第二十八話:聖都を発つ朝
出発前日の朝、ゼニスクライムの私邸には、旅の荷が並んでいた。
多くはルセリアが用意したものだった。
身分証の写し、学生証、移動届の控え、教廷推薦書、テレポート陣の保護許可、ガイア帝国側の通行確認。書類は薄い箱に分けられ、どの順番で出すかまで記されている。
衣類は少ない。
必要な本も、数冊だけ。
エアリスはカバンの中身を一つずつ確認した。
「本当に、それだけでいいの?」
アキが魔導書から顔を出す。
「はい。重くなります」
「僕がいる時点で、普通の荷物じゃないけど」
「アキさんは本です」
「本扱いが定着してきた」
机の上の黒曜石の小さな棺が低く光った。
「無駄な荷は減らせ。旅先で身軽であることは悪くない」
「ノクティラさんも、荷物になるものはありますか?」
「我を荷物と呼ぶな」
「失礼しました」
エアリスは素直に謝った。
アキが笑いをこらえる。
ノクティラはそれを無視した。
午前中、ルセリアはエアリスを連れて聖都の学区中心へ出た。
移動には高級魔導馬車を使った。馬車は白い石の通りを滑るように進み、窓の外には光神祭の片づけを終えた店が並んでいる。白花の飾りは減ったが、香油や菓子を売る店先にはまだ祭の名残があった。
「今日は買い物ですか?」
「足りないものを確認するだけよ」
ルセリアはそう言ったが、確認だけでは終わらなかった。
旅用の手袋。
簡易浄化札。
ガイア帝国の乾いた地域で使う布。
予備の筆記具。
小さな薬包。
学生証を入れる首掛けの札入れ。
どれも派手ではない。使う場面ははっきりしている。
「多いですね」
「多く見えるだけ。あなたが困らないための最低限よ」
「最低限」
「大主教の最低限は、少し多いかもしれないわ」
ルセリアは自分でそう言って、短く笑った。
店の主人はルセリアを見て緊張していたが、彼女は特別扱いを求めなかった。必要なものを選び、代金を払い、包みを受け取る。包みを渡す店主の手だけが硬かった。
エアリスはその様子を見ていた。
権威を持つ人が、普通に買い物をする。
それは、城では見なかった景色だった。
学区中心の通りは、休暇前の学生で賑わっていた。修繕店、中古の魔導具店、実技用具の店、文具店。
どの店にも、休暇前の学生がいた。実家へ持ち帰る土産を選ぶ者、訓練用具を買い替える者、友人と菓子を分ける者。Aクラスの学生も普通課程の学生も、店先では同じように品を見ている。
「学術院の外にも、学術院の生活があるんですね」
「ええ。学校は校舎だけでは成り立たないもの」
ルセリアは筆記具を選びながら言った。
「周りに店ができ、人が集まり、仕事が生まれる。学術院は、聖都の一部でもあるのよ」
エアリスは、文具店の棚に並んだインク瓶を見た。
城の書庫にあったものより種類が多い。
「一つ買ってもいいですか?」
「もちろん」
エアリスは、深い赤のインクを一つ選んだ。
ガイア帝国で使うために。
昼過ぎ、エアリスは学術院へ向かった。
セリナと、出発前の最後の確認をする。
Aクラスの教室では、帰省の予定を話す者、課題を確認する者、休暇中の実習先を相談する者がいた。声は抑えめなのに、椅子を引く音だけが落ち着かない。
黒板の端には、休暇中の連絡先と提出物が書かれていた。
見聞報告。
魔力制御記録。
読書課題。
希望者向け実技補講。
セリナはそれを見て、顔をしかめた。
「休暇って何だろう」
「休む期間では?」
「学術院の休暇は、休みながら勉強する期間だね」
「では、正しいのでは」
「エアリスに聞いたのが間違いだった」
セリナは窓際で、帝国から届いた旅程を見ていた。
「最初は、ラウグラだって」
「ラウグラ」
「帝都より北西。帝都直通より自然だって、マグヌス学院長が言ってた場所」
「グランツベルク家の方が迎えに来るんですか」
「うん。家の馬車が来る。たぶん、護衛も」
セリナは紙を畳んだ。
「緊張してる?」
エアリスが聞くと、セリナは目を丸くした。
「私が聞く側かと思ってた」
「聞きたかったので」
「してるよ」
セリナは正直に答えた。
「でも、帰るのをやめたいとは思ってない」
「はい」
「あなたは?」
「私は、知らない場所へ行くので、楽しみです」
「そこは楽しみなんだ」
「はい」
セリナは笑った。
「それ、ちょっと安心する」
セリナは机に広げた旅程を指で叩いた。
「ラウグラは、まだ帝都じゃない。だから、最初に見る帝国はたぶん、軍と商人の街」
「軍と商人」
「帝国らしい入口だと思う。きれいなところだけじゃないけど、嘘も少ない」
「嘘が少ないのは、良いことですか?」
「時と場合によるかな。帝国は本音が強すぎる時もある」
セリナはそう言って、肩をすくめた。
午後には、ディートリヒも挨拶に来た。
「道中の無事を」
「ありがとうございます」
「ガイア帝国は、条件の変化が速い国です。記録は残してください」
「はい」
「ただし、記録に気を取られすぎないように」
「先生のようです」
エアリスが言うと、ディートリヒは一度黙った。
「褒め言葉として受け取ります」
セリナが横で笑った。
ディートリヒはさらに、小さな紙片を一枚差し出した。
「帝国式の記録日付です。ルミナリア式と並べてあります」
「ありがとうございます」
「混同すると、後で照合が面倒になります」
セリナがまた笑った。
「本当に真面目」
「必要なので」
同じ返事だった。
エアリスは紙片をカバンへしまいかけ、指を止めた。それから、もう一度ディートリヒへ差し戻す。
日付の違い。
ディートリヒは日付の横に小さく印をつけ、紙片をもう一度確かめた。
ミレイユも、短く声をかけてきた。
「乾いた地域で使える香草です。水に入れると少し飲みやすくなります」
「ありがとうございます」
「共和国の商館でも売っています。帝国にもあるはずです」
それだけ言うと、ミレイユはすぐに一歩下がった。
図書館へも寄った。
図書館の少女は、貸出席にガイア帝国の薄い地誌、旅行記、料理本、公共テレポート中継案内を置いていた。
「全部借りると、荷物が本で埋まる」
「では、どれを選べばいいですか?」
「地誌と中継案内。料理本は覚えてから返す」
「覚えてから」
「あなたならできるでしょ」
エアリスは料理本を開いた。
赤い香辛料を使った肉煮込み。
薄焼きの硬いパン。
鉱山都市の塩漬け肉。
乾いた地域の果実酒。
「味が強そうです」
「たぶん強い。帝国は全体的に強い」
「食べ物もですか」
「私の偏見かも」
少女は笑った。
それから、地図の端を指した。
「ここ。ラウグラ。軍の通り道でもある。見るなら、人の流れを見るといいよ」
「人の流れ」
「街は建物だけじゃないから」
エアリスは案内冊子の端を押さえた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。半分友だちの旅立ちだからね」
「まだ半分なんですか?」
「名前を教えてないから」
「いつ教えてくれますか?」
「帰ってきたら考える」
そう言って、少女は薄いしおりを一枚渡した。
「しおり代わり。失くしたら罰金」
「いくらですか?」
「冗談」
「そうですか」
エアリスは真面目にしおりをしまった。
夕方、ゼニスクライムへ戻ると、ルセリアが最後の確認をしていた。
学術院からは、マグヌスの短い伝言も届いていた。見たものと聞いたものを分けて残すこと。楽しいものも見ること。紙には、その二つだけが余白を残して書かれていた。
「緊急連絡の経路は三つ。学術院経由、教廷経由、グランツベルク家経由。どれも使えるようにしてある」
「はい」
「ガイア帝国では、あなたは学術院生で、私の保護下にあるエアリス・アウレリア・ヴァレン。それ以上でも、それ以下でもない」
「はい」
「ユイ・オデット・ローゼンベルクの名は出さないこと」
「分かっています」
ルセリアはエアリスを見た。
「心配はしているわ」
「はい」
「でも、止めるつもりはない」
「ありがとうございます」
「礼は帰ってからでいい」
アキが椅子の上で手を叩いた。
「いい保護者だねえ」
「あなたは、保護者ではなく監視対象よ」
「扱いが厳しい」
「当然」
ノクティラが低く言った。
「ガイアへ行けば、邪教の気配に触れることもあるだろう。だが、我を呼び出すな。必要な時はこちらから言う」
「はい」
「それから、帝国の者の前で葬夜の棺と言うな」
「分かりました」
夜、荷物はカバン一つに収まった。
窓の外には、白い聖都の灯りが見える。
エアリスは机の上に残した薄い冊子を手に取った。
光神祭の鐘と白花の話。
セリナがくれた帝国の予定表。
図書館の少女のしおり。
どれも、城にいた頃には持っていなかったものだ。
明日、聖都を出る。
灯りを落とす前に、ルセリアが部屋の外から声をかけた。
「エアリス」
「はい」
「明日は早いわ。読み物は一冊まで」
エアリスは机の上を見た。
地誌、料理本から写した短いメモ、帝国皇室の薄い系譜。
「……一冊、ですか」
「一冊」
「分かりました」
エアリスは少し迷い、地誌だけを残した。
扉の向こうで、ルセリアが小さく笑った。
翌朝のために、エアリスはその一冊も途中で閉じた。
図書館の少女からもらったしおりを挟む。
明日の朝には、ここではない場所で続きを読むことになる。
そのことが、少し楽しみだった。
エアリスは灯りを消した。
出発の朝、聖都には薄い雲がかかっていた。
雨は降らない。
屋根の列を、朝の光が薄く照らしている。
鐘はまだ鳴っていない。
エアリスは旅装に着替え、カバンを手に取った。制服ではないが、学術院生として見られても浮かない服。白を基調に、動きやすい布と細い金の縁取りが使われている。
魔導書はカバンの中。
黒曜石の小さな棺は、首飾りとして胸元にある。
部屋を出る前に、エアリスは机を見た。
ここへ来た初日、ルセリアはこの机で新しい名前を書いた。
エアリス・アウレリア・ヴァレン。
その名前で、今度はガイア帝国へ行く。
「忘れ物は?」
ルセリアが扉の前で聞いた。
「ありません」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
「料理本は返しました」
ルセリアは一瞬だけ目を瞬かせ、それから笑った。
「そこを気にしていたのね」
「借りたものなので」
「大事なことよ」
アキがカバンの中から声を出した。
「僕は返却期限なし?」
「アキさんは借りていません」
「所有物扱い?」
「同行者です」
「だいぶ昇格した」
ノクティラが低く言う。
「騒がしい同行者だ」
「神様からの評価が重い」
「軽く扱われたいのか」
「それはそれで嫌だな」
ルセリアは二人を止めなかった。
代わりに、エアリスの首掛け札を確認する。
「学生証。移動届の控え。テレポート保護許可。教廷推薦書。全部あるわね」
「はい」
「帝国側で求められた時は、セリナさんか迎えの者を先に出すこと。あなたが一人で説明しようとしない」
「分かりました」
「旧婚約については、相手を探しに行くのではなく、必要になった時に確かめる。いい?」
「はい」
「よろしい」
ゼニスクライムの下層へ向かうと、専用の馬車が待っていた。
今日はその馬車で、聖都中央テレポート陣まで向かう。正式な国外移動は中央施設を使う必要がある。学区中心からの移動より手続きが多く、警備も厚い。
馬車の窓から見える聖都は、いつもより早い時間の顔をしていた。
パン屋は戸口を開け、炉から最初の香りを出している。浴場の前には常連らしい老人が二人立ち、神殿の扉はすでに開いていた。管理科の小さな窓口には、外地から来たらしい商人が通行証を見せている。
公共テレポート駅の列も見えた。
そこでは、行き先表示を見上げる子どもが母親に手を引かれている。子どもは初めてなのか、魔導陣の保護環を見て目を丸くしていた。
エアリスはその子の視線を追い、保護環の淡い光を見た。
初めて聖都へ来た日の自分なら、あれもただの光に見えただろう。
中央テレポート陣は、白鐘広場とは別の区画にあった。
大きな円形の建物で、外壁には金色の線が巡っている。中へ入ると、床に複数の魔導陣が刻まれていた。それぞれに行き先があり、係員、管理科職員、聖騎士団の護衛が配置されている。
国外行きの待合所には、一般の旅人よりも商人や使節が多かった。
荷物の確認。
通行証の照合。
保護許可の登録。
手続きは多いが、流れは乱れていない。
護衛の一人が荷札を確かめ、セリナへ目で合図した。
待合所の一角には、旅人向けの小さな売店もあった。
干し苺、包みパン、酔い止めの薬包、行き先別の薄い案内冊子。店主は客の行き先を聞き、必要なものだけを勧めている。強く売りつける感じはない。
セリナは干し苺を一袋買った。
「帝国でも売ってるけど、こっちの方が甘い」
「違うんですか?」
「違う。帝国のは酸っぱい」
「では、比べます」
「そこは楽しみにするんだ」
「はい」
エアリスは袋の中を見た。
干し苺は、赤い小石のようにも見える。指でつまむと、表面に砂糖が薄くついていた。
袋を閉じる前に、エアリスはもう一度だけ中をのぞいた。
「今食べる?」
「テレポートの後にします」
「ちゃんと計画してる」
「味の比較は、到着後の方が正確です」
「そこまで?」
セリナは笑った。
近くの護衛が、目だけで笑った。
セリナは袋を閉じ、通行札を確かめた。
壁には注意書きが並んでいた。
保護環の外へ出ないこと。
テレポート中に荷を投げないこと。
体調不良は係員へ申告すること。
初めての利用者は、付き添いの者と同じ陣に入ること。
エアリスは最後の一文を読んだ。
「初めての利用者は、付き添いと同じ陣」
「怖がる人もいるからね」
セリナが答える。
「私は怖くありません」
「うん、知ってる」
「でも、初めての人が怖がる理由は分かります」
「そういうところ、あなたらしい」
セリナはそう言って、自分の通行札を確認した。目元には、まだ硬さが残っている。
係員がこちらを見て、小さな合図板を掲げた。
ルセリアはグランツベルク家の護衛と短く言葉を交わした。相手は大主教に深く礼をし、書類を確認する。確認はすぐに済み、余計な儀礼は挟まらなかった。
昨日、マグヌスからは短い伝言が届いた。
ディートリヒは帝国式の日付表をくれた。
ミレイユは乾いた地域で使える香草を、図書館の少女は中継都市案内を置いていった。
見送りは、もう済んでいる。
今日は出発するだけだった。
出発時刻が近づいた。
係員が名を呼ぶ。
セリナ・フレイア・グランツベルク。
エアリス・アウレリア・ヴァレン。
グランツベルク家護衛二名。
魔導陣の保護環が淡く光る。
ルセリアは最後に、エアリスへ近づいた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「見て、考えて、帰ってきなさい」
「はい」
ルセリアはエアリスの肩に手を置いた。
「あなたなら大丈夫、とは言わないわ。大丈夫にするための準備をしてきなさい」
「分かりました」
アキが魔導書の中から小さく言う。
「僕もいるしね」
「だから、頼りすぎないこと」
ルセリアは即座に返した。
「信頼と警戒が同居してる」
「あなたには必要よ」
ノクティラは黙っていた。
だが、棺の奥でわずかに光が揺れた。
エアリスは魔導陣へ入った。
セリナが隣に立つ。
護衛二人が後ろへ入る。
係員が行き先を読み上げた。
「ガイア帝国、ラウグラ中継都市。第一保護陣、起動準備」
周囲の音が一段落ちる。
白い床の文字が、足元から順に光った。
「行こう」
「はい」
係員が魔導陣を起動した。
足元の文字が回り、白い光が立ち上がる。
聖都の鐘が、遠くで鳴った。
次の瞬間、白い都の空気が消えた。
頬に触れたのは、乾いた風だった。
赤い土の匂いがした。
そこは、白くなかった。
駅舎の床は赤い石で造られていた。壁も、柱も、聖都より低く、厚い。外へ続く大きな門の向こうでは、軍馬の蹄が石を叩いている。荷車の列。槍を持つ兵。長い外套を着た商人。旅人の声は多いのに、どこか張り詰めていた。
門の横には、赤い告示板が立っていた。
魔淵外縁安定化計画に伴う臨時検査。
その文字の前で、商人が荷を開け、兵が赤銅の札を確かめている。聖都のテレポート駅にも検査はあった。だが、ここでは案内係より先に、兵の姿が目に入った。
セリナの家の護衛が、すぐに前へ出た。
「セリナ様。お迎えに上がりました」
声は低く、礼も丁寧だった。セリナの顔だけがわずかに硬くなった。
「予定より、人数が多いね」
「ラウグラの警備が上がっています。詳しくは馬車で」
セリナは一度だけ目を伏せ、それからエアリスを見た。
「ごめん。最初から、ちょっと帝国っぽいかも」
「見ています」
「うん。なら、行こう」
エアリスは通行札を握り直した。
到着場の端で、灰色の外套を着た男が人波に紛れた。
袖の内側で、小さな黒い石が一瞬だけ赤く灯る。
「白髪の少女が来た。グランツベルク家の娘と一緒だ」
男は石を袖の奥へ戻し、軍馬の鳴き声に紛れて姿を消した。




