第二十二話:光神祭の前日
翌日の教室は、昨日より少し軽かった。
裂け目関連の資料の確認は、昨日で一区切りついた。異常の報告は教廷と学術院が扱う。学生たちの手元に残ったのは、自分のノートと、次の授業だけだった。
そして、聖都は光神祭の前日を迎えていた。
中央棟の窓から見える通りには、白い布飾りが増えている。柱と柱の間に細い紐が渡され、そこに小さな鐘形の飾りが下がっていた。風が吹くと、金属ではなく陶器のような柔らかい音が鳴る。
窓の下では、白花を積んだ小さな荷車が神殿区の方へ進んでいた。
運ぶ人の袖にも、白い紐が結ばれている。
「明日は休講」
セリナが席で伸びをした。
「祭の日まで授業があったら、さすがに泣く」
「泣くんですか?」
「心の中で」
「それなら、見えません」
「そこを拾う?」
セリナは笑った。
昨日の封書の影は、完全には消えていない。それでも、彼女はいつもの調子を戻そうとしていた。
ディートリヒは前の席で予定表を見ている。
「午前は神殿区で祝福式。午後は学術院の小展示。夕方に白鐘広場で鐘の儀」
「詳しいね」
セリナが言う。
「予定を確認しただけです」
「それを詳しいって言うんだよ」
「そうですか」
ディートリヒは納得したように予定表を畳んだ。
エアリスは窓の外を見た。
祭。
城には行事があった。だが、それは家のための儀礼であって、街の人々が楽しみにするものではなかった。
聖都の祭は違う。
学生が浮き立ち、店が準備をし、管理科の職員が通行路を整え、神官が神殿前の列を確認する。
多くの人が、明日を待っている。
午前の授業は短縮された。
教師も光神祭の準備があるらしく、課題は少ない。Aクラスの生徒たちは授業後、学区中心へ行く者、神殿区へ手伝いに向かう者、寮や家へ戻る者に分かれた。
セリナはすぐに立ち上がる。
「エアリス、行こう」
「どこへですか?」
「学区中心。明日の出店を見に行く。あと、あなたは聖都の祭を知らないでしょ」
「はい」
「なら見た方がいい」
エアリスは少し考えた。
ルセリアには、今日は早く戻らなくてもいいと言われている。光神祭の前日は街を見るのも勉強だ、と。
「行きます」
「よし」
セリナは満足そうにカバンを肩へ掛けた。
ディートリヒも席を立つ。
「私も途中まで同行してよろしいですか」
「予定確認?」
「学術院展示の配置を見ます」
「やっぱり予定確認じゃない」
三人は学区中心へ向かった。
学術院の外へ出ると、街の音が近くなる。
白い石畳の道には、屋台の骨組みが並び始めていた。鐘形の菓子を焼く店、香草丸パンを蒸す店、白花を模した砂糖菓子を並べる店。まだ準備中なのに、甘い匂いが通りに漂っている。
その奥では、魔導具店が小さな展示台を出していた。
公共用の魔導灯の模型。
家庭用の簡易加熱器。
水路浄化用の小型結晶。
どれも、聖都の生活で使われるものだ。
けれど、隣の食堂は炉に薪をくべていた。店主は手書きの献立を板に吊るし、陶杯を布で拭いている。魔導具の光と、古い火の匂いが同じ通りにあった。
「不思議です」
エアリスが言う。
「何が?」
セリナが聞いた。
「とても進んでいるものと、昔から変わらないようなものが、同じ場所にあります」
「ああ。街の大きな設備って、すごいよね。テレポート駅とか、浄化水路とか。でも、家の中はわりと普通」
「普通」
「鍋は鍋だし、パンは炉で焼くし、洗濯は面倒」
セリナは肩をすくめた。
「魔導具って、便利だけど高いし、使うにも手入れが要るから」
ディートリヒも続ける。
「国家や大商会が維持するものと、個人が持つものでは違います。魔法を使えない者も多い。公共施設で技術を支える方が、効率はよい」
「だから、街は進んでいて、家は落ち着いているんですね」
「良い言い方だと思います」
ディートリヒは予定表の角をそろえた。
セリナは菓子屋の前で立ち止まった。
「難しい話はここまで。これ、食べよう」
店先には、小さな鐘の形をした焼き菓子が並んでいた。白い砂糖が薄くかかり、香草の匂いがする。
「前日なのに買えるんですか?」
「試し焼き。明日の本番前に出す店が多いの」
セリナは三つ買った。
代金は銅貨数枚だった。
エアリスは受け取り、指で割る。中は柔らかい。外側は薄く焼けていて、口に入れると香草と蜂蜜の甘さが広がった。
「おいしいです」
「反応が静か」
「でも、おいしいです」
「ならいいか」
セリナは自分の分を一口で半分食べた。
ディートリヒは菓子を紙に包んだまま持っている。
「食べないの?」
「後で」
「冷めるよ」
「冷めた時の食感も確認します」
セリナはエアリスを見た。
「ね、硬いでしょ」
「研究熱心です」
「優しい言い方」
学区中心の通りを進むと、制服の補修店や古本屋、魔法技術店が並んでいた。用具の貸出所や、私設試練場の看板も見える。
魔法技術店の前では、店員が基礎魔導具を並べていた。学生向けの簡易記録板、光量を調整できる小さな灯り、結晶片を保護する革の入れ物。値札には銀貨と銅貨の単位が混じっている。
「普通の学生でも買えますか?」
エアリスが尋ねると、セリナは棚を見た。
「基礎品ならね。いい物は高いけど、学校から配られる物もあるし、戦闘科に入れば功績交換制度もある」
「功績交換制度」
「実習や任務で得た功績を、魔導具や素材と交換する制度。危ない場所へ行く人には、ちゃんと報酬が出る」
ディートリヒが補足した。
「ただし、低階位の学生を危険な任務へ出すための制度ではありません。上級課程向けです」
「はい」
エアリスは店先の小さな灯りを見直した。
店先の灯りは小さい。けれど、学生たちはそれを真剣に見ていた。いつか使う道具を、今の自分の手で確かめている。
学生たちは明日の出店準備で忙しそうだった。普通課程の学生が木箱を運び、戦闘科の上級生が小さな演武台を組み、学術科の学生が魔導具展示の安全札を貼っている。
Aクラスの制服を見ると、何人かが目礼した。
遠巻きに見る者もいる。ひそひそ笑いはない。珍しいものを少し離れて眺めているだけだった。
「Aクラスって、やっぱり見られますね」
エアリスが言うと、セリナは笑った。
「今さら?」
「まだ慣れていません」
「私も入学した頃は慣れなかったよ。今は、見られるなら姿勢くらいちゃんとしようって思ってる」
「姿勢」
「うん。変なところで転んだら、家にまで噂が届くから」
「それは困ります」
「困るでしょ」
セリナは明るく言った。
封書の話題になると、セリナの返事は半拍だけ遅れる。エアリスは気づいていたが、触れなかった。
通りの先で、図書館の少女が本の箱を運んでいた。
小柄な体で、箱が少し大きい。
セリナは少し離れた屋台で白花飾りの値札を見ている。ディートリヒは掲示板の前で、学術院展示の配置を確かめていた。
エアリスが近づく。
「手伝います」
「あ、助かる。重いんだよ、これ」
少女は遠慮なく箱の片側を渡した。
「図書館も、祭に出るんですか?」
「古本市と巡礼記録の展示。あと、明日だけ閲覧相談も外に出る」
箱の中には、薄い冊子と小さな展示札が詰まっていた。
「祭の日は、普段図書館に来ない人も本を見るからね」
少女は箱を机の下へ置いた。
「エアリスは明日、どこを回るの?」
「まだ決めていません」
「じゃあ、地図いる?」
彼女は折りたたんだ祭の案内図を差し出した。
神殿区、白鐘広場、学区中心、巡礼者通り、水路区。
主要な道とテレポート駅、馬車乗り場も書かれている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。全部回ろうとすると疲れるよ」
「全部は無理ですか?」
「初めての人は、だいたいそう言う」
少女は少し楽しそうだった。
「光神祭は一日で回るものじゃなくて、気に入った場所で足を止めるもの」
「覚えておきます」
「また採用が早い」
その時、遠くで鐘が鳴った。
夕方の鐘だった。
通りの店が、少しずつ閉じ始める。祭の前日でも、聖都の多くの店は鐘に合わせて動く。夜に残るのは、食堂、浴場、宿、神殿、必要な店だけだ。
白い布飾りが、夕方の光を受けて淡く光っていた。
エアリスが地図を持って戻ると、セリナは白花飾りを指先で揺らしていた。買うつもりはないらしい。ただ、屋台の人と短く話して、明日の人出を聞いていた。
「そろそろ戻らないと」
ディートリヒが言った。
「明日の朝は早い」
「本当に予定通りの人だね」
セリナが言う。
「予定は守るためにあります」
「うん、硬い」
エアリスは祭の地図を畳んだ。
「明日、どこから回るのがいいですか?」
セリナは少し考えた。
「白鐘広場かな。最初に鐘を聞くと、祭に来たって感じがする」
エアリスはさっきの案内図を開いた。白鐘広場の線から、神殿区へ続く道がまっすぐ引かれている。
「その後は、神殿区でしょうか」
「混むけど、初めてなら見ておいた方がいいと思う」
「分かりました」
エアリスは地図の白鐘広場に指を置いた。
明日はそこから。
地図の上の広場が、明日の行き先になった。
エアリスは地図をカバンにしまった。明日の朝に行く場所が、一つ増えた。
折り目はつけなかった。明日また開く。
ゼニスクライムへ戻る道で、カバンの中のアキが言った。
「僕の分の鐘菓子は?」
「本は食べません」
「気持ちの問題だよ」
「では、気持ちだけ」
「ひどい」
セリナが横で吹き出した。
夕方の聖都に、白い飾り紐が揺れている。
裂け目の黒い線も、報告書に残った波動反応も、消えたわけではない。
それでも、遠くの白鐘広場では、明日のための灯りが一つずつ点っていた。




