第二十六話:行く理由、残る理由
その夜、ゼニスクライムの私邸には、いつもより多くの書類が積まれていた。
ルセリアは机の前に座り、教廷印の押された報告控えを読み比べている。神喩記録、管理科年報、裂け目の報告、収容科移管記録。紙の厚みだけで、事の重さが分かる。
エアリスは祭の冊子と、今日の演習記録を机の端に置いた。
「おかえり」
ルセリアが顔を上げる。
「ただいま戻りました」
「交流演習は?」
「途中で目的を変えて、撤退しました」
「いい判断ね」
即答だった。
「目的地点へ届かなかったのに、ですか?」
「守るべきものを守って戻ったのでしょう。なら、失敗とは限らないわ」
エアリスは今日の演習を思い出した。
同じことを、教師にも言われた。
カバンの中からアキが出てくる。
「今日は先生が多い日だね」
「あなたは見学の先生にはならなくていいわ」
ルセリアが言う。
「僕、最近よく止められる」
「止まる練習中です」
エアリスが答えると、アキは椅子の背に寄りかかった。
「成長してるね、僕」
「そういうことにしておきます」
黒曜石の小さな棺が、机の上で淡く光った。
ノクティラの声が響く。
「それで、ガイア帝国の話か」
エアリスは棺を見た。
「聞いていたんですね」
「聞こえる」
ノクティラは短く返した。
ルセリアは書類を脇に寄せた。
「セリナさんから、何か話があったのね」
「はい。夏季休暇に、ガイア帝国へ戻るそうです。親族会議と、皇室や臨時議会の顔合わせがあると」
ルセリアの表情が変わる。
「グランツベルク家に、本人名義で?」
「はい。セリナさん自身にも来るように、と」
「……なるほど」
ルセリアはペンを置いた。
「皇室の血を引く公爵家の娘を呼ぶ。圧力にも、確認にも使えるわね」
「ルセリアさん」
「なに?」
「私は、セリナさんに同行したいです」
言葉にすると、思っていたより短かった。
ルセリアはすぐには答えない。
アキも黙った。
ノクティラも何も言わない。
「理由を聞かせて」
ルセリアが言った。
ルセリアはエアリスを見て、それから机の上の書類へ視線を落とした。
「セリナさんが心配です」
「ええ」
「それから、ガイア帝国側の裂け目にも、似た波動の記録があるかもしれません」
「ええ」
「もう一つ」
エアリスは息を整えた。
「私は、元の名前の時、ガイア帝国皇室へ嫁ぐ予定でした。でも、相手のことをほとんど知りません。父と母が邪教に関わっていたなら、その婚約もただの政略ではなかったかもしれません」
ルセリアの目が静かに細くなる。
「そこに気づいたのね」
「はい」
「怖い?」
「怖くはありません」
「そう言うと思ったわ」
ルセリアは息を吐いた。
「でも、危ない。セリナさんの家の問題も、あなたの旧婚約も、帝位をめぐる争いに触れる可能性がある」
「はい」
「あなたはまだ学生よ」
「はい」
「それでも行きたい?」
「行きたいです」
声は揺れなかった。
ルセリアは椅子にもたれ、考えた。
「私は、同行できないわ」
その言葉は、先に置かれた。
「神喩の記録、裂け目に現れた意志を帯びた波動、葬夜の棺の件。教廷側で調べるべきことが多すぎる」
「はい」
「神喩の出力は管理科へ入り、神授物なら収容科へ移管される。裂け目の異常は情報科と騎士団の報告を通る。同じ反応がどこで見つかり、どこで同じ言葉に整えられたのか。聖都にいないと追えない」
ルセリアは机の書類を指で押さえた。
「それに、今の私が動けば目立つ。大主教がガイア帝国へ行くとなれば、それだけで政治になる。神々の領域に触れる話である以上、私は聖都で見える場所に残った方がいい」
アキが書類の束へ目をやった。
「目立つ人が目立つところにいてくれると、逆に動きやすいこともある」
「あなたに言われると、少し癪ね」
「でも事実でしょ」
「ええ」
ルセリアは認めた。
「エアリスの身分は、書類上は問題ない。教廷保護下の遠縁、学術院生、Aクラス所属。夏季休暇中に友人の帰省へ同行し、見聞を広げる。管理科に出しても止められないわ」
「聖都に残る方が、私にとっても仕事がしやすいわ」
ルセリアは続けた。
「私がガイアへ行けば、向こうは大主教を迎える形を取らなければならない。宿、護衛、会談、儀礼。全部が増える。あなたたちが見たいものは、その下に隠れる」
「私たちだけの方が、見えるものがあるんですね」
「ええ。もちろん、危険も増える」
「はい」
「だから、危険に気づいたら引くこと。これは交渉ではないわ」
「分かりました」
「では」
「条件があるわ」
ルセリアの声が厳しくなる。
「一つ。調査任務とは名乗らないこと。あなたは政治勢力でも、教廷の密命でもない」
「はい」
「二つ。危険な場で、アキの力を当然のものとして使わないこと。使えば場は動く。でも、その後も動く」
「はい」
アキが肩をすくめる。
「僕、便利すぎるからね」
「自分で言わない」
ルセリアは短く止めた。
「三つ。セリナさんの家の問題に、あなたが勝手に答えを出さないこと。友人として側にいるのと、他人の家を裁くのは違う」
「はい」
「四つ。旧婚約のことは、必要以上に急がないこと。公の記録に答えがないなら、帝国で本人や関係者から見るしかない」
「分かりました」
ノクティラがそこで声を出した。
「ガイア帝国方面に同じ波動があるなら、境界の記録も見ておけ」
「境界の記録」
「魔界の裂け目から漏れる濁り、神授物、邪教。全部が一つにつながるとは限らない。だが、同じ者が触れている可能性はある」
ノクティラの声は低い。
棘は少ない。必要なことだけを置いていく声だった。
「覚えておきます」
「覚えるだけではなく、見ろ。それから、我の名を軽く出すな。ガイア帝国にも、耳はある」
「はい」
アキは机の上の報告控えを覗いた。
「僕としても、ガイア帝国は悪くないと思うよ。セリナ君のこと、旧婚約のこと、裂け目の波動のこと。理由が三つある。旅の行き先としては十分」
「あなたは、何か知っているんですか?」
エアリスが聞く。
アキは笑った。
「知っていることも、知らないこともある」
「答えになっていません」
「今はそれでいいんだよ」
ルセリアが呆れた目をした。
エアリスは追及しなかった。
アキは答えない時、どれだけ聞いても答えない。
それも覚えた。
「まずは、移動の形を整えるわ」
ルセリアが言った。
「夏季休暇中の帰省同行。学びとして記録することはできるけれど、任務にはしない。必要なら、私の推薦書を添える」
「ありがとうございます」
「まだ決定ではないわ。学院長への届出もいる」
「マグヌス学院長」
「ええ。あの人なら、条件の抜けは見逃さないでしょう」
ルセリアは書類を一枚引き寄せた。
夏季休暇中の移動届。
目的、同行者、滞在先、連絡経路、緊急時の帰還先を書く欄がある。形式は簡素だった。休暇中に動く学生は、エアリスたちだけではない。
「移動は聖都のテレポート陣を使う。学術院経由の学生用経路と、教廷の正式経路。どちらが通りやすいかは明日確認するわ」
「馬車ではないんですか?」
「街を移動するなら馬車でもいい。でも、国を越える正式な移動なら、時間と安全を優先する。あなたは費用を気にしなくていい」
エアリスは旅程表の行き先を覚えた。
ルセリアは旅費の控えも見せた。テレポート駅の利用料、宿代、現地での馬車代。細かく分けられた数字が、紙の上に並んでいる。
「足りない時は、現地の教廷連絡所で受け取りなさい」
「ラウグラにもありますか?」
「小さな窓口はあるはずよ。正式な中継都市なら、教廷の連絡所を置くのが普通だから」
「はい」
ルセリアは続けて、資産の話をした。
「ローゼンベルク子爵家から押収した資産の一部は、あなたの身分保全と生活費に回せる。もともと、あなたが道具のように扱われた家の資産よ。学ぶために使うなら、遠慮はいらない」
エアリスは少し黙った。
「使っていいんですか」
「ええ。あなたのために残せるものは、残すわ」
「分かりました」
ルセリアは小さな金属札を一枚出した。
「これは緊急帰還用の呼び札。単独でテレポートできるものではないけれど、教廷連絡所で見せれば、優先して聖都へ戻る手続きを取れる」
「使う時は、危険な時ですか」
「危険になる前よ。危険になってからでは遅いことが多い」
エアリスは札を受け取った。
白い金属に、光輪の紋が刻まれている。
「セリナさんにも見せます」
「ええ。あなた一人の札ではないわ。同行者を連れて戻るための札でもある」
「帝国では、戻る判断を遅らせないこと。それが一番大事よ」
「はい」
「友人を助けることと、友人を巻き込んで沈むことは違うわ」
「覚えておきます」
「セリナさんにも伝えます」
札は軽かった。
エアリスは札を指先で一度押さえ、申請書の横へ置いた。
「今日はもう遅いわ。明日、セリナさんとも話しなさい。あなた一人で行くと決めることではない」
「はい」
ルセリアは移動届の日付だけを記した。
「提出はまだ。セリナさん側の正式な日程が届いてからよ。急げば、かえって目立つ」
「分かりました」
机の上には、裂け目の報告と移動届が並んでいる。
どちらも、開いたままだった。




