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鳥籠の令嬢は、神と悪魔を連れて世界の嘘を旅する ~政略結婚の前夜、地下牢で始まった神授物と邪教の巡礼譚~  作者: 0くるみ0
ガイア帝国編

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第二十九話:赤銅の街

 ラウグラの到着場を出ると、乾いた風がもう一度頬を撫でた。


 聖都の風とは違う。


 石と香油の匂いではなく、赤土と鉄と、どこかで焼けている肉の匂いが混じっていた。


 駅舎の外には、馬車の列があった。馬車といっても、ローゼンベルク家の城で見たものとは違う。車輪の側面に小さな魔導具がはめ込まれ、車体の下を薄い赤い光が走っている。引いている馬も大きく、首筋に淡い紋様が浮かんでいた。


「帝国馬よ」


 セリナは馬の首筋を顎で示した。


「普通の馬より速い。ラウグラみたいな中継都市だと、荷と人を動かす数が多いからね」


「馬も、魔法を使うんですか?」


「使うというより、体に魔力が通りやすいの。車体の魔導具と合わせると、長く走れる」


 エアリスは馬の首の紋様を見た。


 馬は視線に気づいたのか、鼻を鳴らした。


「怒らせたでしょうか」


「たぶん、見られ慣れてるだけ」


 セリナは笑った。


 迎えの護衛が、赤銅色の馬車の扉を開ける。グランツベルク家の紋章が小さく刻まれていた。翼を広げた獣と、炎を思わせる曲線。聖都の白と金の紋章に比べると、ずっと硬い印象だった。


 馬車が動き出す。


 到着場は市中心に近いらしく、すぐに店の多い通りへ入った。赤銅の屋根。灰白色の壁。黒鉄の梁。深紅の布旗。遠くから見ると橙色の街に見えるのに、近くで見ると一つの色ではない。赤い土の上に、鉄と石と布が重なっている。


「ラウグラは帝都じゃないけど、帝国に入った感じはするでしょ」


「はい」


 エアリスは窓の外を見たまま答える。


「白くありません」


「最初の感想、それなんだ」


「聖都は白かったので」


「まあ、ここは赤いかな。焼けた色っていうか」


 セリナは窓枠に肘を置いた。


「商人が多い街。あと、軍の通り道。帝都へ行く人も、魔淵方面へ向かう荷も、いったんここを通ることが多いの」


 通りの端を、兵たちが進んでいく。周囲の人々は慣れた様子で道を空けた。誰かが怒るでもない。商人は荷を少し引き、屋台の男は鍋を持ち上げ、子どもは母親に袖を引かれて下がった。


 軍人が通ると、人の流れは黙って左右へ割れた。


 エアリスはその動きを目で追った。


 馬車は商会街の横を抜け、少し奥まった通りへ入った。大きな屋敷が並んでいるわけではない。商館と邸宅の中間のような建物が多い。表には店や事務所があり、奥に住居があるのだろう。


 やがて、赤銅の門を持つ建物の前で馬車が止まった。


「ここがうちのラウグラ支邸」


 セリナが言った。


 門は大きいが、威圧的ではない。商人や護衛が出入りしやすいよう、正門の横に貨物用の小門もあった。門番が敬礼し、中へ通される。


 玄関では、年配の執事が待っていた。


「お帰りなさいませ、セリナ様」


「ただいま。予定より物々しいね」


「旦那様から、本日は支邸でお休みになるようにと。帝都へ向かう馬車の準備は整えております」


「封書は?」


「封書が一通。それと、ライムント様からも使いが」


 セリナの口元が、一瞬だけ止まった。


「あとで聞く」


「かしこまりました」


 執事はそれ以上、言わなかった。視線だけが一瞬エアリスへ向けられる。値踏みではない。どう扱うべきかを確認する目だった。


「こちらはエアリス。聖都での友人。私の客人として扱って」


「承知いたしました。エアリス様、ようこそお越しくださいました」


「お世話になります」


 エアリスが礼を返すと、執事は深く頭を下げた。


 荷を置き、軽く身支度を整えた後、セリナはすぐに言った。


「街を見に行こう」


「今からですか?」


「うん。家の話だけで帝国初日を終わらせるのは、もったいない」


 声は明るい。


 ただ、さっきのライムントという名を聞いた時の顔を、エアリスは忘れなかった。


「セリナさんは、大丈夫ですか?」


「大丈夫」


 返事は早かった。


 それからセリナは、少し考えて言い直す。


「大丈夫にするために、今日は先に街を歩く。そういう日も必要でしょ」


「分かりました」


「分かるの早いね」


「理由は、だいたい分かります」


「そういうところ、たまにずるい」


 セリナは笑って、外套を羽織った。


 その結び目が、少し曲がっていた。


 エアリスは手を伸ばし、黙って直した。


「……ありがとう」


「はい」


「今の、何か言ってくれてもよくない?」


「街を案内してくださるので」


「理由が真面目」


 セリナは小さく息を抜いた。


 護衛は二人だけついた。公爵家の令嬢にしては少ないのかもしれない。それでも、セリナはそれで十分だと言った。


 最初に向かったのは、赤銅門通りだった。


 長い通りの両側に、商会の看板が並んでいる。武具店、馬具店、香辛料店、旅装店、鉱石商、魔導具の修理屋。聖都の店は白い石と硝子の明るさが目立ったが、ここでは金属の看板が多かった。赤銅、黒鉄、真鍮。日差しを受けると、それぞれ違う色に光る。


「ここは高い店が多いの」


 セリナが言う。


「軍人向けのいい装備とか、商会長が使う馬車とか、貴族向けの旅装とか。見るだけでも面白いよ」


「買わないんですか?」


「今日は買わない。買い始めると長いから」


「そうなんですね」


「エアリスも、気をつけて。帝国の店は勧め方が強い」


 その言葉の直後、店の前にいた男が笑顔で近づいてきた。


「お嬢様方、旅装をお探しですか? こちらは魔淵方面の乾燥風にも耐える上物で――」


「見てるだけ」


 セリナが即答した。


 男は一瞬で引いた。


「ごゆっくりどうぞ」


 エアリスはその切り替えを見た。


「早いですね」


「押すけど、断られ慣れてるの」


「帝国らしいです」


「まだ初日なのに、もう帝国らしさを覚え始めてる」


 セリナは満足そうだった。


 次に入ったのは、肉を焼く店だった。


 火炉広場に面した店で、入口から赤い火が見える。大きな鉄板の上で、厚い肉が音を立てていた。香辛料の匂いが強い。聖都の料理より、ずっとはっきりしている。


「ラウグラに来たら、赤銅焼き」


 セリナは当然のように言った。


「赤銅を食べるわけではないですよね」


「もちろん。色が赤銅っぽいだけ」


 席に着くと、すぐに皿が運ばれてきた。焼いた肉に赤い香辛料が振られ、横には黒パンと焼き野菜が添えられている。セリナは慣れた手つきで肉を切り、エアリスの皿へ少し分けた。


「辛い?」


「少し」


「聖都の味に慣れてると、たぶん強いよ」


 エアリスは肉を口へ運んだ。


 熱い。


 香ばしい。


 それから、辛い。


 セリナが水差しを少し近づけた。


 エアリスは水を取った。飲んでから、もう一度肉を見た。


「……強い味です」


 カバンの中で魔導書が、かすかに開いた。


「負けた?」


「負けてはいません」


「水に逃げたよね」


「水は食事の一部です」


 アキは隣席までは届かない声で小さく笑い、すぐに黙った。


 セリナは口元を押さえている。


「気に入った?」


「はい。二口目から、おいしさが分かってきました」


「それは気に入った人の言い方なのかな」


「たぶん」


 エアリスはもう一切れ、肉を食べた。


 店の中は賑やかだった。商人、護衛、兵、職人らしい者たちが同じ空間で食べている。聖都の食堂より声が大きい。笑う時も、文句を言う時も、隠さない。


 近くの席で、軍需商らしい男たちが低い声で話していた。


「また検査だってよ。魔淵外縁安定化計画のせいで、荷が半日止まった」


「魔淵が荒れてるなら仕方ないだろ」


「仕方ないで税も人も増やされちゃ、商売にならん」


「でも軍需は増える。悪い話ばかりでもない」


「その割に、正式装備の話が薄い。増えてるのは救護品や簡易品ばかりだ。兵を増やすって話のわりに、変なところで渋い」


 エアリスは手を止めなかった。


 ただ、声だけを拾った。


 セリナも聞こえていたらしい。肉を切る手がわずかに止まった。


「この街は、商人の噂が早いの」


 セリナが小さく言う。


「本当かどうかは、別だけど」


「覚えておきます」


「うん。今はそれでいい」


 食事を終えると、二人は黒鉄商会街へ向かった。


 赤銅門通りよりも、こちらは荷と帳簿が前に出ていた。荷車が並び、商人が帳簿を広げ、護衛契約の札が壁に掛けられている。鉱石の見本が硝子箱に収められ、鎧の部品や馬車用の魔導具が所狭しと並ぶ店もあった。


 途中で、赤い布を張った掲示板が目に入った。


 傷病騎士支援。


 慰霊基金。


 赤炉会。


 その文字の下には、傷を負った騎士へ手を差し伸べる炎の紋章が描かれている。


「赤炉会」


 エアリスが読むと、セリナが横から見た。


「帝国では有名な支援団体。傷を負った騎士や、亡くなった兵の家族を助けるところ」


「軍の組織ではないんですか?」


「民間寄り。でも軍とも近い。昔から寄付してる家は多いよ。うちも関係がないわけじゃない」


「そうですか」


 掲示板にある限り、助ける側の団体だった。


 エアリスはそれ以上、何も言わなかった。


 広場の方へ出ると、木剣を振る少年たちがいた。年はさまざまだ。まだ幼い子もいれば、学術院の学生と同じくらいに見える者もいる。隅では、退役したらしい片腕の男が姿勢を直していた。


「帝国では、子どももよく鍛えるんですね」


「全員じゃないけど、鍛える人は多い」


 セリナは広場を見た。


「強いことは、分かりやすい価値だから」


「分かりやすい価値」


「うん。帝国では特にね。家柄も財も大事だけど、最後に見られるのは力。魔法でも、剣でも、判断でも、戦場で逃げないことでも」


「セリナさんも、そう思いますか?」


「思う。思うけど、それだけだと息が詰まる」


 セリナは言った後で、苦笑した。


「今のは、帝国の娘っぽくないかも」


「いいと思います」


「何が?」


「息が詰まると分かっていることです」


 セリナは何か返そうとして、やめた。


「……ほんと、たまに答えにくいことを言うね」


「すみません」


「謝るところじゃない」


 二人は広場の端にある水場で手を洗った。水は冷たく、鉄の匂いがした。聖都の水路ほど澄んではいない。でも、手を洗うには十分だった。


 帰り道、セリナは歩調を少し落とした。


「エアリス」


「はい」


「うちの家のこと、たぶん明日から少し見えると思う」


 セリナは前を向いたまま言う。


「父は、今の帝国の流れに賛成してない。でも、家の中が全部同じ方向を向いてるわけじゃない。母は皇室の血を引いてるし、叔父は……父とは違う考え方をしてる」


「ライムント様、ですか」


「聞いてた?」


「はい」


「そっか。そういうところ、聞き逃さないよね」


「聞こえました」


「責めてない」


 セリナは短く笑った。


「叔父は悪い人じゃない。たぶん。ただ、帝国では家を守る方法が人によって違う。父は父のやり方で守ろうとしてるし、叔父は叔父のやり方で守ろうとしてる」


「セリナさんは?」


「私は……まだ決めきれてない」


 セリナはそこで言葉を切った。


 いつもなら、もう少し明るく言い切る。


「ただ、誰かに勝手に決められるのは嫌」


「それは分かります」


 エアリスは静かに答えた。


 セリナは横目でエアリスを見る。


「そっか。あなたは、分かるよね」


「はい」


 二人はそれ以上、すぐには話さなかった。


 支邸へ戻る道の手前で、護衛の一人が足を止めた。


 赤銅門通りから一本外れた、貴族用の車寄せに近い場所だった。商人の声は遠くなり、かわりに磨かれた馬車の車輪と、控えている護衛の靴音が目立つ。


 若い男が、そこに立っていた。


 年はセリナより少し上に見える。赤茶の髪をきれいに撫でつけ、胸元には小さな炎の飾り釦。礼装は整っているが、立ち方だけが少し前のめりだった。


「セリナ嬢」


 彼は笑顔で頭を下げた。


「お戻りになったと聞いて、まずはご挨拶をと思いまして」


 護衛の肩がわずかに動く。


 セリナは一瞬だけ目を細め、それから公爵令嬢の顔になった。


「エーレンフェルト卿。お久しぶりです」


 エアリスはその名を覚えた。


 若い男、マティアス・エーレンフェルトは、礼を解くとすぐにエアリスへ視線を移した。値踏みほど露骨ではない。けれど、知らない客を見つけた時の遠慮の薄さがあった。


「そちらが、聖都からのお連れ様ですか」


「エアリス・アウレリア・ヴァレン。私の友人です」


 セリナの声は明るい。


 その明るさの端が、少し硬い。


「聖都の方が帝国へ。よい時に来られましたね。今の帝国は、魔淵を前にして若い力を必要としています」


 マティアスは用意していた言葉を置くように続けた。


「ライオネル殿下も、セリナ嬢のご帰国をお喜びになるでしょう。グランツベルク家ほどの家なら、当然、外縁安定化計画を支えてくださるものと」


 護衛が半歩だけ位置を変えた。


 セリナはその動きを目だけで止めた。


「家の正式な判断は、父がいたします」


 声は穏やかだった。


「私は今日は、友人にラウグラを案内しているだけです」


「もちろん。ただ、若い世代にも気概は必要でしょう。帝国の危機を前に、沈黙は時に誤解を生みます」


 マティアスは笑った。


 勝ったつもりの笑みだった。


「聖都の方には、帝国の前線は遠く見えるかもしれませんが」


 セリナの指が外套の端を押さえた。


「第一皇子殿下の周りは慎重なお考えが多いようですが、慎重さだけで魔淵は待ってくれません。今、若い世代が誰の旗の下に立つかは、大事なことです」


 マティアスは言いながら、少し得意そうに胸を張った。


 言葉の中身は、彼自身が考えたものだけではない。


 誰かから聞いた句を、磨ききれないまま持ってきたように聞こえた。


 エアリスは、マティアスを見た。


「前線に戻る方々は、その計画の中身をどこまで聞いているのですか」


 声は、広場の音に紛れそうな高さだった。


 マティアスの笑みが止まる。


「それは、軍務と赤炉会の正式な説明が――」


「では、説明はもう始まっているのですね」


 エアリスは首を傾げなかった。声も上げなかった。


「傷を負った方も、新しく向かう方も、ご家族も、同じだけ聞いているのでしょうか」


 マティアスの指が、礼装の袖口で止まった。


 遠くで、車輪の音がした。


「……もちろん、必要な説明はなされるはずです」


「そうですか」


 エアリスは視線を外さなかった。


「では、慎重さは前線を軽く見ることではなく、前線へ行く方々が何を選ぶのかを確かめることでもあるのですね」


 マティアスは答えなかった。


 答えられないのではなく、答える言葉をまだ持っていない顔だった。


 それで会話は終わった。


 少なくとも、続けるには不格好な形になった。


 セリナは短く礼をした。


「お気遣いありがとうございます。父にも、エーレンフェルト卿からご挨拶があったと伝えておきます」


 マティアスの笑みが、一瞬だけ遅れた。


 父の耳へ届く。


 その意味を飲み込んだのか、マティアスの喉が小さく動いた。


 エーレンフェルト家の挨拶として残る。


「それでは、失礼いたします」


 セリナは歩き出した。


 護衛が後ろへ続く。エアリスも隣を歩いた。


 角を曲がる直前、エアリスは一度だけ振り返った。マティアスはまだそこに立っていたが、その後ろにいた別の青年が、すでに誰かへ短い伝言を送っていた。袖口の内側で、淡い赤が一度だけ滲む。


 その青年は、マティアスを慰めもしなかった。


 失敗を責める顔でもない。


 ただ、得た反応を持ち帰る者の目をしていた。


 セリナも気づいていた。


「早いね」


 声は小さかった。


「先ほどの方は、ライオネル殿下の近くの方ですか」


「近い、というほどじゃない。けど、エーレンフェルト家は最近、そちらに寄ってる」


「では、今の会話も」


「たぶん、どこかへ届く」


 セリナは笑おうとして、失敗した。


「帝国は、休ませるのが下手なの」


 支邸へ戻る頃には、夕方の光が街をさらに赤くしていた。赤銅の屋根が低く光り、黒鉄の看板が影を落とす。昼より人の声は落ち着いたが、完全には静まらない。荷を積み直す商人、兵へ食事を運ぶ少年、店仕舞いを始める職人。


 ラウグラは、夜になる前にもまだ動いていた。


 玄関に戻ると、執事が封書を持って待っていた。


「セリナ様。ライムント様より、帝都邸へ戻られた後にご挨拶を、と」


 セリナは封書を受け取った。


「帝都で?」


「はい。セリナ様のお連れ様にも、ご挨拶を、と」


 セリナの目が細くなる。


「早いね」


「先ほど使いが参りました」


 封はまだ開いていない。


 セリナは封を見るなり、まぶたを少し伏せた。


 エアリスは何も言わず、隣に立っていた。


 カバンの中で、魔導書の頁が一枚だけ鳴る。


「帝国初日、濃いね」


 アキの声は低く、軽い。


 セリナは封書を見たまま、息を吐いた。


「さっきも言ったけど、帝国は休ませるのが下手なの」


 冗談めかした言い方だった。


 でも、笑ってはいなかった。


「今日は、休んでください」


 エアリスが言うと、セリナは封書から目を上げた。


「命令?」


「お願いです」


 セリナは封書の端を親指で押さえ、それから肩の力を抜いた。


「じゃあ、聞いておく」

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