表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鳥籠の令嬢は、神と悪魔を連れて世界の嘘を旅する ~政略結婚の前夜、地下牢で始まった神授物と邪教の巡礼譚~  作者: 0くるみ0
聖都編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/80

第十九話:申告と退避

 監督官の指示は速かった。


「学生班、二歩後退。教師は右側の列を下げてください。上級生補助、第四柱へ」


 Aクラスの生徒たちは一斉に下がった。


 走らない。押さない。昨日の準備授業で言われた通り、札の光を見ながら距離を取る。


 最前列の学生が一度だけ後ろを見た。すぐに前へ向き直る。後列の者は道を開け、上級生補助がその間に入った。誰かが声を荒げることはなかった。


 驚きはある。


 それでも、足は止まらない。


 エアリスも二歩下がった。


 基礎結界札は白いままだ。ただ、札の縁に細かな光が走っている。


 裂け目の奥で、赤い目が二つ光った。


 小型の魔物だった。胴に比べて前足が長い。頭の形が歪んでいて、口の端から黒い靄が漏れている。


 一体。


 続いて、もう一体。


 資料にあった第一階位相当の魔物と近い。


 それでも、記録で見るのとは違った。


 目の前にいる。


 その事実だけで、場の温度が下がる。


「第一階位相当二体。誘導陣、起動」


 監督官が言うと、柵の内側の地面に白い線が走った。魔物はその線に沿って、裂け目の横へ流される。上級生が結界を重ね、騎士が槍を構えた。


 動きは訓練されていた。


 魔物は柵の内側から出られない。少なくとも、今は。


 別のAクラスの女子学生が、教師の指示で記録板を掲げた。彼女は風属性の術式で、記録板の紙面を固定している。風が吹いても、紙はめくれない。


 同じく教師の指示で、もう一人の男子学生は、後方の退避路に小さな光点を置いた。誘導灯の補助だ。弱い光だが、足元の石の段差が見えやすくなる。


 派手な魔法ではない。


 だが、現場では役に立つ。


 セリナの指先に火が灯る。


 だが、彼女はすぐに拳を閉じた。


「勝手な術式展開は禁止」


 エアリスが小声で言う。


「分かってる」


 セリナは唇を結んだまま、基礎結界札を握り直した。


 ディートリヒは記録板を見ている。


「第四柱の反応低下は一瞬。魔物数二。退避路は二つ残っています」


「撤退ですか?」


 エアリスが聞く。


「学生班は部分撤退が妥当でしょう。ただ、現場判断は監督官です」


 その時、第四柱の足元で、黒い線が伸びた。


 一寸未満だったものが、石の縁を越える。


 基礎結界札が、白から淡い灰へ変わった。


 エアリスは声を出した。


「申告します。第四柱外縁の黒い変色線が拡大。基礎結界札の反応、灰色に変化」


 監督官が振り返った。


「確認」


 教師がエアリスの札を見て、すぐに言った。


「灰色反応、確認」


「学生班、待機棟まで撤退。上級生二名は列の後方。教師は先導」


 指示が下りた。


 Aクラスは動き始める。


 その瞬間、裂け目側で白い誘導線が一部だけ乱れた。


 魔物の一体が、横へ跳ねる。


 柵を越えたわけではない。だが、誘導陣の外縁へ足をかけた。


 騎士が槍を突き出す。


 魔物は避ける。


 速い。


 セリナが立ち止まりかけた。


「グランツベルクさん、下がりなさい」


 教師の声が飛ぶ。


 セリナは歯を食いしばり、下がった。


 それでも、目は魔物から離さない。


 エアリスは周囲を見た。


 学生の列。


 上級生補助。


 教師。


 待機棟への道。


 そして、左側の白い柵の影。


 資料には、待機棟への退避路は二つあると書かれていた。今使っているのは中央の道。もう一つは左側の石道だ。


 だが、左側の石道の手前に、黒い変色線が伸びている。


「先生」


 エアリスは列の中から声を上げた。


「左側の退避路にも黒い変色線があります。中央路だけで撤退した方が安全です」


 教師はすぐに左を見た。


「確認。中央路へ一本化。列を詰めず、順に」


 判断が変わる。


 学生の列が乱れかけたが、ディートリヒが先に声を出した。


「後列、間隔を一歩。前へ詰めすぎないでください」


 近くの学生が反応し、列が整う。


 セリナは後方を見た。


「私が最後尾でいい?」


「教師の指示を」


 エアリスが言う。


 セリナは一瞬だけ口を開き、すぐ閉じた。


「……そうだね」


 彼女は教師を見る。


 教師は結界柱の方へ顎を向けた。


「グランツベルクさん、後方補助。術式展開は指示があるまで待機」


「はい」


 セリナの顔が変わった。


 待つための顔ではない。動く時のために、待っている顔だった。


 魔物はまだ柵の内側にいる。


 騎士と上級生が押さえているが、誘導陣の乱れは残っていた。第四柱の青い光がまた瞬く。


 監督官が叫ぶ。


「火属性補助、右外縁へ。火線で進路を切れ。燃やすな」


 教師が振り返る。


「グランツベルクさん」


「はい」


 セリナが手を上げた。


 火が出る。


 炎ではなく、赤い線だった。


 昨日の制御板で見た線に似ている。熱を出しすぎず、地面すれすれを這う。魔物が跳ねようとした先に、赤い境界が置かれた。


 魔物が止まる。


 その一瞬で、上級生の結界が重なった。


 騎士の槍が魔物を貫く。


 黒い靄が散る。


 魔物の体は崩れ、濁った砂のようになって消えた。


 もう一体も、騎士と監督官の術式で封じられた。


 現場は静かになった。


 だが、誰もすぐに安堵しなかった。


 監督官は結界柱を見ている。記録係は数値を読み、管理科職員が別の札を取り出す。上級生は学生列の位置を確認していた。


「学生班、撤退継続」


 指示は変わらない。


 Aクラスは待機棟へ戻った。


 扉が閉じる。


 外の裂け目の音が遠くなる。


 待機棟の中で、誰かが息を吐いた。


 ようやく、呼吸が戻った。


 教師が全員の札を確認する。


 白い札は、何枚か灰色のままだった。管理科の職員が小箱を持って回り、反応が残った札だけを別に入れていく。


「これは返却ですか?」


 エアリスが尋ねると、職員は濁った札を布の上へ置いた。


「はい。後で濁りの反応を調べます。代わりの札は帰還前に渡します」


「使い回さないんですね」


「浄化確認が済むまでは使えません。裂け目で使った物は、人より正直な時がありますから」


 エアリスはその職員の手を見た。指先に細かな傷がある。剣を握る手ではない。札や結晶を毎日扱う人の手だった。


 代わりに渡された札は、まだ温度がなかった。袋から出したばかりの白い板だった。


 表面には、検査済みの印が小さく押されている。


「灰色反応が出た者」


 エアリスのほかに、二人が手を上げた。


「体調不良」


 誰も手を上げない。


「記録不能になった者」


 一人の女子学生が、少し迷って手を上げた。


「途中で筆が止まりました。状況は見えていましたが、どこを書けばよいか分かりませんでした」


「よろしい。正直な申告です」


 教師は責めなかった。


「それも記録します」


 セリナは自分の手を見ていた。


 赤い火はもう消えている。


「燃やさなかった」


 彼女がつぶやく。


「はい」


「言われた通り、進路だけ切った」


「見ていました」


「ちょっと、手が出そうだった」


 セリナは苦笑した。


「でも、出さなかった」


「それも記録しますか?」


「しなくていい」


 彼女は少し笑った。


 ディートリヒは記録板を見直していた。


「左退避路の黒い変色線。資料にありませんでした」


「現地で増えたのか、資料に載らなかったのか」


 エアリスが言うと、ディートリヒの筆先が記録板の欄をなぞった。


「どちらでも、撤退判断には関係します」


 待機棟の扉が開き、監督官が入ってきた。


「現場は再封鎖しました。学生班の見学はここで終了します」


 誰も不満を言わなかった。


 終了という言葉で、ようやく何人かが肩の力を抜いた。緊張が解ける音はしない。ただ、椅子に座る動きが少し遅くなり、筆を持つ手が一度止まる。


 監督官はエアリスたちを見た。


「ヴァレンさん、黒い変色線の申告。グランツベルクさん、火属性補助。ハルデンベルクさん、後列整理。いずれも、指示範囲内で適切でした」


 三人はそれぞれ礼をした。


「ただし、今日は成功の話では終わりません」


 監督官の声は硬くなかった。


「裂け目の前では、正しく動いても危険は残ります。自分が役に立ったと思った時ほど、記録を見直しなさい」


「はい」


 声がそろう。


 帰還前、学生たちは待機棟の別室で短い記録を書いた。


 エアリスは順に残す。


 第四柱瞬き。


 黒い変色線の拡大。


 左退避路外縁にも黒い変色線。


 基礎結界札、灰色反応。


 魔物二体。誘導陣一部乱れ。


 最後に、書くか迷ってから一文を足した。


 裂け目の音が大きくなった時間は短い。模擬音より、奥に残る。


 書き終えると、教師が記録板を確認して回った。提出までに読み返す時間は短い。直すより、足りないところに印をつけるだけで精一杯だった。


 それでも、学生たちは書いた。


 震えた文字もある。整った文字もある。教師は何も言わず、一枚ずつ確認印を押していった。


 カバンの中で、アキが声を落とした。


「出なくてよかった?」


「はい」


「ちょっと寂しいね」


「寂しい場面ではありません」


「それはそう」


 アキはそこで黙った。


 帰りのテレポート陣に乗る時、エアリスはもう一度だけ窓の外を見た。


 白い柵。


 結界柱。


 低い丘。


 その奥の黒い裂け目。


 見学は、途中で終わった。


 エアリスの記録票には、黒い変色線と灰色の札の欄が残っている。


 魔法陣が光り、景色が白く切り替わった。


 次に足元へ戻ってきたのは、学術院の石床だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ