第三十一話:グランツベルク邸
帝都の道は広かった。
馬車の窓から見える街並みは、ラウグラよりもさらに重かった。赤銅の屋根、黒鉄の門、火を象った飾り。通りは広く、建物の高さも大きく乱れていない。街角には兵が立ち、広場では若者たちが木剣を振っていた。
商人の声があり、子どもの笑い声があり、香辛料を焼く匂いがあった。通りには旅人も多い。
グランツベルク公爵家の帝都邸は、内城に近い区画にあった。
高い塀に囲まれた大きな屋敷だった。門柱には公爵家の紋章が刻まれ、左右には護衛が立っている。豪奢だが、飾りは少ない。
門をくぐると、広い前庭があった。
花よりも、石と芝が多い。端には訓練用の的が並び、槍を持った護衛が二人、静かに型を確認している。客を迎える庭で、槍の穂先だけが朝の光を拾っていた。
神像の代わりに、磨かれた武具が玄関脇に置かれている。
「ただいま」
セリナが馬車を降りると、使用人たちが一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、セリナお嬢様」
その声に、セリナの背筋が伸びる。
学術院で見る彼女とは違う顔だった。
明るく、気さくで、誰にでも声をかける少女。
その奥に、公爵家の娘として育てられた姿がある。
「こちらがエアリス・アウレリア・ヴァレン。聖都の友人よ」
セリナが紹介すると、年配の執事が深く一礼した。
「ようこそお越しくださいました、ヴァレン様。滞在中、ご不便のないようお世話いたします」
「よろしくお願いします」
エアリスも礼を返した。
屋敷の中は静かだった。
床は磨かれた赤石で、壁には歴代当主や軍人の肖像画が並んでいる。聖都の邸宅よりも色が濃い。白い光ではなく、火の明かりが似合う場所だった。
肖像画の多くは、武具を身につけている。
剣を持つ者、杖を持つ者、軍旗の前に立つ者。中には女性の当主もいた。帝国では性別よりも力と実績が重んじられると聞いていたが、その言葉は壁にも残っている。
「見てるね」
セリナが小声で言った。
「はい。皆さん、強そうです」
「強かったんだと思う。たぶん、今の私よりずっと」
「セリナさんも強いです」
「まだ第三階位だよ」
「もう第三階位です」
セリナは返事に困ったように笑った。
「そう言われると、ちょっと逃げにくいな」
客室へ案内される途中、セリナが小声で言った。
「緊張してる?」
「少し」
「ごめんね。うち、ちょっと堅いから」
「いいえ。歩く場所が分かりやすいです」
「そこ?」
「廊下が広いので」
セリナは一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「あなたのそういうところ、好き」
客室は落ち着いた部屋だった。
机、寝台、衣装棚、小さな書架。窓からは中庭が見える。中庭には訓練用の石畳があり、遠くで護衛が動いていた。
窓際には、客人用の呼び鈴が置かれていた。銀ではなく黒鉄でできている。取っ手にはグランツベルク家の紋が刻まれ、内側の術式が淡く光っていた。
「困った時はそれを鳴らして。侍女か護衛が来るから」
「護衛も来るんですか?」
「ここは帝国の公爵邸だからね。お茶より先に護衛が来ることもある」
セリナは冗談のように言った。
冗談に聞こえる。
けれど、この家なら本当にそうなる。
書架には、帝国の地誌と簡単な礼法書が置かれていた。客人用らしい。エアリスは背表紙だけを見て、あとで読むものを決めた。
「先に言っておくけど」
セリナが扉の前で振り返った。
「父上は怖く見える。でも、怒ってるわけじゃない時も怖い顔だから」
「分かりました」
「母上は優しいけど、話を流すのがうまい。叔父上は……」
そこで止まる。
「叔父上は?」
「会ってから判断して」
エアリスは荷物の紐を指で押さえた。
セリナはそれ以上、叔父のことを話さなかった。
エアリスが荷物を置くと、カバンの中からアキが声だけを出した。
「いい部屋だね。壁が厚い」
「出ないでください」
「はいはい」
魔導書は、それきり閉じたままだった。
夕食は本館の食堂で取ることになった。
長い卓の上には、帝国料理が並んでいた。厚く焼いた肉、赤い豆の煮込み、香草の強いスープ、焦げ目をつけた根菜。聖都の食事より、どれも香りが強く、腹にたまりそうだった。
席にはすでに、セリナの父と母がいた。
父、オスカー・レオニス・グランツベルク。
厳しい顔立ちの男だった。年齢は読みにくい。ただ座っているだけで、部屋の中心がそこへ定まる。
母、エレオノーラ。
柔らかな雰囲気の女性だった。襟元の宝飾と袖の刺繍には、皇室の意匠が小さく入っている。セリナの明るさには、母に似ている部分があった。
「戻ったか、セリナ」
「はい、父上」
オスカーはセリナの顔色を見てから、エアリスへ目を向けた。
「ヴァレン嬢。遠路ご苦労だった」
「お招きいただき、ありがとうございます」
「娘が世話になっている」
「私の方が、お世話になっています」
オスカーはエアリスをしばらく見た。
視線は、家名より先に姿勢と声の間を測っていた。
エアリスは姿勢を崩さず、その視線を受けた。
食事が始まる。
皿を取る順番、会話の間、視線と席順。
かつて父に言われた言葉が、食器の音に紛れて戻ってきた。
エアリスはナイフを置く位置を、そっと直した。
エアリスは、皿の置き方より先に、席に座る人たちの表情を見た。
「帝都は初めてかしら」
エレオノーラが穏やかに尋ねた。
「はい」
「どう見えました?」
エアリスは言葉を選んだ。
「道が広くて、食べ物の味がはっきりしています」
セリナが横で小さく吹き出しかけた。
エレオノーラは目を細める。
「率直なのね」
「申し訳ありません」
「いいえ。帝国料理は実際、味が強いもの」
セリナがスプーンを皿の端へ置いた。
「セリナは聖都で、きちんとやれているかしら」
「母上」
「母親ですもの。聞くくらいはいいでしょう」
エレオノーラは悪びれずに言った。
セリナは恥ずかしそうに視線をそらす。
エアリスは答えを選んだ。
「セリナさんは、誰とでも自然に話せます。授業でも実技でも、周りをよく見ています」
「褒めすぎ」
「事実です」
エレオノーラは嬉しそうに笑った。
「そう。娘のことを、よく見てくださっているのね」
エレオノーラは笑ったまま、セリナの方へ一度だけ目を向けた。
セリナは少し肩をすくめ、皿の端へ視線を落とす。
だが、長くは続かなかった。
オスカーが肉を切り分けながら、短く尋ねた。
「ヴァレン嬢は、魔法の実技も受けているのか」
「はい。まだ基礎が中心です」
「聖都のAクラスで基礎か」
「知らないことが多いので」
オスカーは茶器の縁から指を離した。
「知らないことが多いと自分で言える者は、伸びる」
「ありがとうございます」
「だが、帝国では知識だけでは足りん。力を持つ者が、持たぬ者より先に倒れることもある。覚えておきなさい」
「はい」
オスカーはそこで茶器を置き、エアリスをまっすぐ見た。
セリナが驚いたように父を見る。オスカーはそれに気づいているはずだが、何も言わなかった。
オスカーがセリナへ視線を戻した。
「明日は家の会議に出なさい」
「……はい」
「聞くだけでいい。だが、自分の家で何が話されているかは知っておけ」
「分かりました」
セリナの返事ははっきりしていた。
けれど、指先が止まっていた。
「ヴァレン嬢には、客室と庭、それから客人用の書室を使えるようにしておく」
「ありがとうございます」
「家の内輪の話になる。退屈させるかもしれん」
「本があれば、大丈夫です」
オスカーは初めて、わずかに眉を動かした。
「そうか」
それが笑みだったのかどうかは、分かりにくかった。
「父上、エアリスは本当に本が好きなんです」
セリナが言った。
「初日から図書館に閉館までいたくらいで」
「セリナさん」
「事実でしょ」
「事実ですが」
エレオノーラが口元に手を添えて笑った。
「それなら、屋敷の書室も退屈しないかもしれませんね」
「ありがとうございます」
「ただし、家の機密に触れる棚は閉じてあります」
「はい。開いている棚だけ読みます」
エアリスが真面目に答えると、セリナはまた笑いそうになった。
セリナはパンを取り、ようやく一口かじった。
食事の終わり近く、エレオノーラが思い出したように言った。
「ライムントも近いうちに顔を出すそうです」
その名が出た瞬間、セリナの表情がわずかに硬くなった。
「叔父上が?」
「ええ。あなたが戻ったと聞いて、挨拶をしたいと」
オスカーは何も言わない。
セリナはそれ以上聞かなかった。
エアリスの目には、セリナが膝の布を小さく握ったところだけが残った。
エレオノーラは茶器を取った。
「それと、ライオネル殿下の側からも、若い方々の集まりへ顔を出せないかと打診がありました」
セリナの指が、今度ははっきり止まった。
「母上」
「正式な場ではありません。ご挨拶だけよ」
声は柔らかい。けれど、食卓の席順がそのままセリナの背を押していた。
「若い方々の集まり、か」
オスカーが低く言った。
食器の音が一つ消えた。
「外縁計画に関わる家の者が同席するなら、顔を合わせただけでも記録に残る」
「でも、顔を合わせるだけなら」
エレオノーラの声は変わらない。
「臨時議会でも、若い世代の協力が必要だと話されているそうです。ライオネル殿下は、その声をよく聞いておられるとか」
「臨時議会で決めることと、娘を席へ出すことは同じではない」
オスカーはナイフを置いた。
音は小さい。
だが、誰も聞き逃さなかった。
「皇帝陛下の不在を理由に、あらゆる話を急がせる者がいる」
エレオノーラは膝の上の手袋を握った。
聖都で確かめた系譜の写しにも、エレオノーラの名は上皇ヴォルフラムの娘として載っていた。
その事実は、食卓の上には置かれていない。
置かれていないからこそ、誰も避けて通れなかった。
オスカーは少し間を置いた。皿の上に置いたナイフの刃が、灯りを細く返している。
「まだ返事はしていない」
彼はそう続けた。
「セリナが戻ったばかりだ。顔を出すかどうかは、明日の話を聞いてから決める」
エレオノーラは微笑んだ。
「ええ。急がせるつもりはありません」
その言葉を、誰もそのまま受け取らなかった。
夕食が終わり、客室へ戻る途中、セリナはいつもより口数が少なかった。
廊下の途中で、セリナは足を止めた。
壁に掛けられた一枚の肖像画を見上げる。
若い女性が軍装で立っている絵だった。炎の紋章と、公爵家の紋章が並んで描かれている。
「この方は?」
「三代前の当主。女性だけど、当時の東方方面軍をまとめてた人」
「すごい方ですね」
「うん。小さい頃、よくこの人みたいになりなさいって言われた」
「なりたいですか?」
セリナは考えた。
「かっこいいとは思う。でも、誰かの絵みたいになりたいわけじゃない」
エアリスはセリナの横顔を見た。
「では、セリナさんのままでいいと思います」
「簡単に言うね」
「難しく言う必要がありますか?」
セリナは笑った。
今度は、力の抜けた笑みだった。
「疲れましたか?」
「ちょっとね」
「今日は、もう休みますか」
「うん。……でも、明日が終わったら、帝都も案内する。堅いところばかり見せたくないから」
「楽しみにしています」
エアリスが言うと、セリナはやっと笑った。
「約束」
「はい」
廊下の先で、使用人が静かに灯りを落としていた。
赤い屋敷の夜は、聖都よりも灯りが低く、暖かかった。




