第二十四話:セリナの家書
セリナが戻ってきたのは、夕方の鐘が鳴る少し前だった。
白鐘広場には、人が集まり直している。朝とは違い、空の色が薄く赤い。屋台の灯りが一つずつ灯り、神殿区から戻ってきた巡礼者たちが広場の縁に座っていた。
セリナは何もなかったような顔で戻ってきた。
だが、歩幅がいつもより半歩だけ小さい。
「読んだの?」
ディートリヒが聞いた。
「うん」
セリナの返事は短かった。
セリナはそこで口を閉じ、広場の方へ視線を戻した。
エアリスも尋ねなかった。
代わりに、広場で買った苺の焼き菓子を紙袋ごと差し出した。
「今?」
「今です」
セリナは一瞬だけ笑い、紙袋を受け取った。
「あとで半分こね」
「はい」
夕方の鐘が鳴る。
朝より低く聞こえた。白鐘広場の人々は立ち止まり、ある者は目を閉じ、ある者は白花を胸元へ当てる。子どもが小さな声で祈りの言葉を間違え、隣の母親がそっと直していた。
鐘が終わると、祭は夜の顔へ変わった。
多くの店は少しずつ片づけを始める。食堂と浴場、神殿と宿はまだ開いている。白い飾り紐の間に、魔導灯の光が点る。
水路沿いでは、浴場の暖簾をくぐる学生たちが笑い声を上げ、店じまいの商人が残った白花を束ねていた。昼の巡礼者で混んでいた通りも、夜は食事を探す人と帰り道を急ぐ人に分かれていく。
「場所を変えよう」
セリナが言った。
三人は学区中心の外れにある小さな食堂へ入った。
祭の日でも、そこは混みすぎていない。炉の火が見え、木の卓が並び、壁には手書きの献立がかかっている。外の魔導灯の光とは違う、古い火の色だった。
エアリス、セリナ、ディートリヒが席に着き、アキは魔導書の上で小さく姿を出した。
「僕、同席していい空気?」
「静かにしているなら」
セリナが言った。
「了解。静かな契約精霊になる」
「それ、できるんですか」
エアリスが聞く。
「今日は頑張る」
アキは両手を上げた。
セリナは封書を机に置いた。
赤い封蝋は割られている。
紙の端には、開封確認の小さな術式が残っていた。家書にしては固い。けれど正式な命令書ほどではない。セリナは返事を急げず、封蝋の欠片を指先で寄せた。
「家から、戻るようにって」
彼女は言った。
「ガイア帝国へ?」
「うん。夏季休暇に入ったら、できるだけ早く。最初は国境都市ラウグラで迎えと合流。名目は親族会議。正確には、皇室と臨時議会まわりの顔合わせ」
封書の文面は短かった。
緊急帰還命令ではない。誰かが倒れたとも書かれていない。ただ、魔淵方面の警戒と、いくつかの裂け目の報告に奇妙な波動が混じっていること。そして、帝国の中で顔を出しておくべき相手が増えていることが、硬い言葉で並んでいた。
ディートリヒの目が細くなる。
「グランツベルク家が呼ばれたのですか」
「私も、だね」
セリナは苦笑した。
「家だけなら、父か兄が行けばいい。でも、今回は私の名前もある」
エアリスはそれを聞いて、考えた。
「セリナさん個人に、理由があるんですね」
「ある」
セリナは封書から目をそらさなかった。
「私の母は、皇室の血を引いてる。継承順位がどうこうって話じゃないけど、血筋としては使えるんだと思う」
「使える」
「そういう言い方、嫌だけどね」
セリナは水を一口飲んだ。
「帝国は今、皇帝陛下が戻ってない。魔淵方面で行方が分からなくなってから、臨時議会が国政を見てる。公式にはまとまってることになってるけど、実際はそう簡単じゃない」
声は明るくなかった。
「皇室の人たち、四大公爵、軍、臨時議会。みんな、口では帝国のためって言う。たぶん、本当にそう思ってる人もいる。でも、何を帝国のためにするかで割れてる」
ディートリヒは黙って聞いている。
エアリスは、セリナの言葉をノートに写さなかった。
今は資料ではない。
封書には、グランツベルク家の印だけでなく、臨時議会の確認印も添えられていた。返答欄は、空白のまま残されている。
「グランツベルク家は、どちら側なんですか?」
エアリスが尋ねる。
セリナは笑った。
「分かりやすく言うなら、無理な軍事計画に反対してる側」
「軍事計画」
「魔淵が最近、落ち着かないのは知ってるよね」
「報告会で聞きました」
「帝国側では、もっと近い話。魔淵は帝国側の防衛線から見れば、ずっと近い場所にあるから。今は中立区だけど、帝国の人間にとっては遠い話じゃない」
セリナは封書の端を指で押さえた。
「それを理由に、軍を大きく動かそうとしてる人たちがいる。名目は魔物への備え。領地と国民を守るため。聞こえは悪くない」
「聞こえはね」
「うん」
セリナは封書の端を押さえたまま続けた。
「でも、父は変だって言ってる。必要な備えと、誰かの都合が混じってるって」
アキは黙っていた。
珍しく、何も挟まない。
ディートリヒが口を開く。
「あなた自身を呼ぶ理由がある、ということですか」
「たぶんね。私が行かなければ、それはそれで角が立つ。行けば行ったで、何かに使われるかもしれない」
セリナは笑った。
今度の笑いは、乾いていた。
「だから、家は帰れって言ってる。逃げるな、じゃなくて、見て判断しろって」
「セリナさんは、帰りたいんですか?」
エアリスが聞く。
セリナはすぐに答えなかった。
炉の火が鳴る。
「怖くないわけじゃない」
彼女は言った。
「でも、帰らない方がもっと嫌。自分の家が何かに巻き込まれてるのに、ここで知らない顔をするのは嫌」
「なら、帰った方がいいです」
エアリスは静かに言った。
セリナは驚いた顔をする。
「止めないんだ」
「止める理由がありません」
「危ないかもしれないよ」
「はい」
「それでも?」
「セリナさんが帰りたいなら」
セリナは封書を見下ろした。
「あなたって、そういうところあるよね」
「どのようなところですか」
「止めてほしいわけじゃないって、分かるところ」
エアリスは少し考えた。
「分かっていたわけではありません。ただ、止める言葉は違うと思いました」
「それでも十分」
セリナは封蝋の欠片を指先で寄せ、ようやく肩の力を抜いた。
エアリスは封書を見た。
父や母が自分をどこかへ送ろうとしていた時、同じ言葉を使われたことはない。だが、扱われ方は似ているのかもしれない。
「セリナさんが、どうしたいのかを聞きたいです」
エアリスが言うと、セリナは目を瞬かせた。
「私が?」
「はい。家や会議の話は分かりました。でも、セリナさんがどう答えたいのか、まだ聞いていません」
「言い方があなたらしい」
「変でしたか」
「ううん。嫌いじゃない」
セリナは封書を畳んだ。
その時、エアリスの中で、別の記憶が動いた。
ガイア帝国。
皇室。
半年後の政略結婚。
自分は、相手の顔も名もほとんど知らされていなかった。子爵家の娘である自分が、なぜ帝国皇室へ嫁ぐ予定だったのか。
あの時は、そういうものだと思っていた。
だが、父と母が邪教に関わっていたことを知った今、同じようには見えない。
「私も、ガイア帝国について知りたいことがあります」
エアリスは言った。
セリナが顔を上げる。
「あなたにも、帝国に用があるの?」
エアリスは少し考えた。
「はい。昔、ガイア帝国との縁談がありました」
セリナは目を瞬かせた。
「縁談って、婚約の?」
「はい。ただ、相手のことも、どういう話だったのかも、ほとんど知りません」
「……そっか」
セリナは声を落とした。
「詳しく聞かない方がいい?」
「今は、まだ」
セリナは頷きかけて、指を止めた。
「ご両親は、その話を……」
言いかけて、言葉を変える。
「今は、どちらに?」
エアリスは紙袋の口を指で押さえた。
苺の焼き菓子の甘い匂いが、まだ少し残っている。
「亡くなりました」
声は大きくも小さくもなかった。
セリナの手が、封蝋の欠片から離れた。
「……ごめん」
「謝ることではありません」
そう答えたあとで、エアリスは自分の指が紙袋の口を強く押さえていることに気づいた。
痛いほどではない。
ただ、力を抜く理由を少し探した。
セリナは、それ以上聞かなかった。
「分かった。話せる時でいい」
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
「でも、ありがとうございます」
セリナは困ったように笑った。
ディートリヒは二人を見て、手元の本へ視線を戻した。
アキがそこで、ようやく口を開いた。
「夏季休暇、ちょうどいいね」
「アキさん」
エアリスが見る。
「いや、事実として。学術院の休暇なら、セリナ君が帰るのも、エアリス君が同行するのも理由を作りやすい」
「同行」
セリナが繰り返す。
「エアリス、来るの?」
エアリスはすぐには答えなかった。
エアリスは封書を見た。
行きたい、とは思った。
セリナを、そのまま一人にしたくなかった。
自分の過去も、確かめたかった。
けれど、ここで返事をしていい話ではなかった。
「ルセリアさんに相談します」
エアリスは言った。
「勝手には決めません」
「そっか」
セリナは安心したような、残念そうな顔をした。
「でも、相談してくれるんだ」
「はい」
食事が運ばれてきた。
香草を入れた鶏の煮込みと、祭の残りの白パン。セリナはしばらく手をつけなかったが、エアリスがパンを切り分けると、ようやく皿を引き寄せた。
「今日は、もう少し祭を見てから帰る」
セリナが言った。
「考えるのは明日にする」
「はい」
「付き合ってくれる?」
「もちろんです」
アキが小さく手を上げた。
「僕も菓子の追加を希望」
「静かな契約精霊はどこへ行ったんですか」
「夕方で勤務時間が終わった」
セリナが笑った。
外では祭の灯りが揺れていた。
ガイア帝国の話は、もう机の上に出ている。
それでも四人は、食堂を出たあと、鐘形の菓子を一つずつ買ってから広場へ戻った。
広場では、夜の演目が始まっていた。
上級生らしい学生が、手のひらほどの光球を空へ上げる。光球は高く昇り、白い花の形にほどけた。子どもたちが声を上げる。大人も足を止め、顔を上げた。
セリナも、それを見た。
「綺麗だね」
「はい」
「明日から考える。今日は、あれを見てから帰る」
「分かりました」
セリナの肩が、わずかに下がった。
吐いた息は、人混みの音に紛れた。
エアリスは隣に立った。
光球が消えるたびに、広場から拍手が起きる。
セリナは最後までそれを見ていた。封書は胸元にしまわれている。今だけは、手で押さえていなかった。
「帰ったら、ちゃんと読む」
「もう読んだのでは?」
「もう一回。今度は落ち着いて」
「はい」
セリナは頷き、光球が上がる方へ顔を戻した。
その横顔には、昼の明るさとは違う強さがあった。




