第十九話:申告と退避
監督官の指示は速かった。
「学生班、二歩後退。教師は右側の列を下げてください。上級生補助、第四柱へ」
Aクラスの生徒たちは一斉に下がった。
走らない。押さない。昨日の準備授業で言われた通り、札の光を見ながら距離を取る。
最前列の学生が一度だけ後ろを見た。すぐに前へ向き直る。後列の者は道を開け、上級生補助がその間に入った。誰かが声を荒げることはなかった。
驚きはある。
それでも、足は止まらない。
エアリスも二歩下がった。
基礎結界札は白いままだ。ただ、札の縁に細かな光が走っている。
裂け目の奥で、赤い目が二つ光った。
小型の魔物だった。胴に比べて前足が長い。頭の形が歪んでいて、口の端から黒い靄が漏れている。
一体。
続いて、もう一体。
資料にあった第一階位相当の魔物と近い。
それでも、記録で見るのとは違った。
目の前にいる。
その事実だけで、場の温度が下がる。
「第一階位相当二体。誘導陣、起動」
監督官が言うと、柵の内側の地面に白い線が走った。魔物はその線に沿って、裂け目の横へ流される。上級生が結界を重ね、騎士が槍を構えた。
動きは訓練されていた。
魔物は柵の内側から出られない。少なくとも、今は。
別のAクラスの女子学生が、教師の指示で記録板を掲げた。彼女は風属性の術式で、記録板の紙面を固定している。風が吹いても、紙はめくれない。
同じく教師の指示で、もう一人の男子学生は、後方の退避路に小さな光点を置いた。誘導灯の補助だ。弱い光だが、足元の石の段差が見えやすくなる。
派手な魔法ではない。
だが、現場では役に立つ。
セリナの指先に火が灯る。
だが、彼女はすぐに拳を閉じた。
「勝手な術式展開は禁止」
エアリスが小声で言う。
「分かってる」
セリナは唇を結んだまま、基礎結界札を握り直した。
ディートリヒは記録板を見ている。
「第四柱の反応低下は一瞬。魔物数二。退避路は二つ残っています」
「撤退ですか?」
エアリスが聞く。
「学生班は部分撤退が妥当でしょう。ただ、現場判断は監督官です」
その時、第四柱の足元で、黒い線が伸びた。
一寸未満だったものが、石の縁を越える。
基礎結界札が、白から淡い灰へ変わった。
エアリスは声を出した。
「申告します。第四柱外縁の黒い変色線が拡大。基礎結界札の反応、灰色に変化」
監督官が振り返った。
「確認」
教師がエアリスの札を見て、すぐに言った。
「灰色反応、確認」
「学生班、待機棟まで撤退。上級生二名は列の後方。教師は先導」
指示が下りた。
Aクラスは動き始める。
その瞬間、裂け目側で白い誘導線が一部だけ乱れた。
魔物の一体が、横へ跳ねる。
柵を越えたわけではない。だが、誘導陣の外縁へ足をかけた。
騎士が槍を突き出す。
魔物は避ける。
速い。
セリナが立ち止まりかけた。
「グランツベルクさん、下がりなさい」
教師の声が飛ぶ。
セリナは歯を食いしばり、下がった。
それでも、目は魔物から離さない。
エアリスは周囲を見た。
学生の列。
上級生補助。
教師。
待機棟への道。
そして、左側の白い柵の影。
資料には、待機棟への退避路は二つあると書かれていた。今使っているのは中央の道。もう一つは左側の石道だ。
だが、左側の石道の手前に、黒い変色線が伸びている。
「先生」
エアリスは列の中から声を上げた。
「左側の退避路にも黒い変色線があります。中央路だけで撤退した方が安全です」
教師はすぐに左を見た。
「確認。中央路へ一本化。列を詰めず、順に」
判断が変わる。
学生の列が乱れかけたが、ディートリヒが先に声を出した。
「後列、間隔を一歩。前へ詰めすぎないでください」
近くの学生が反応し、列が整う。
セリナは後方を見た。
「私が最後尾でいい?」
「教師の指示を」
エアリスが言う。
セリナは一瞬だけ口を開き、すぐ閉じた。
「……そうだね」
彼女は教師を見る。
教師は結界柱の方へ顎を向けた。
「グランツベルクさん、後方補助。術式展開は指示があるまで待機」
「はい」
セリナの顔が変わった。
待つための顔ではない。動く時のために、待っている顔だった。
魔物はまだ柵の内側にいる。
騎士と上級生が押さえているが、誘導陣の乱れは残っていた。第四柱の青い光がまた瞬く。
監督官が叫ぶ。
「火属性補助、右外縁へ。火線で進路を切れ。燃やすな」
教師が振り返る。
「グランツベルクさん」
「はい」
セリナが手を上げた。
火が出る。
炎ではなく、赤い線だった。
昨日の制御板で見た線に似ている。熱を出しすぎず、地面すれすれを這う。魔物が跳ねようとした先に、赤い境界が置かれた。
魔物が止まる。
その一瞬で、上級生の結界が重なった。
騎士の槍が魔物を貫く。
黒い靄が散る。
魔物の体は崩れ、濁った砂のようになって消えた。
もう一体も、騎士と監督官の術式で封じられた。
現場は静かになった。
だが、誰もすぐに安堵しなかった。
監督官は結界柱を見ている。記録係は数値を読み、管理科職員が別の札を取り出す。上級生は学生列の位置を確認していた。
「学生班、撤退継続」
指示は変わらない。
Aクラスは待機棟へ戻った。
扉が閉じる。
外の裂け目の音が遠くなる。
待機棟の中で、誰かが息を吐いた。
ようやく、呼吸が戻った。
教師が全員の札を確認する。
白い札は、何枚か灰色のままだった。管理科の職員が小箱を持って回り、反応が残った札だけを別に入れていく。
「これは返却ですか?」
エアリスが尋ねると、職員は濁った札を布の上へ置いた。
「はい。後で濁りの反応を調べます。代わりの札は帰還前に渡します」
「使い回さないんですね」
「浄化確認が済むまでは使えません。裂け目で使った物は、人より正直な時がありますから」
エアリスはその職員の手を見た。指先に細かな傷がある。剣を握る手ではない。札や結晶を毎日扱う人の手だった。
代わりに渡された札は、まだ温度がなかった。袋から出したばかりの白い板だった。
表面には、検査済みの印が小さく押されている。
「灰色反応が出た者」
エアリスのほかに、二人が手を上げた。
「体調不良」
誰も手を上げない。
「記録不能になった者」
一人の女子学生が、少し迷って手を上げた。
「途中で筆が止まりました。状況は見えていましたが、どこを書けばよいか分かりませんでした」
「よろしい。正直な申告です」
教師は責めなかった。
「それも記録します」
セリナは自分の手を見ていた。
赤い火はもう消えている。
「燃やさなかった」
彼女がつぶやく。
「はい」
「言われた通り、進路だけ切った」
「見ていました」
「ちょっと、手が出そうだった」
セリナは苦笑した。
「でも、出さなかった」
「それも記録しますか?」
「しなくていい」
彼女は少し笑った。
ディートリヒは記録板を見直していた。
「左退避路の黒い変色線。資料にありませんでした」
「現地で増えたのか、資料に載らなかったのか」
エアリスが言うと、ディートリヒの筆先が記録板の欄をなぞった。
「どちらでも、撤退判断には関係します」
待機棟の扉が開き、監督官が入ってきた。
「現場は再封鎖しました。学生班の見学はここで終了します」
誰も不満を言わなかった。
終了という言葉で、ようやく何人かが肩の力を抜いた。緊張が解ける音はしない。ただ、椅子に座る動きが少し遅くなり、筆を持つ手が一度止まる。
監督官はエアリスたちを見た。
「ヴァレンさん、黒い変色線の申告。グランツベルクさん、火属性補助。ハルデンベルクさん、後列整理。いずれも、指示範囲内で適切でした」
三人はそれぞれ礼をした。
「ただし、今日は成功の話では終わりません」
監督官の声は硬くなかった。
「裂け目の前では、正しく動いても危険は残ります。自分が役に立ったと思った時ほど、記録を見直しなさい」
「はい」
声がそろう。
帰還前、学生たちは待機棟の別室で短い記録を書いた。
エアリスは順に残す。
第四柱瞬き。
黒い変色線の拡大。
左退避路外縁にも黒い変色線。
基礎結界札、灰色反応。
魔物二体。誘導陣一部乱れ。
最後に、書くか迷ってから一文を足した。
裂け目の音が大きくなった時間は短い。模擬音より、奥に残る。
書き終えると、教師が記録板を確認して回った。提出までに読み返す時間は短い。直すより、足りないところに印をつけるだけで精一杯だった。
それでも、学生たちは書いた。
震えた文字もある。整った文字もある。教師は何も言わず、一枚ずつ確認印を押していった。
カバンの中で、アキが声を落とした。
「出なくてよかった?」
「はい」
「ちょっと寂しいね」
「寂しい場面ではありません」
「それはそう」
アキはそこで黙った。
帰りのテレポート陣に乗る時、エアリスはもう一度だけ窓の外を見た。
白い柵。
結界柱。
低い丘。
その奥の黒い裂け目。
見学は、途中で終わった。
エアリスの記録票には、黒い変色線と灰色の札の欄が残っている。
魔法陣が光り、景色が白く切り替わった。
次に足元へ戻ってきたのは、学術院の石床だった。




