第二十三話:光神祭
光神祭の朝、聖都は鐘の音で始まった。
いつもの朝の鐘より、音が長い。
白鐘広場から響く音は、通りを渡り、建物の壁に返り、ゼニスクライムの高い窓まで届いた。
エアリスは窓辺でその音を聞いた。
街の白さが、朝の光で薄く金色を帯びている。通りにはすでに人が出ていた。白を基調にした服。袖や髪に結ばれた飾り紐。手に持った白花。巡礼者らしい人々の列。
ルセリアはいつもより簡素な祭礼服を着ていた。
「今日は途中まで一緒に行くわ」
「お仕事は?」
「あるわ。でも、白鐘広場の始まりだけは顔を出す必要があるの」
ルセリアの予定表にも、白鐘広場の名が書かれていた。
エアリスは予定表の文字をもう一度見た。
カバンの中で、魔導書が開いた。
「お祭りかあ。いいね。僕も広場に出たい」
「契約精霊としてなら、出られます」
「じゃあ、契約精霊として出る」
返事が早い。
ルセリアはアキを見た。
「人前で余計なことをしないこと」
「余計なことの基準が厳しい」
「昨日までのあなたを基準にしているからよ」
「納得しかない」
アキは魔導書の上に腰を下ろすように姿を出し、肩をすくめた。
黒曜石の小さな棺は、エアリスの胸元で静かだった。ノクティラは祭に興味がないのか、何も言わない。
白鐘広場へ向かうには、ゼニスクライムの専用馬車を使った。
馬車と呼ばれてはいるが、普通の馬車ではない。白い馬に似た獣が二頭、ほとんど足音を立てずに石畳を進む。車体には教廷用の加速と防護の術式が組み込まれているらしく、揺れは少ない。
窓の外を、聖都の朝が流れていく。
店はまだ本格的には開いていない。だが、神殿へ向かう人と屋台の準備で、通りはもう動いていた。炉に火を入れる食堂。白花を水桶へ移す花屋。神官服の裾を押さえながら走る若い神官。管理科職員が通行路を確認し、巡礼者へ地図を渡している。
公共テレポート駅の前には、祭用の案内板が立っていた。
神殿区行き。
白鐘広場行き。
巡礼者通り行き。
それぞれの待機時間が表示されている。
「歩いている人も多いんですね」
エアリスが言うと、ルセリアは窓の外を見た。
「祭の日は、わざと歩く人も多いわ。道を見るのも祭の一部だから」
「道も」
「ええ。神殿に着くだけなら、テレポートでいい。でも、誰と歩いたか、何を見たかは残るでしょう」
エアリスは外を見た。
白い飾り紐が風に揺れている。
道を見る。
そういう祭もあるのだと覚えた。
白鐘広場は広かった。
中央には大きな鐘楼がある。白い柱が円を描き、その中央に金色の鐘が吊られている。鐘の表面には古い文字が刻まれていた。
初代教皇と光の神が置いた、と伝えられる鐘。
エアリスはその説明を本で読んでいた。
広場には人が集まっている。神官、学生、巡礼者、商人、子ども連れの家族。誰もが同じ方向を見ていた。
ルセリアが広場へ入ると、近くの神官たちが一礼した。騒ぎにはならない。神官たちはすぐに列へ戻り、鐘楼の方へ向き直った。
エアリスはその少し後ろに立った。
やがて、鐘が鳴った。
低く、澄んだ音だった。
音は胸を叩くほど強くはない。だが、広場の端までまっすぐ届く。
人々は目を閉じる者、胸元の小さな神像に触れる者、手を合わせる者、それぞれの形で祈った。
エアリスは祈り方を知らない。
だから、ただ鐘を聞いた。
隣でルセリアが短く目を伏せている。仕事の時の顔ではない。信仰者の顔だった。
鐘が止むと、広場に人の声が戻った。
「ここからは友人と回ってきなさい」
ルセリアが言った。
「よろしいんですか?」
「ええ。私は神殿区へ行くわ。夕方までに私邸へ戻ればいい」
「はい」
「困ったことがあれば、管理科の祭礼窓口か神殿へ。学生証も忘れずに」
「持っています」
「なら大丈夫ね」
ルセリアは微笑み、神官たちのいる方へ歩いていった。
エアリスが見送っていると、背後から声がした。
「エアリス!」
セリナだった。
今日は制服ではなく、白を基調にした外出着を着ている。袖に赤い飾り紐があり、髪にも小さな白花が挿されていた。
「似合っています」
エアリスが言うと、セリナは目を丸くした。
「急に褒めるね」
「思ったので」
「ありがとう。あなたも似合ってる」
エアリスの服はルセリアが用意してくれたものだった。白い布に薄い金の刺繍が入っている。派手ではないが、聖都の祭に溶け込む服だった。
セリナの後ろには、ディートリヒもいた。いつも通り整っているが、胸元に白花の飾りがある。
「おはようございます」
「おはようございます」
「まず神殿区へ向かいますか」
「その前に、菓子」
セリナが即答した。
ディートリヒは屋台の列を見た。
「……朝食は」
「食べた。でも祭は別」
「そういう規則があるのですか」
「ある。私の中に」
エアリスは真面目に聞いた。
「個人規則ですか」
「うん。今つくった」
アキが魔導書の上で笑った。
「いい規則だね」
セリナは屋台へ向かった。
鐘形の焼き菓子、白花の砂糖菓子、香草丸パン、蜂蜜牛乳。苺の蜜煮をのせた小さな焼き菓子もあった。広場の周りには、前日に見たものより多くの店が並んでいる。
エアリスは白花の砂糖菓子と、苺の焼き菓子を一つずつ買った。
苺の方を選ぶ時だけ、エアリスの指は迷わなかった。
薄い花びらの形をしている。口に入れると、すぐに溶けた。
「甘いです」
「感想が直球」
「花の形なのに、花の味はしません」
「砂糖だからね」
「なるほど」
苺の焼き菓子は、紙袋に入れてカバンにしまった。
「それは後で?」
セリナが聞く。
「はい。もう一つ食べたいので」
エアリスが答えると、セリナは少し意外そうに笑った。
「苺、好きなんだ」
「はい」
エアリスは紙袋の口を、いつもより丁寧に折った。
「覚えました」
「自分の好みを?」
「はい」
セリナが笑い、ディートリヒも口元だけを緩めた。
午前の神殿区は混んでいた。
大きな神殿の前には長い列ができ、管理科職員が巡礼者カードを確認している。白い小神像を持った子どもが、親に手を引かれて歩いていた。神官は忙しそうだが、誰も急かさない。
広場から神殿区へ入る道には、白鐘巡りの案内板が立っていた。
光神祭の日、巡礼者は大神殿だけでなく、白い回廊に並ぶ九柱の小祭壇を順に巡ることができる。全部を回らなければならないわけではない。神官は、足を止めたい場所で祈ればよいと案内していた。
「九柱すべて、ここで祈れるんですね」
「聖都だから、中心はアウレクスだけどね」
セリナが人の流れを避けながら答える。
「でも、ほかの神を信じている人も来る。仕事で守護を願う人もいるし、旅の途中で自分の神へ挨拶だけする人もいる」
ディートリヒは案内板の文字を目で追っていた。
「小神殿は都市内にもありますが、光神祭の巡礼路にまとめて並べるのは、外地からの巡礼者への配慮でしょう。聖都の秩序を見せる意味もあります」
「秩序を見せる」
エアリスは、その言い方を覚えた。
大通りの脇には、九柱の小さな祭壇が置かれていた。
光の神アウレクスには、白い灯。
水と循環の神サレッサには青い杯。
風の神アエラリスには、細い鈴。
大地の神ガエロスには、穀粒を入れた小皿。
炎と変革の神ピュラには赤い灯。
夢の神ソムニアには、薄い銀布。
血と契約の神クリムゾンには、深紅の紐。
星の神アストリクスには、小さな星図。
闇と境界の神ノクティラの祭壇は、他より少し奥にある。黒い布の上に、小さな白花が一輪だけ置かれていた。
胸元の棺の奥から、エアリスにだけ届く低い声がした。
「……供えの向きは、違えておらぬ」
「向きですか」
エアリスは小さく返した。
「境界を乱す供えなど、供えではない」
それきり、ノクティラは黙った。
人々は祈る。
祈り終えると、笑って店へ向かう。
信仰と生活が同じ道に並んでいる。
エアリスはそれを見ていた。
祭壇の横では、管理科の若い職員が巡礼者カードへ小さな印を押していた。巡礼者は礼を言い、近くの屋台で香草茶を買っている。祈りを終えたあと、休む場所がある。その流れまで含めて、祭は整えられていた。
「カードにも印があるんですね」
「巡礼の記録だよ」
セリナが答えた。
「全部集めると何かもらえるのですか?」
「割引とか、記念札とか。あと、本人が嬉しい」
「本人が」
「大事でしょ」
エアリスは巡礼者カードの印へ目を戻した。
城で見た印は、命令や許可のためにあった。
ここにある印は、人が自分で歩いた場所を残すためにある。
午後には、学区中心の小展示へ向かった。
学術院の学生たちが、基礎魔導具、魔法演目、小さな研究発表を並べている。戦闘科の上級生は低出力の魔法を使った演武を行い、学術科の学生は浄化水路の模型を見せていた。
マグヌス学院長も、短い公開講話をしていた。
「学びは、神殿の中だけにあるものではありません。炉の前にも、工房にも、店先にも、裂け目の前にもあります」
穏やかな声だった。
祭の日の言葉として、広場の空気に自然に溶けていた。
学生の一人が手を上げた。
「学院長。学びは信仰とぶつかることがありますか」
「あります」
マグヌスはあっさり答えた。
近くの学生が、筆を止めた。
「知らないまま祈ることもできます。ですが、知った上で祈ることもできます。どちらが正しいかは、簡単には決められません。ただ、学院にいる皆さんには、知ることから逃げないでほしい」
エアリスはその言葉を聞いた。
隣の学生の筆先が、また動き始めた。
講話のあと、展示台の横に出ていた屋台へ寄った。
昼の店とは違い、学術院の学生が出している小さな店だった。魔導具型の飴、試験管に入った果実水、結界札の形をした薄焼き菓子が並んでいる。
セリナは苺の蜜包みを一つ取り、エアリスへ差し出した。
「さっき好きって言ってたから」
エアリスは、差し出された包みとセリナの顔を順に見た。
「覚えてくれたんですね」
「本人が覚えたなら、周りも覚えやすいでしょ」
セリナは軽く言ったが、包みを持つ指が照れたように紙を撫でた。
ディートリヒは果実水の瓶を二本取る。
「甘味だけでは、後で喉が渇きます」
「気遣いが規則正しい」
「体調管理です」
セリナが笑い、エアリスは苺の蜜包みをカバンの内側へしまった。
そのあと、図書館の少女の古本市へ寄った。彼女は祭礼記録の小冊子を並べている。
「来たね」
「来ました」
少女はエアリスを見て、それから後ろの二人へ視線を移した。
「今日は本以外の同行者付き?」
「はい。Aクラスのセリナさんと、ディートリヒさんです」
エアリスが紹介すると、セリナが先に微笑んだ。
「初めまして」
「初めまして。図書館で閉館時間にだけは厳しい人です」
「名前は?」
「まだ秘密」
少女は悪びれずに言った。
ディートリヒが展示札から目を上げる。
「規則ですか」
「私の中の規則」
セリナが少し笑った。
「その規則、聞き覚えがある」
「全部回ろうとしてない?」
「回れないと聞いたので、選びました」
「学習が早い」
少女は一冊の薄い冊子を渡した。
「初めての人向け。光神祭の鐘と白花の話」
「ありがとうございます」
「貸し出しじゃなくて、配布。祭だから」
エアリスが冊子を受け取った時、広場の入口からグランツベルク家の使いらしい男が近づいてきた。
セリナが気づく。
使いは一礼し、封書を差し出した。
「お嬢様。至急です」
封蝋を見た瞬間、セリナの指が止まった。
封蝋は赤い。
前の手紙より印が深く、家書というより正式な通達に近い。
セリナは封書を受け取り、すぐには開かなかった。
「……ごめん。席を外す」
「一緒に行きますか?」
エアリスが聞く。
セリナは迷って、首を横に振った。
「先に読む。必要なら、呼ぶ」
「はい」
セリナは使いとともに、人の少ない回廊へ向かった。
白鐘広場では、夕方の鐘の準備が始まっている。
祭は続いていた。
エアリスは白花の冊子を閉じた。
紙の端には、広場の灯りが薄く乗っている。
冊子の端を押さえた指に、砂糖菓子の白い粉がついていた。
それを見て、エアリスは指先をそっと払った。




