第十七話:見学準備
図書館へ入ると、前に来た時より席が埋まっていた。
魔界の裂け目、結界、撤退手順。そのあたりの棚に、Aクラスの学生が何人か集まっている。
エアリスは閲覧札を取り出し、いつもの席へ向かった。
「来ると思った」
棚の向こうから声がした。
閉館を告げた少女だった。今日も本を数冊抱えている。顔を見るなり、口元だけで笑った。
「今日は裂け目の顔をしてる」
「裂け目の顔、ですか?」
「報告会を聞いた人が、そのまま図書館に来た時の顔。光神祭の準備でそわそわしてる人も増えてきたのに、あなたはそっち」
「どんな顔ですか」
「本を読めば何とかなると思ってる顔」
エアリスは本の背から手を離した。
「何とかなるとは思っていません」
「じゃあ?」
「少なくとも、何を知らないのかは分かると思います」
少女は一度瞬きをして、それから笑った。
「うん。そっちの方があなたっぽい」
机の上に、少女が本を置いた。
「管理下にある裂け目の見学要項。基礎結界札の取扱。学生用記録票の書き方。あと、セラフィア南西外縁の第三管理区域の裂け目の公開資料」
「ありがとうございます」
「先に言っておくけど、具体的な座標と封鎖術式はないよ」
「はい。公開資料ですから」
「分かってるならよろしい」
エアリスは最初に、見学要項を開いた。
通行許可。
基礎結界札。
監督者。
上級生補助。
撤退申告。
現場記録。
項目の横には、記入例と確認印の欄がある。読み物というより、現場で使う紙だった。
「見学でも、かなり細かいんですね」
「裂け目だからね。見に行くだけでも、ただの見物じゃない」
少女は隣の席に腰を下ろした。
「ここ、読んでみて」
彼女が指したのは、撤退申告の欄だった。
結界札の反応不良。
裂け目の音が大きくなる。
魔物の範囲外移動。
生徒の意識混濁。
記録不能。
どれか一つでも確認した場合、監督者へ申告。監督者は即時撤退、部分撤退、配置変更を判断する。
「『怖いです』だけでは足りないんですね」
「怖いって言えるうちは、まだいい方かもね」
「言えなくなることもありますか?」
「あるよ。たぶん。裂け目の音は、人によっては頭の奥に響くらしいし」
エアリスは基礎結界札の本を開いた。
札は攻撃を防ぐ道具ではない。周囲の魔力の乱れと、装着者の状態を外へ知らせるためのものだ。裂け目から漏れる濁りを弾く力もあるが、万能ではない。反応が乱れれば、本人が平気そうに見えても撤退理由になる。
エアリスは、朝からカバンに入っている白い札を取り出した。
少女がそれを見て、身を乗り出した。
「触っていい?」
「どうぞ」
少女は指先で札の端に触れた。
「へえ。新しいやつだ」
「分かるんですか?」
「術式の刻みがまだきれい。使い回しだと、もっと擦れてる」
「詳しいんですね」
「図書館にいると、物の癖を覚えるんだよ」
「本以外も?」
「本以外も」
少女はそう言って、札を返した。
エアリスは次に、第三管理区域の裂け目の公開資料を開く。報告会で扱われた裂け目と同じ南西外縁の資料だった。危険度、管理開始年、結界柱の本数、直近の点検日、学生見学の可否。
どれも見やすい。
見やすいからこそ、一か所だけ目が止まった。
近年追加項目。
意志を帯びた波動反応。
微弱。経過観察。
「ここは、詳しく書かないんですね」
エアリスが言うと、少女も資料をのぞき込んだ。
「ああ、本当だ」
「珍しいですか?」
「公開資料なら、珍しくはない。でも」
少女は指で紙の端を軽く押さえた。
「ここ数年で増えた項目にしては、説明が短いね」
エアリスはその言葉をノートに写した。
「今のも、受け売りですか」
「今のは自前」
「では、覚えておきます」
「採用が早い」
少女は笑い、立ち上がった。
「それ、閉館までに読み切るつもり?」
「必要なところは」
「必要なところ、増えるでしょ」
「増えます」
「正直」
彼女は棚へ戻りかけ、ふと思い出したように振り返った。
「見学前の準備授業、遅れないようにね。裂け目関係は時間に厳しいよ」
「はい」
「あと、基礎結界札は寝る前に机の上に置かないこと。朝、忘れる人がいる」
エアリスは札をカバンの内ポケットに戻した。
「忘れません」
「あなたは忘れなさそうだけど、一応」
少女は軽く手を振って、本棚の奥へ消えた。
その日の閉館前、エアリスは公開資料の近年追加項目を控えてもらった。
意志を帯びた波動反応。
微弱。経過観察。
翌週。
Aクラスは総合実技場の第二結界演習室に集められた。
床には薄い線で区切られた訓練区画があり、壁際には小型の結界柱が並んでいる。机はない。代わりに、学生一人ずつに通行許可札、基礎結界札、記録板が配られた。
担当教師は、短い説明から始めた。
「今日は見学前の準備を行います。内容は三つ。札の確認、撤退申告、記録の読み方です」
学生たちはすぐに札を手に取った。
「まず、通行許可札は身分確認です。失くせば、現場には入れません。基礎結界札は保護札であり、状態札でもあります。万能の盾ではない。そこを間違えないように」
教師が指を鳴らすと、演習室の中央に小さな結界が立ち上がった。
「順に札を反応させなさい」
学生たちは列を作った。
セリナはエアリスの前に立っていた。家の封書を読んでから、帝国や裂け目の話になると、返事の前に手元を見ることが増えた。
「セリナさん」
「ん?」
「札、逆です」
セリナは手元を見た。
通行許可札と基礎結界札を反対に持っていた。
「……今のなし」
「はい」
「忘れて」
「難しいです」
「そこは忘れてくれていいの」
セリナは小声で言い、すぐに持ち直した。
エアリスはそれ以上聞かなかった。
自分の番になると、エアリスは基礎結界札を結界にかざした。札の白い面に、淡い光が走る。胸元の小さな棺が、服の下でわずかに冷えた。
「反応良好」
教師が記録する。
エアリスは札を下ろした。
冷たさはすぐ消えた。
次は撤退申告の訓練だった。
演習室の結晶板に、模擬記録が映る。
裂け目の幅、結界柱反応、魔物数、退避路、札の反応、裂け目の音、周辺環境。
学生たちは三人一組になり、継続、配置変更、撤退のどれを申告するかを決める。
エアリスはセリナ、ディートリヒと同じ組になった。
記録板の端には、班ごとの小さな課題札が挟まれていた。
前方確認。記録。撤退申告。
課題札の下には、教師の細い字で「班で判断」と書かれている。
三人で同じ場を見て、欠けている条件をそろえ、無理なら戻る。そのための共同課題だった。
「よろしくお願いします」
ディートリヒが先に礼をした。
「こちらこそ」
セリナも軽く手を上げる。
「記録は、私が見ます」
ディートリヒが先に言った。
「じゃあ、私は前方確認。人と場所のほうを見るね」
セリナが札の一枚を指で寄せる。
エアリスは、二人の手元を見てから記録板へ目を戻した。
「私は、記録にないものを見ればいいですか」
ディートリヒの筆先が、一瞬だけ止まった。
「……それが一番助かります。私だけだと、記録されている条件に寄りすぎますから」
セリナが、小さく笑った。
「じゃあ、いい班だ」
「じゃあ、最初の記録。魔物は第一階位相当が二体。結界柱は全部青。退避路も二つ残ってる。これは継続でいい?」
「裂け目の音が前回より増えています」
エアリスが言った。
ディートリヒも記録板へ視線を落とす。
「増加幅は小さい。ただ、前回比較の欄が短い」
「撤退まではいかない?」
「監督者に確認を求める申告。配置は変えず、記録継続が妥当でしょう」
セリナは火属性の札をまだ伏せたままにした。
「なるほど。燃やせば終わる話じゃないね」
「まだ燃やしていません」
「分かってる。今のは心の中の話」
「心の中でも、退避路は残してください」
セリナが一瞬だけ止まり、次に肩を震わせた。
「エアリス、たまに真顔で刺してくるよね」
「刺したつもりはありません」
「じゃあ余計に痛い」
ディートリヒが咳払いをした。
「続けても?」
「はい」
「続けよう」
次の記録では、結界柱の一つが青から灰色に変わっていた。
「これは撤退」
セリナの判断は早かった。
「理由は?」
教師が近くで問う。
セリナは記録板を見た。
「結界柱の反応低下。魔物数は少ないけど、裂け目側の変化が見える。学生班は退避、監督者へ申告」
「よろしい」
教師は記録板に合格印を入れた。
セリナは肩の力を少し抜いた。
「前に出るより、退くって言う方が難しい」
「言えるなら、十分です」
エアリスが答えると、セリナは笑った。
「それで済むなら楽なんだけどね」
ディートリヒは三枚目の記録を見ていた。
「こちらは前提が崩れています」
「どこ?」
「魔物数は増えていない。結界柱も青です。ただ、退避路の一つが泥で塞がっています。さらに監督者からの応答が途切れています」
セリナの顔が変わる。
「応答が途切れてる?」
「通信不良か、監督者が一時的に応答できなかったか。理由は不明です」
ディートリヒはそこで一度止まった。
教師が何も言わず、続きを待つ。
ディートリヒは記録板の空欄を指で押さえ、それから置いた。
「撤退申告。理由は退避路の減少と監督者応答の途絶。現場判断を続ける材料が足りません」
「判断が遅れましたね」
教師が言った。
「はい」
ディートリヒは素直に認めた。
「条件が並んでいれば整理できます。ですが、条件そのものが欠けた時、次の基準を置くのが遅れました」
「それを今日知るための授業です」
教師は責めなかった。
「得意な型ほど、崩れた時に判断が鈍ります。現場は、皆さんの得意な形で来るとは限らない」
ディートリヒは礼をした。
「覚えておきます」
言い訳はなかった。
その短い返事は、記録板の空欄よりも強く残った。
「本物で迷ったら、私が先に止める」
セリナが、軽く手を挙げる。
「その時は、申告してください。私は条件を置き直します」
ディートリヒは、今度はすぐに答えた。
三人の間に、約束というほど大げさではないものが置かれた。
それでも、明日の見学で誰が何を見るのかは、前より少しはっきりしていた。
最後に、精神耐性の確認が行われた。
結晶板から、低い音が流れた。
音というより、耳の奥をこする震えに近い。長く聞けば、気分が悪くなる者もいるだろう。
教師は言った。
「これは実際の裂け目の音ではありません。学術院用に弱めたものです。聞こえ方を記録しなさい。耐える訓練ではありません。変化を言葉にする訓練です」
学生たちは黙って記録した。
エアリスも筆を動かす。
耳の奥に砂を落とされるような音。
胸元の棺が、一瞬冷えた。
今度は、胸の内側へ落ちるような声がした。
「……境界の記録にしては、薄い」
ノクティラの声だった。
エアリスは返事をせず、記録板の端に小さく書いた。
境界。薄い。
授業の終わり、教師は見学地資料を配った。
「明日、Aクラスはこの資料にある第三管理区域の裂け目の見学に入ります。今日配った札と通行許可は必ず持参すること。忘れた者は見学に参加できません」
資料が回ってくる。
エアリスは受け取り、表紙を見た。
セラフィア南西外縁第三管理区域の裂け目。
公開資料と同じ名称。
資料を開く。
見学経路。
結界柱配置。
撤退地点。
周辺環境記録。
監督者名。
上級生補助者名。
そこまでは、きちんと書かれていた。
近年追加項目も、図書館で見た資料と同じだった。
意志を帯びた波動反応。
微弱。経過観察。
セリナが横からのぞき込んだ。
「何か変?」
「図書館で見た資料と、同じ項目があります」
「意志を帯びた波動?」
「ここです」
エアリスは指で示した。
セリナは眉を寄せる。
「制限がある資料だから、説明が短いんじゃない?」
「そうかもしれません」
ディートリヒも資料を見た。
「公開資料と学生用資料で同じ書き方をしているなら、理由はあるでしょう」
「理由」
「分かっていないから短いのか、詳しく出せないから短いのか。今はまだ、どちらとも言えません」
エアリスは資料の端を揃えた。
「はい。今は、見学の準備をします」
資料を閉じる前に、エアリスは図書館で控えてもらった、あの項目をもう一度見た。
意志を帯びた波動反応。
基礎結界札の縁が、演習室の灯りを返していた。




