第二十七話:薄い記録と夏季休暇まで
翌日の昼休み、エアリスはルセリアから渡された紹介状を持って、学術院の管理窓口へ向かった。
正式な移動届を出す前に、確認できる範囲の記録だけ見ておく。
ローゼンベルク子爵家と、ガイア帝国皇室。
かつての婚約。
深く調べるつもりはない。学術院の窓口で分かることは多くないと、ルセリアにも言われている。
婚約は家同士の話だ。大事な部分ほど、公の記録には残りにくい。
管理棟の一階には、学生用の窓口が並んでいた。
学生証の再発行、学外移動届、施設利用、資料閲覧申請。白い札を持った学生が順番を待ち、管理科の職員が手際よく対応している。
窓口の上には、小さな案内板が出ていた。
通常許可。
学外実習。
資料閲覧。
緊急連絡。
学生たちは自分の札を取り、順番が来ると書類を出す。管理科の仕事は速いが、雑ではない。
エアリスが紹介状を出すと、職員はすぐに内容を確認した。
「ヴァレンさんですね。外部縁組照会の控えですね」
「はい」
「少々お待ちください」
職員は奥の結晶板に手をかざした。
光が走り、記録棚の番号が浮かぶ。
数分後、薄い写しが一枚だけ出てきた。
「こちらが、学術院側で閲覧可能な範囲です。原本は教廷管理科の外部縁組照会記録になりますが、詳細は家門間、または国家間の書簡扱いで、ここでは開けません」
「分かりました」
「写しはこの場でのみ閲覧。転写は不可。ただし、家名と日付程度ならノートに控えて構いません」
「ありがとうございます」
エアリスは窓口横の小さな閲覧席へ座った。
紙は薄く、内容も同じくらい薄かった。
ローゼンベルク子爵家。
ガイア帝国皇室関連縁談照会。
時期。
教廷側確認、形式上支障なし。
相手名の欄は、伏せられている。
理由の欄もない。
家門間の詳細書簡、別管理。
日付は、ユイが十五歳だった頃のものだった。
本人が何も知らないうちに、話はもう動いていた。
エアリスは余白に、家名と日付だけを控えた。
相手の名を書く場所はなかった。
「薄いですね」
隣から声がした。
セリナだった。
朝、エアリスは「昔の縁談の記録を少し見ます」とだけ伝えていた。
「はい」
エアリスは写しから目を離さず答えた。
「もっと書いてあると思ってた?」
「少し」
「婚約って、家の大事なことなのにね」
「大事だから、公には出ないのかもしれません」
セリナは黙った。
「それもそうか」
彼女は向かいの席に座る。
「相手の名前もない?」
「伏せられています」
「皇室関連、だけ?」
「はい」
「広いなあ」
セリナは息を吐いた。
「皇室って言っても、直系、傍系、継承候補、母方から入った人、いろいろいるから」
「セリナさんも、皇室の血を引いているんですよね」
「うん。でも、私を皇室の人って言うと、ちょっと違う。公爵家の人間で、皇室の血もある、くらい」
「複雑ですね」
「帝国はだいたい複雑」
セリナは苦笑した。
エアリスは写しの余白を見た。
相手名は伏せられている。
理由もない。
ただ、縁談照会の記録だけが残っている。
「この記録だけでは、何も分かりません」
「うん」
「でも、何も分からないことは分かりました」
セリナは考えた。
「それ、あなたっぽい」
「そうですか?」
「うん。普通は、何も分からなかったって言って終わる」
「終わりません」
エアリスは写しを閉じた。
「ガイア帝国で確かめます」
セリナはすぐには返事をしなかった。
管理窓口の向こうでは、職員が別の学生の移動届を処理している。学生証を確認し、行き先を登録し、短い説明を返す。
聖都の仕事は、今日も淡々と進んでいた。
「一緒に来るって、もう決めた?」
セリナが聞く。
「まだです。ルセリアさんに相談しました。条件付きで、進めてよいと言われました」
「条件」
「調査任務と名乗らないこと。勝手に誰かの家を裁かないこと。アキさんの力を当然にしないこと。旧婚約のことを急がないこと」
「ルセリア様らしい」
セリナは笑った。
「全部、耳が痛い」
「はい」
そこへ、ディートリヒが現れた。
彼は二人に礼をし、手にした申請書を見せた。
「移動届ですか」
エアリスが聞く。
「いいえ。交流演習の資料閲覧申請です」
セリナが肩をすくめる。
「本当に真面目」
「必要なので」
ディートリヒはそこで、空いたばかりの閲覧席を見た。
「失礼。何か確認を?」
「昔の記録を少し」
「情報は」
「ほとんどありません」
「なら、公にする意思がない記録なのでしょう」
「そう思いますか」
「はい。記録は、残すためにも使われますが、残したことだけを示すためにも使われます」
エアリスはその言葉をノートに書いた。
残したことだけを示す記録。
セリナがディートリヒを見る。
「たまに便利だね」
「たまに、ですか」
「今はかなり」
「それならよかった」
ディートリヒは真面目に答えた。
管理科職員が、写しの返却時間を知らせに来た。
エアリスは紙を返す。
手元に残ったのは、家名と日付、そして相手名のない欄だけだった。
「この薄さは、証拠にはなりませんね」
エアリスが言うと、ディートリヒは紙片の余白を指で押さえた。
「なりません。ですが、次に確かめる場所は限られるでしょう」
「家門間の詳細書簡」
「または、帝国側に残った照会の控え、かな」
セリナが腕を組んで言った。
「帝国側でそれを見るの、簡単じゃないと思う」
「はい」
「でも、見られる人に会うことはできるかもしれない」
セリナはそこで言葉を切った。
誰のことかは、まだ言わない。
昼休みの終わりが近づく。
三人は管理棟を出た。
外の通路では、光神祭の飾りが少しずつ外されている。白い紐が巻き取られ、鐘形の飾りが木箱へ収められていく。
木箱のふたが閉まる音を聞きながら、エアリスはノートに控えた日付をもう一度見た。
カバンの中で、魔導書が小さく開いた。
「薄いね」
「聞いていたんですか」
「聞こえた。薄い記録って、便利だよ。何も言わないのに、何かがあったことだけは分かる」
「帝国で確認するしかありません」
「そうなるね」
アキはそれだけ言って、また魔導書へ戻った。
珍しく、話を広げない。
セリナは歩きながら言った。
「帝国に来たら、私の家にも来ることになると思う」
「はい」
「たぶん、面倒なことも見る」
「はい」
「それでも?」
エアリスはセリナを見た。
「私は、見に行きます」
迷いのない返事だった。
セリナは封筒の端を整えた。
「分かった」
セリナの肩から、力が抜けていた。
その日の放課後、エアリスは図書館へ寄った。
旧縁談の詳しい記録を探すためではない。学術院の図書館に、それが置かれているとは思えなかった。
ただ、ガイア帝国の皇室系譜と四大公爵に関する公開資料を借りる。
図書館の少女は、閲覧札を見ただけで棚を指した。
「帝国系譜なら三階。公爵家は隣。政治史は厚いから、今日はやめた方がいい」
「なぜですか?」
「夕食を忘れる顔をしてる」
「今日は忘れません」
「昨日もそんな顔をしてた」
エアリスは少し迷って、薄い一冊だけを選んだ。
「一冊にします」
「成長してる」
「よく待てました、ですか?」
「それは契約精霊に言うやつ」
少女は笑って、閲覧札の番号を控えた。
少女は棚の奥から、もう一冊薄い本を抜いた。
「これは借りなくていい。ここで目次だけ見て」
ガイア帝国皇室人物索引。
名が多すぎた。
直系、傍系、母方、婚姻で入った者、幼くして亡くなった者。頁の端まで、名と線が続いている。
「皇室関連、だけでは探せませんね」
「うん。広すぎる。だから公の記録で相手名が伏せられると、ほぼ何も分からない」
「では、帝国で確かめます」
「それが一番早いかもね。安全かどうかは別」
少女は本を閉じた。
「帝国に行ったら、図書館も見てきて」
「図書館ですか?」
「国が違うと、本の並べ方が違う。何を先に置くかで、その国が大事にしているものが分かる」
エアリスは棚札の文字を覚えた。
「見てきます」
「感想は短くていいよ。長いと私が読むのに時間がかかる」
「では、短くまとめます」
「本当に短くまとめてきそうで怖い」
「長い方がいいですか?」
「いや、読みやすい方がいい」
「では、読みやすくします」
「うん。あなたに頼むと、本当にそういう報告が返ってきそう」
「必要なら、二種類書きます」
「一種類でいい」
少女は即答した。
迷いがない。
エアリスは本を受け取り、窓の外を見た。
祭の飾りは、半分ほど外されていた。
光神祭が終わってからも、祭の名残は数日だけ街に残った。
白い飾り紐は外され、鐘形の菓子を売っていた屋台は数を減らした。白鐘広場の石畳には、朝になると管理科の職員が水を流す。店先の白花と、食堂に残った香草丸パンだけが、祭の後をかすかに知らせていた。
学術院では、夏季休暇前の課題が出始めていた。
魔力制御記録。
読書課題。
見聞記録。
希望者向けの実技補講。
Aクラスの学生たちは、それぞれの予定を立てている。帰国する者、聖都に残る者、家の領地へ戻る者、短い研修へ行く者。予定を話す声は軽いが、誰もただ遊ぶだけの休暇だとは思っていない。
セリナも、いつも通り授業を受けていた。
よく笑い、よく前へ出る。
ただ、ガイア帝国の話題になると、返事が少し遅れる。
エアリスは、その遅れを覚えていた。
ある日の放課後、セリナは教室の窓辺で封書を読んでいた。
前に届いた家書より新しい。封蝋は同じグランツベルク家のものだが、臨時議会の確認印はなかった。家からの私的な連絡に近いのだろう。
「日程、決まった」
セリナは封書を畳んだ。
「夏季休暇の初日。私はガイアへ戻る」
「帝都へ戻るんですか?」
「最初はラウグラ。そこに家の迎えが来る。帝都へ直行するより自然だからって」
セリナは窓の外を見た。
「親族会議と、臨時議会まわりの顔合わせ。そう書いてある。急病とか、誰かが倒れたとか、そういう話じゃない」
「でも、帰らなければいけないんですね」
「うん」
セリナは短く笑った。
「家が、私に見ておけって言ってる。逃げるなっていうより、目をそらすなって感じ」
エアリスはセリナの横顔から、封書へ視線を移した。
「セリナさんは、帰りたいですか?」
「帰りたい。怖くないわけじゃないけど」
「では、私も行きます」
セリナは目を丸くした。
「そんなにすぐ?」
「前に、相談すると言いました。ルセリアさんには話しました」
「止められなかった?」
「条件はありました」
「だよね」
セリナは肩の力を抜いた。
「私、あなたを連れて行っていいのか、迷ってた。家のことだし、帝国は今、面倒だし」
「私は、セリナさんの家の問題を解決しに行くのではありません」
「うん」
「友人が心配なので、一緒に行きます。それから、ガイア帝国には私自身の過去もあります」
セリナは静かに聞いていた。
「旧婚約のこと?」
「はい。急いで探るつもりはありません。でも、何も知らないままにはしたくありません」
「そっか」
セリナは封書を胸元へしまった。
「ありがとう」
「まだ、行くだけです」
「それが助かる」
その日の夕方、エアリスはルセリアへ日程を伝えた。
ルセリアはすでに、移動に必要な書類を用意し始めていた。学生証、身分証の写し、教廷推薦書、テレポート陣の保護許可、ガイア帝国側の通行確認。机の上には薄い箱がいくつか置かれている。
「早いですね」
「こういうものは、早く整えておく方が安全なの」
ルセリアは短く答えた。
「学術院へは、夏季休暇中の移動届として出しておくわ。申請というほど大げさなものではない。あなたたちは休暇中に友人の帰省へ同行する学生よ」
「はい」
「ただし、行き先がガイア帝国で、あなたの旧婚約も絡む。だから書類だけはきちんと揃える」
「分かりました」
カバンの中からアキが顔を出した。
「旅が正式になったね」
「まだ準備中です」
「準備も旅の一部だよ」
「そうなんですか?」
「たぶんね。少なくとも、忘れ物をしてから後悔するよりは旅っぽい」
ルセリアが横から言う。
「あなたは忘れ物より、余計なことをしない準備をして」
「信用が戻らない」
「戻す努力をしていないでしょう」
エアリスはそのやり取りを聞きながら、机の上の薄い箱を見た。
身分証の写し、推薦書、通行確認の控え。
行き先ごとに分けられた書類が、箱の中で白く重なっていた。
翌日、マグヌス学院長にも短い確認が行われた。
学院長室ではなく、授業後の講義棟の廊下だった。マグヌスは教師と話し終えたところで、エアリスとセリナへ目を向けた。
「夏季休暇中にガイア帝国へ戻ると聞きました」
「はい」
セリナが答える。
「グランツベルクさん。帰ると決めたのですね」
「はい。家のことから逃げたくありません」
「よい答えです。ただし、逃げないことと、危険を軽く見ることは違います」
「分かっています」
マグヌスは次にエアリスを見る。
「ヴァレンさん。あなたは同行する」
「はい」
「友人として、ですね」
「はい。それから、ガイア帝国を見たいです」
「それで十分です」
マグヌスは穏やかに言った。
「休暇中の移動なら、学術院が止める理由はありません。ただし、学院名を使って交渉しないこと。見たものと聞いたものを分けて覚えること。危険を感じたら帰ること」
「分かりました」
「旅先では、楽しいものも見なさい。学びは危険の中だけにあるわけではありません」
「はい」
セリナが少し笑った。
「学院長、そこは先生なんですね」
「私は先生ですから」
マグヌスは当然のように答えた。
エアリスは素直に頭を下げた。
夏季休暇まで、あと三日。
聖都の空は白く、遠くの鐘が夕方を告げていた。




