第三十二話:会議の外側
翌朝、セリナは早くから身支度をしていた。
制服ではなく、帝国式の礼装だった。白を基調にした学術院の服と違い、赤と黒が多い。肩や袖に入った細い金糸が、彼女の家名を示している。
「似合っています」
エアリスが言うと、セリナは鏡の前で苦笑した。
「ありがと。でも、これ着ると家に戻った感じがするんだよね」
「嫌ですか?」
「嫌ってほどじゃない。ただ、少し重い」
セリナはそう言って、手袋をはめた。
部屋の外では、すでに侍女が待っている。
「会議は長くなりますか?」
「分からない。父上が短く済ませてくれればいいんだけど、叔父上が絡むと長いかな」
「私は、書室にいます」
「うん。退屈だったら庭も見ていいから。迷ったら誰かに聞いて」
「分かりました」
セリナは扉の前で一度立ち止まった。
「エアリス」
「はい」
「ごめんね。せっかく来てくれたのに」
「私は、来たいと思って来ました」
セリナは肩の力を抜いた。
「そういう返事、ずるい」
「ずるいですか?」
「うん。怒れなくなる」
そう言って、彼女は会議室の方へ向かった。
エアリスは案内役の侍女に連れられ、客人用の書室へ向かった。
書室は広くはないが、よく整っていた。軍事、帝国史、家系記録、魔淵関連の公開資料、礼法書。公爵家の客人が読んで困らないものだけが置かれている。
エアリスは棚を見た。
最初に手を伸ばしたのは、帝国政治の入門書だった。
皇帝。
臨時議会。
四大公爵。
魔淵外縁安定化計画。
知らない言葉が、既に昨日より増えている。
書架の隣には、来客向けの地図も掛けられていた。
帝都を中心に、四大公爵家の主要領、軍用街道、魔淵方面の大まかな方角が示されている。細かな軍事情報は載っていない。だが、帝国がどの方向に力を伸ばしているのかは分かる。
魔淵は、地図の端ではなかった。
赤い線は、四大公爵家の領地と軍用街道のあいだを深く割っていた。
侍女が茶を置いた。
「何かお探しのものがございましたら、お申しつけください」
「ありがとうございます。皇帝陛下は、今どちらに?」
侍女は盆を持つ手に力を入れた。
「公式には、魔淵方面での任務に当たられている、とされています」
「公式には」
「私どもが知るのは、その程度でございます」
侍女は最後に、軽く頭を下げた。
次の言葉を足すつもりはなさそうだった。
「では、臨時議会は?」
「陛下の不在中、政務を預かる場でございます。皇室と四大公爵家から選ばれた方々が、国政を動かしておられます」
「グランツベルク家も、その一つですね」
「はい」
エアリスは頷き、礼を言った。
侍女が下がると、部屋は静かになった。
エアリスは本を開く。
記述は簡潔だった。皇帝が不在、または継承が未定の際、臨時議会が国政を担う。議決は多数決。四大公爵の発言力は大きい。
現在の臨時議会は、上皇と四大公爵で構成されている。
本来なら皇室から別の人物が入る場合もある、と注記されている。だが、今は上皇がその席にいる。注記の横には、臨時承認の印が押されていた。
けれど、帝国の人々がその状況をどう受け止めているかは、また別の話になる。
書物の記述は静かだった。
だが、廊下の向こうから聞こえる家臣たちの低い声は、静かではなかった。
「ユリウス殿下が継ぐなら、手順は明らかだ」
「皇帝陛下が戻らぬまま、手順だけで国が動くか」
「だからといって、上皇陛下の名で全てを進めるのか」
「ライオネル殿下には、若い軍人の支持がある」
声はすぐに遠ざかった。
誰かが気づいて、場所を移したのだろう。
エアリスは本を閉じなかった。
文字の上に、今の声だけが重なって残る。
エアリスはそこまで読んで、本を閉じかけた。
すると、ページの端に小さな注釈があった。
臨時議会は、皇帝の権限の大半を代行できる。
ただし、恒久的な皇位継承の決定には、別途承認が必要。
短い注釈だった。
エアリスは、その一文をもう一度読んだ。
帝国の形は、聖都とは違う。
教廷の管理科が日常を広く支えるルミナリアに対し、帝国は皇室と公爵家の力が太い柱になっている。
次に、魔淵外縁安定化計画の公開資料を取った。
近年、魔淵周辺の警戒度が上昇している。
外縁地域の防衛線を強化するため、新兵の募集、傷病騎士の再配置、後方支援の整理、防御陣の増設を行う。
文面はまともだった。
赤い公印も、所定の位置に押されている。
募集対象は新兵だけではない。
傷病騎士の再配置。
死囚兵の転用。
後方支援民の登録。
魔導具工房との連携。
資料には、反対意見への回答も添えられていた。
税負担について。
軍需の優先配分について。
死囚兵転用への懸念について。
反対意見の欄にも、短い回答と赤い公印が並んでいた。魔淵が揺れている以上、備えは必要である。国家の防衛は全員の責務である。そう書かれていた。
エアリスは反対意見の欄へ指を置いた。どの項目にも、赤い公印がある。
項目は多い。
エアリスは数枚を重ね直した。帝国にとってこれが通常の規模なのか、すでに膨らみすぎているのか、数字だけではまだ掴めない。
今は、ノートの余白に小さく印をつけるだけにした。
長く座っていると、案内役の侍女が庭を勧めてくれた。
エアリスは本を閉じ、短い回廊を抜けて中庭へ出た。
庭の半分は観賞用で、もう半分は訓練用だった。石畳の上では、護衛たちが声を出さずに剣を合わせている。音が鋭い。踏み込みも、剣を引く角度も、見せるためのものではなかった。
「毎日、訓練を?」
エアリスが侍女に聞くと、彼女は訓練場の端へ視線を送った。
「公爵家の護衛でございますから。魔物相手にも、人相手にも、動けなければなりません」
「人相手にも」
「帝国ですので」
その一言で、侍女は話を終えた。
エアリスはそれ以上聞かなかった。
エアリスは、剣を合わせる護衛たちへもう一度目を向けた。
昼を少し過ぎた頃、セリナが戻ってきた。
部屋に入ってきた彼女は、椅子を見るなり深く座り込んだ。
「……疲れました」
言葉づかいが少し崩れていた。
エアリスは本を閉じる。
「お茶を飲みますか?」
「飲む」
短い返事だった。
エアリスは呼び鈴を鳴らし、温かい茶と甘いものを頼んだ。やがて出されたのは、小さな焼き菓子だった。赤い果実のジャムが中央に乗っている。
「これ、聖都で買った干し苺とは違いますね」
エアリスが見ると、セリナが顔を上げた。
「帝国の赤実。苺に似てるけど、少し酸っぱい」
「好きです」
「まだ食べてないでしょ」
「見た目が」
セリナは疲れた顔のまま笑った。
「ほんと、たまに変なところで素直だよね」
エアリスは焼き菓子を半分に割り、一つをセリナの皿へ置いた。
「では、食べてから判断します」
「はいはい」
セリナは菓子を口に運んだ。
しばらく、湯気だけが上がっていた。
急いで話す必要はなかった。
セリナは焼き菓子をもう一つ取り、半分に割った。
今度は、自分からエアリスの皿へ置く。
「お返し」
「ありがとうございます」
「こういう時、甘いものって偉いよね」
「偉い」
「うん。だいたいの話を、しばらく後回しにしてくれる」
エアリスは赤い実のジャムを見た。
「では、今日は偉いものが必要ですね」
「かなり必要」
セリナはそう言って、ようやく表情を緩めた。
「会議は、難しかったですか?」
「難しいっていうか……家の中で、家の話だけをしてるはずなのに、帝国全体の話になる」
セリナは茶器を両手で持った。
「叔父上は、上皇陛下の考えに近い。母上も、強くは言わないけど、父を説得したそうだった。ほかの親戚も、似たような感じ」
「お父様は?」
「反対寄り。だけど、家の中を割ることもできない」
セリナの息が、茶器の湯気をわずかに揺らした。
「父上は厳しい人だけど、私を駒みたいには扱わない。だから、余計に重い」
茶器の縁に、セリナの指が触れた。
「今日、ライオネル殿下の名前も出た」
エアリスはセリナを見た。
「昨日、中継所の掲示にあった方ですね」
「うん。第二皇子。今は、上皇派が皇位候補として押している人。母上の血筋から見ても、私が顔を出すこと自体はおかしくないの。グランツベルク家の娘としても、失礼ではない」
セリナはそこで、茶器の縁を指で軽く叩いた。
「だから困る。明らかにおかしければ断れるのに、形だけなら全部きれいなんだよね」
エアリスは、焼き菓子の皿を少し寄せた。
セリナは礼を言わず、ひとつ取った。親しい相手にだけ見せる雑さだった。
「叔父上は、若い貴族の集まりに顔を出せって。ライオネル殿下も来るかもしれないし、来なくてもその側の人たちは来る。父上は返事を保留した。でも、保留したことも、たぶんもう外へ出る」
「若い方々の集まりですか」
「うん。名目は外縁功労者交流会。外縁計画に関わる家の若い人たちが集まるの。上皇派、反対派、中立の家、みんな少しずつ顔を出す」
セリナの声は疲れていたが、説明は途切れなかった。
「若い人たちだけの軽い場に見えて、家の態度が出る。誰と話したか、誰の席に近かったか、誰の言葉に笑ったか。そういうものが、全部あとで誰かの材料になる」
「昨日のエーレンフェルト卿も」
「たぶん、その先触れ。本人は少し浮いてるけど、家は浮いてない。だから面倒」
セリナは菓子をかじった。
「帝国の若い貴族は、だいたい頭も腕もそれなりにあるよ。そうじゃないと、家の名前を背負って前に出してもらえない。ただ、時々いるの。自分が先に踏み込めば、家に褒められるって思う人」
「昨日の方は、その一人ですか」
「たぶんね。周りに、もっと見てる人がいたでしょ」
「はい」
「そっちの方が、たぶん本番」
エアリスは黙って聞いた。
エアリスは、茶器の中で揺れる琥珀色の水面を見た。
「セリナさんは、どうしたいですか?」
セリナの手が止まる。
「私?」
「はい」
「……分からない。家を守りたい。父上も母上も困らせたくない。でも、誰かが決めた場所へ、入っていくのは嫌」
そこまで言って、セリナは口元を緩めた。
「子どもっぽいかな」
「いいえ」
「本当に?」
「はい。自分の行き先を自分で考えるのは、子どもっぽいことではないと思います」
セリナはしばらくエアリスを見ていた。
それから、机に突っ伏す。
「エアリス、今日だけ少し甘やかして」
「何をすればいいですか?」
「そこにいて」
「分かりました」
エアリスはそのまま、席を立たなかった。
窓の外では、屋敷の中庭に午後の光が落ちている。
会議室の方からは、まだ人の出入りする気配があった。
セリナは顔を伏せたまま、ぽつりと言った。
「母上は、悪い人じゃないの」
「はい」
「上皇陛下は、母上の父親だから。母上からすれば、ただの政治の相手じゃない。だから、父上と母上の間にいると、どっちかを選べって言われてるみたいになる」
「セリナさんは、選びたいのですか?」
「選びたくない。でも、選ばないままでいると、誰かが勝手に私の場所を決める」
セリナは顔を上げた。
目元に涙はない。
ただ、疲れていた。
「だから、少し考える。すぐには決めない」
「はい」
「エアリスも、変だと思ったら言って」
「分かりました」
「でも、危なかったら止めて」
「努力します」
「そこは約束してほしいんだけど」
「約束します」
セリナはそこで、ようやく笑った。
その笑みを見て、エアリスは茶を注ぎ足した。
「もう一杯、飲みますか?」
「うん」
「甘いものも?」
「それは……食べる」
「はい」
エアリスが焼き菓子の皿を寄せると、セリナは小さく礼を言った。
公爵家の娘ではなく、学術院で隣に座る友人の声だった。
セリナは顔を伏せたまま、小さく言った。
「明日は叔父上が来ると思う」
「はい」
「たぶん、もっと面倒な話になる」
「では、今日のうちに休んでください」
「……そうする」
その返事は、学術院で聞く彼女の声より少し幼かった。




