは言わず、礼をして席を立った。
「エレオノーラ様も、どうかご無理のないよう」
去り際、ライムントは母にも声をかけた。
エレオノーラは穏やかに頷く。
「お気遣い、ありがとうございます」
声は柔らかかった。
けれど、セリナの横顔がわずかに強ばった。
セリナは母の横顔を見た。エレオノーラは微笑んだまま、手を膝の上で重ねている。
「兄上。今の帝国には、早めに決めた方がよいことがあります」
「急いで決めて、取り返しのつかないこともある」
「それも承知しています」
ライムントはセリナへ向き直った。
「また近いうちに。無理にとは言わないよ。ただ、考えておいてほしい。若い者同士の席は、家長同士の会議よりも穏やかに始められる」
「……はい」
彼が去った後、応接室には封書だけが残った。
赤い封蝋が、机の上で小さく光っている。
セリナはそれを見て、息を止めるように黙っていた。
セリナが息を戻すまで、エアリスは黙っていた。
封書は、封を切られないまま机の上にあった。
それでも、セリナは封蝋から目を離さなかった。
顔合わせ。
若い世代。
上皇の臨席。
ライオネル皇子。
外縁計画に関わる家々。
セリナの視線は、まだ封蝋から離れない。
「出るかどうかは、まだ決めない」
セリナは顔を上げた。
「父上」
「急かされて決める必要はない。ただし、逃げたままにもできん」
「……はい」
オスカーの声は厳しい。
セリナは膝の上で、指を一度だけ組み直した。
エレオノーラは何も言わない。
彼女はカップに手を添えたまま、封書を見なかった。
エアリスの目には、カップの白い縁と、その下に伏せられた銀の瞳だけが残った。
オスカーは封書を机の端に置いたままだった。
返事を保留するだけなら、机に置けばいい。
オスカーは封書の角を指で押さえたまま、席を立たない。
セリナはそれを見ていた。
父が何も考えずに自分を差し出す人ではないと、彼女は知っている。
けれど、出ないだけで守れる話ではないことも分かっていた。
セリナが帝国へ戻った以上、門前に止まる馬車も、届く封書も、これから増える。
セリナは唇を結んだ。
応接室を出た後、セリナは廊下で小さく言った。
「ごめん。見せたくないところばっかり見せてる」
「明日は、帝都を見せてくださる約束です」
「覚えてた?」
「はい」
「じゃあ、明日は絶対に案内する。政治っぽい顔じゃない帝国も、ちゃんとあるから」
セリナはそう言って、封書のある部屋を振り返らずに歩き出した。
エアリスはその隣を歩いた。
廊下の窓から、帝都の赤い屋根が見える。
セリナの歩き方は、いつもより少し速い。
エアリスは歩幅を合わせた。
「明日は、辛くないものもありますか?」
エアリスが聞くと、セリナは振り返った。
「そこ気にしてたの?」
「水が多く必要になるので」
セリナは笑った。
「探しておく。帝国にも、辛くないものはあるから」
その日の午後、ライムントの封書は使用人の手で屋敷の奥へ運ばれた。
オスカーが返事を書くのか、まだ置いておくのか、エアリスには分からない。
セリナはそれ以降、封書の話をしなかった。
夕方、客室へ戻ると、机の上に明日の外出予定が書かれた簡単な紙が置かれていた。
火神殿。
戦功碑。
市場。
飲食街。
セリナの字は、いつもより少し強かった。
「屋台通り」の横には、小さな丸がついていた。
エアリスは紙を畳まず、そのまま机に置いた。
書いている間だけ、セリナは少し表情を戻していたのかもしれない。
窓の外では、帝都の灯りが一つずつ増えていく。
明日は、そこへ出る。
エアリスは、窓辺に置かれた外出用の手袋を一度だけ確かめた。




