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鳥籠の令嬢は、神と悪魔を連れて世界の嘘を旅する ~政略結婚の前夜、地下牢で始まった神授物と邪教の巡礼譚~  作者: 0くるみ0
聖都編

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第二十話:報告書に残った波

 学術院へ戻ると、Aクラスはそのまま第二講義室へ集められた。


 誰も帰されない。


 見学は途中で終わり、記録にない変化が起きた。先にするべきことは、見たものを失わないことだった。


 教室の前には担当教師、監督官、上級生補助が並んでいた。


 マグヌス学院長も、遅れて入ってきた。


 彼は学生たちを見回し、最初に言った。


「全員、戻りましたね」


「はい」


 担当教師が答える。


 マグヌスは結晶板へ視線を移した。


「では、見学後の確認を始めます。今日の見学は予定通りには進みませんでした。ただし、皆さんは見学で学ぶべきものを多く持ち帰りました」


 褒める声ではなかった。


 慰める声でもない。


 教室のざわめきが、そこで一段落ちた。


「まず、現場対応について」


 監督官が前へ出る。


「第四柱の瞬き、黒い変色線の拡大、基礎結界札の灰色反応。この三つをもって、学生班の撤退を判断しました。魔物は第一階位相当二体。戦闘力だけを見れば、対応可能です。しかし今日の主目的は見学です。戦闘訓練ではありません」


 結晶板に、現場の簡易図が映る。


 裂け目。


 結界柱。


 退避路。


 エアリスが申告した黒い変色線が、赤い印で示されていた。


「ヴァレンさんの申告は、資料との差異に基づいたものです。断定ではなく観察として出されたため、現場側が確認しやすかった」


 エアリスは座ったまま軽く頭を下げた。


「グランツベルクさんの火属性補助は、指示を待ってから行われました。出力も進路遮断に留まり、燃焼拡大はありません」


 セリナの背筋が少し伸びる。


「ハルデンベルクさんの後列整理は、学生班の移動速度を保ちました」


 ディートリヒは手元の記録を閉じた。


「一方で、課題もあります」


 監督官は結晶板を切り替えた。


「学生班の中に、記録不能を申告した者が一名。これは悪いことではありません。むしろ、申告したことで後の訓練に使えます。現場で手が止まることはあります。問題は、それを隠すことです」


 記録不能を申告した女子学生は、顔を伏せなかった。


 彼女は自分の記録板を見ていた。


 マグヌスがそこで口を開く。


「今日の報告を、失敗と呼ぶ者がいるかもしれません。ですが、見学の目的が危険を知ることなら、目的は達せられています」


 彼は学生たちを見た。


「皆さんが現場で英雄になる必要はありません。特に学生のうちは。大切なのは、見たものを見たと言い、できないことをできないと言うことです」


 その言葉に、何人かが顔を上げた。


 強くなることを求められるAクラスで、できないと言うことも求められている。何人かの筆先が、紙の上で止まった。


 セリナは紙の端を押さえたまま、マグヌスを見た。


「耳が痛い日が続く」


「耳は大丈夫ですか?」


 エアリスが小声で聞く。


「そういう意味じゃないけど、ありがとう」


 セリナは小さく笑った。


 確認は一人ずつ短く行われた。


 質問に答え、見たものを順に伝える。


 憶測は分ける。


 実際に見たこと、聞いたこと、札の反応、自分の判断。


 火属性の男子学生は、セリナの補助火線が進路を切るだけで止まった理由を聞かれた。


「燃やす目的ではなく、移動先を制限する目的だったからです」


 彼は答えた。


 監督官は結晶板に印を入れた。


「では、あなたが同じ場面で火を出すなら」


「出しません。私の火は面で広がりやすい。今日の距離では、グランツベルク嬢の方が向いています」


「よろしい」


 別の学生は、記録不能を申告した女子学生の代わりに記録を引き継げたかと問われた。


「気づけませんでした」


「次は」


「隣の記録板も見るようにします。ただし、自分の記録を止めない範囲で」


「それでいい」


 監督官の記録板には、叱責ではなく、次回確認の印が一つ増えた。


 セリナの番では、火線を出す前に迷ったかを問われた。


「迷いました」


 セリナは正直に答えた。


「前に出た方が早いと思いました。でも、指示が出るまで出ないと決めていました」


「なぜですか」


「昨日、そう習ったからです」


「それで十分です」


 監督官は言った。


「現場で急に賢くなる必要はありません。事前に決めた手順を守れることが、まず力になります」


 セリナは膝の上で拳を緩めた。


 エアリスの番が来た。


「ヴァレンさん。第四柱の黒い変色線に気づいた理由を」


 監督官が問う。


「資料では変質範囲が柵の内側三歩分と書かれていました。現地では、四歩目の石の縁に黒い線がありました」


「線を見て、何だと判断しましたか」


「分かりませんでした」


 教室の何人かが顔を上げる。


 エアリスは続けた。


「分からなかったので、資料との差異として申告しました」


「よろしい」


 監督官は短く言った。


「分からないものを、分からないまま申告できるのは重要です」


 次に、マグヌスが聞いた。


「左退避路の黒い変色線については」


「撤退中に見えました。中央路と左路のどちらを使うか判断が必要だと思い、教師へ伝えました」


「自分で列を変えようとは思いませんでしたか」


「思いませんでした。私は監督者ではありません」


 マグヌスの目が細くなる。


 笑ったようにも、確かめたようにも見えた。


「良い判断です」


 マグヌスはそれ以上続けなかった。


 エアリスは礼をして、席へ戻る。


 確認の最後に、監督官は現場報告書の写しを見せた。


 生徒に配られたものではない。結晶板への投影だけだった。


 第四柱瞬き。


 黒い変色線の拡大。


 学生班撤退。


 魔物二体処理。


 基礎結界札、灰色反応三名。


 記録不能申告一名。


 欄はすべて埋まっていた。日付、担当者、処理欄。空いているのは、理由を書き足すための余白だけだった。


 図書館の少女が、古い資料の端を指で押さえた時の仕草が頭に浮かんだ。


 最後の方に、短い項目があった。


 意志を帯びた波動反応、微弱。


 範囲拡大なし。


 エアリスは視線を止めた。


 他にも気づいた者はいたらしい。ディートリヒの筆が止まる。セリナも結晶板を見ていた。


 監督官は説明を続ける。


「本件は、正式には学術院と教廷で扱います。学生個人が外部へ話す内容ではありません。質問がある場合は担当教師へ」


 学生たちは、余白へ書きかけた言葉をそこで止めた。


 マグヌスは回収箱を示した。


「今日の皆さんの記録は回収します。ただし、個人用の学習記録は残して構いません。現場情報の詳細な数値と配置は写さないこと」


「祭の前だからといって、今日のことを軽く扱わないように」


 彼はそこで一度、掲示板の方を見た。


「ただし、祭を楽しんではいけない、という意味でもありません」


 掲示板には光神祭の巡礼路が貼られている。その脇に、第三管理区域の注意札も並んでいた。


「同じ街です。祭の灯りも、管理区域の札も。どちらか片方だけを見て、聖都を知ったことにはなりません」


 生徒たちは記録板を提出した。


 エアリスも提出する。


 手元には、自分のノートだけが残った。


 回収された記録板は、監督官の封筒にまとめられた。封には教廷印が押される。


 授業後も、教室の声はすぐには戻らなかった。


 それでも、学生たちはいつまでも座っていない。資料をしまい、教師へ質問し、互いに短く確認する。


 廊下へ出ても、今日の異常を大声で話す者はいなかった。


 閉じたばかりのノートをもう一度開き、欄外に小さな字を書き足す者がいる。


 エアリスはその様子を見ていた。


 セリナが隣へ来る。


「ねえ。今日のこと、図書館に行く?」


「行きたいです」


「だと思った」


「セリナさんは?」


「今日は行く。私も、記録の見方くらいは調べ直したい」


 少し間を置いて、セリナは言った。


「それと、家の手紙のこともあるし」


「読んだんですか?」


「うん。大したことじゃなかった、とは言いにくいかな」


 声は明るかったが、いつもより浅かった。


 エアリスは聞き返さなかった。


 セリナが話すなら、話すだろう。


 廊下へ出ると、光神祭の準備を知らせる紙が増えていた。


 白い飾り紐。鐘形の菓子。神殿前の灯火。学術院有志の展示。学生出店の申請締切。


 裂け目の報告会と同じ掲示板に、祭の紙が並んでいる。


 同じ聖都の、同じ一日だった。


「変な感じ」


 セリナが言った。


「裂け目の後に、お祭りの紙を見るのが?」


「うん」


「でも、同じ街です」


「そうだね」


 セリナは掲示板を見上げた。


「だから守るんだ、って言われたら、まあ納得しちゃう」


 彼女の言葉は、いつもの軽さより少し低かった。


 図書館へ向かう途中、ディートリヒが追いついた。


「ヴァレン嬢、グランツベルク嬢」


「ディートリヒさん」


「今日の報告書の意志を帯びた波動反応、見ましたか」


 エアリスは資料の該当欄に指を置いた。


「はい」


「微弱、とありました」


 ディートリヒは歩調を合わせた。


「学生用資料、公開資料、現場報告。三つとも同じ表現でした」


「偶然ではない、と思いますか?」


「まだ分かりません」


 彼はいつものように断定しない。


「ただ、同じ言葉で残すなら、管理側も無視できない反応なのでしょう」


 エアリスの中に、その言葉がそのまま残った。


 図書館の扉が見えてくる。


 中へ入る前に、カバンの中からアキが小さく言った。


「みんな、ちゃんと見るね」


「はい」


「いいクラスだ」


 アキの声は、珍しく茶化していなかった。


 エアリスは扉を押した。


 図書館の匂いが戻ってきた。


 図書館の奥で、見覚えのある少女がこちらを見つける。


 彼女は、もう何かを察したように片手を上げた。


 その手には、裂け目の管理に関する古い年報があった。

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