第十八話:第三管理区域の裂け目
翌朝、学術院の正門前には、Aクラスの生徒が早めに集まっていた。
制服の上から薄い外套を羽織り、通行許可札と基礎結界札を確かめる者が多い。普段より声は低かった。緊張はある。けれど、浮き足立った者はいなかった。
エアリスもカバンの内側を確認した。
学生証。通行許可札。基礎結界札。記録板。筆記具。
全部ある。
「やっぱり忘れないね」
セリナが横からのぞき込んだ。
「はい。昨日、忘れないよう言われましたから」
「それで本当に忘れないのが、あなたらしい」
「セリナさんも、今日は合っています」
「そこ、確認しなくていいから」
セリナは通行許可札と基礎結界札を持ち上げ、わざとらしく見せた。
ディートリヒは少し離れた場所で、教師に配布資料の番号を確認している。彼の声は聞こえないが、確認の順番に迷いはなかった。
やがて担当教師が姿を見せた。
「全員、列を作ってください。今日は学術院のテレポート陣を使います。現地では教廷監督官の指示に従うこと。勝手な移動、勝手な術式展開、許可のない接近は禁止です」
短い説明だった。
生徒たちは二列になり、管理棟の奥へ移動した。
学術院内のテレポート室は、白い石で作られた円形の部屋だった。床には大きな魔法陣が刻まれ、その外側に安全確認用の結晶柱が並んでいる。部屋の端には管理科の職員が二人、教廷聖騎士団の補助官が一人いた。
公共テレポート駅と同じ形式だが、こちらの方が静かで、手続きも速い。
「学生証と通行許可札を」
管理科職員が言った。
一人ずつ札を確認し、結晶柱の前で短い光を通す。エアリスの番になると、結晶柱は白く光った。
「確認済み。ヴァレンさん、入陣してください」
「はい」
エアリスは魔法陣の内側へ入った。
カバンの中で、魔導書が低くつぶやいた。
「僕、移動のたびに荷物扱いだよね」
「動かないでください」
「はい」
アキの返事は早かった。
全員が魔法陣に入ると、床の術式が淡く光る。眩しさはない。足元から薄い膜が上がり、視界が一度だけ白くなる。
次に見えたのは、石造りの待機棟だった。
空気が冷たい。
聖都の中より、風が乾いている。窓の外には低い丘と白い柵が見えた。柵の向こうには、細い塔のような結界柱がいくつも立っている。
待機棟には、長椅子と荷物棚、簡易治療用の寝台が並んでいた。壁には退避経路の図があり、隣の部屋では管理科の職員が記録板を整理している。公共テレポート駅と同じく保護術式はあるが、ここは観光客や商人のための場所ではない。使う人間も、置かれた道具も、現場へ向かうことを前提にしていた。
窓際には、教廷聖騎士団の騎士が二人立っている。白金の鎧は磨かれていたが、飾りのための光ではなかった。肩や籠手には、細かな傷が残っている。
セリナがそれを見て、声を落とした。
「本当に現場なんだね」
「はい」
エアリスは騎士の籠手に残る傷を見た。
待機棟の隅には、傷んだ結界札を入れる箱もあった。蓋には赤い印が押され、使用済みの札を持ち帰らないよう注意書きがある。授業で配られた白い札と同じ形なのに、箱の中の札は端が黒ずんでいた。
紙の資料には、ここまで載っていない。
エアリスは、黒ずんだ札の端もノートに書き足した。
教師はそれを見て、記録係の上級生へ目を向けた。
記録係の上級生も、同じ箱へ目を向けた。
第三管理区域の裂け目。
その名前は資料で何度も見た。だが、紙の上の文字と、窓の外にある白い柵は違う。
ここには、人が立っている。
教廷騎士。監督官。管理科の記録係。上級生補助。
それぞれが自分の場所を持って動いていた。
「ようこそ、第三管理区域の裂け目へ」
待機棟の入口で、昨日の報告会にいた監督官が言った。
「今日は見学です。皆さんが戦う時間ではありません。見るものは三つ。裂け目、結界、記録。魔物が出ても、指示があるまで動かないこと」
監督官は学生たちを見回す。
「怖いと思ったなら、理由を言いなさい。怖くないと思ったなら、それも理由を持ちなさい。どちらも、理由がなければ現場では使えません」
生徒たちは胸元の札や記録板を確かめた。
待機棟を出る前に、全員が基礎結界札を胸元へ留めた。札は白い薄板のまま、制服の上で小さく光った。
エアリスが札に触れると、冷たい感触が指に返る。
棺は静かだった。
「行きます」
監督官の声で、扉が開いた。
外へ出る。
丘の斜面に、白い柵が何重にも巡らされていた。その内側に、黒い裂け目がある。
遠くから見れば、ただ石壁に影が落ちているようにも見える。だが、近づくほど分かる。影ではない。薄い黒い裂け目が、石壁の前に浮いていた。
音がする。
水の音にも、風の音にも似ていない。耳の奥で、細い砂がこすれるような音だった。
セリナが眉を寄せた。
「これが、裂け目の音」
「はい」
エアリスは記録板に短く書いた。
耳奥に擦れる音。模擬音より近い。低いが、重くはない。
ディートリヒは結界柱の色を見ていた。
「全部、青ですね」
上級生補助が頷く。
「現時点では安定。昨日までの点検記録とも一致している」
「周辺環境は」
「柵の内側三歩分に乾燥変質。前回の記録から拡大なし」
やり取りは短い。
上級生は、学生というより現場職員の補助に近かった。問いに迷わず答え、余計な説明を挟まない。監督官も、彼を生徒扱いしていなかった。
Aクラスの生徒たちはその様子を黙って見ている。ここでは、知っていることを披露するより、現場の速度を覚える方が先だった。
エアリスは足元を見る。柵の内側では、草の色が白っぽく抜けていた。葉の形は残っているのに、触れれば崩れそうな質感だった。
「触らないでください」
監督官が先に言った。
「裂け目から漏れる濁りを受けたものです。見た目より危険な場合があります」
誰も手を伸ばさなかった。
次に、学生たちは結界柱の外周を歩いた。
それぞれの柱には番号があり、管理科の記録係が数値を読み上げている。上級生が補助し、Aクラスの学生は記録板へ写した。
「第三柱、反応安定」
「第四柱、青」
「裂け目の幅、前回比変化なし」
言葉が続く。
記録係の声に合わせて、上級生が札へ印を入れていく。紙の上で、点検欄が一つずつ埋まっていった。
エアリスの視線は、裂け目ではなく結界柱の足元へ落ちた。
白い石の台座。
刻まれた術式。
乾いた草。
その境目に、細い黒い線があった。
資料の図では、乾燥変質は柵の内側三歩分。だが、その黒い線は、四歩目の石の縁にかかっている。
広がっている、というほどではない。
線一本。
それでも、資料とは違う。
「監督官」
エアリスは声を上げた。
周囲の視線が向く。
「第四柱の足元、石の縁に黒い線があります。公開資料の変質範囲より、少し外です」
監督官はすぐに歩いてきた。
しゃがみ込み、石の縁を見る。
教師も来た。上級生補助が記録板を開く。
「触らず、位置を示してください」
エアリスは指さした。
監督官は短く頷く。
「記録係、第四柱外縁、黒い変色線。範囲、石縁一寸未満。採取は後で行う」
「はい」
記録係が筆を走らせた。
監督官は学生たちを見た。
「今のように、資料と違うものを見た時は、断定せず申告します。良い申告です」
エアリスは礼をした。
セリナが小声で言う。
「よく見つけたね」
「資料と違っていました」
「違うって言えるのがすごいんだよ」
ディートリヒも黒い線を見ていた。
「前回の記録が正しいなら、微小な変化。前回の記録が粗いなら、記録の癖です」
「どちらですか?」
「今は分かりません」
彼は迷わずそう言った。
「だから、記録します」
見学は続いた。
裂け目へ近づく区画では、音が少し強くなった。基礎結界札が制服の上で淡く光る。息苦しくはない。だが、背中に薄い冷気が触れているような感覚があった。
裂け目は、人の背丈より少し低い。
内側は見えない。
黒い。けれど、闇というより、何も置かれていない穴だった。
エアリスはそこを見た。
その時、胸元の棺が、服の下でかすかに冷えた。
声はしない。
ノクティラは何も言わない。
監督官が説明を続ける。
「この裂け目は低級に分類されています。低級で確認される魔物は第一から第三階位相当が中心です。ただし、今日の見学区域では魔物を近づけません。結界柱と誘導陣で外側へ流します」
話が終わる直前だった。
裂け目の奥で、音が一度だけ跳ねた。
ざり、と乾いた音がする。
第四柱の青い光が、瞬きした。
消えたわけではない。
灰色にもなっていない。
ただ、一瞬だけ遅れた。
監督官が右手を上げる。
「全員、停止」
Aクラスの生徒たちは止まった。
上級生補助が前に出る。教師が学生の列を下げた。誰も叫ばない。セリナも手を動かしかけて、すぐに止めた。
エアリスは記録板を握った。
第四柱、瞬き。
裂け目の音、一度増大。
黒い変色線、第四柱外縁。
書き終える前に、柵の内側の乾いた草が、小さく揺れた。
何かが出てくる。
そう思った瞬間、カバンの中で魔導書が開きかけた。
「エアリス君」
「まだです」
エアリスはカバンの口を指で押さえた。
アキは黙った。
監督官の声が飛ぶ。
「学生班、二歩後退。上級生、結界補助」
第三管理区域の裂け目の黒い縁が、細く震えた。




