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鳥籠の令嬢は、神と悪魔を連れて世界の嘘を旅する ~政略結婚の前夜、地下牢で始まった神授物と邪教の巡礼譚~  作者: 0くるみ0
聖都編

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第十六話:裂け目の報告会

 二日後の午後、エアリスは第二講義室の前にいた。


 手元には筆記具と学生証、それから朝、ルセリアが持たせてくれた基礎結界札があった。白い薄板に小さな術式が刻まれたもので、指で触れると、乾いた石のような感触がした。


 カバンの中で、魔導書がわずかに動いた。


「僕の分は?」


「本に札は付けません」


「扱いが雑だなあ」


「静かにしてください」


 短く返すと、魔導書はそこで黙った。


 講義室の前には、すでにAクラスの学生が集まっていた。普段より声は少ない。何人かは、筆記具をもう机の上に出していた。


「エアリス」


 セリナが手を振った。


 声はいつも通り明るかった。手には封書があった。赤い封蝋に、グランツベルク家の印が押されていた。


「お手紙ですか?」


「家から。父の添え書きに、帝国側の裂け目の報告も見ておけって」


 セリナはそう言って、封書を制服の内側へしまった。笑顔は戻っていた。だからエアリスは、それ以上は聞かなかった。


 扉が開き、学生たちは順に中へ入る。


 第二講義室は、普段の教室より広かった。階段状に席が並び、正面には投影用の結晶板が設置されている。前列には教員が数人、壁際には教廷の監督官らしき男女が立っていた。


 マグヌス学院長は、正面の机の横にいた。


 その姿を見ると、室内のざわめきが収まった。


「今日は魔界の裂け目についての報告会を行います」


 マグヌスの声は、よく通った。


「これは恐怖を煽るための時間ではありません。皆さんがこれから学術院で学ぶものの一部を、現場の言葉で知るための時間です」


 彼は学生たちを見渡した。


「魔界の裂け目は、遠い伝承ではありません。管理されているものもあります。封鎖されているものもあります。まだ見つかっていないものもあります。危険度が低いと判断された裂け目であっても、油断すれば人は死にます」


「この千年ほど、裂け目からの侵入は記録上もっとも低い水準にあります。だからこそ、管理手順を軽く見てはいけません」


 そこで、結晶板に別の短い項目が浮かんだ。


 近年観測。

 意志を帯びたような微弱波動。


「また、ここ数年、いくつかの管理下にある裂け目で説明のつかない波動が観測されています。魔物の数や階位とは別の反応です。強いものではありませんが、意志を帯びたように見えるため、管理科と情報科が継続して確認しています」


 何人かが、筆を止めた。


 何人かは、配られた紙の余白へ新しい項目を書き足していた。


「これはルミナリアだけの話ではありません。各国の裂け目の管理でも似た記録があります。ただし、原因はまだ分かっていません。だからこそ、現場では勝手な解釈をしないこと。見たものを、見た形で残しなさい」


 声を荒げず、脅しもしない。軽く扱わせる気もない。


 エアリスは筆記具を手に取った。


 隣の席で、セリナも背筋を伸ばした。


 最初に登壇したのは、教廷監督官だった。年齢はルセリアより若く見えたが、立ち方に隙がない。続いて、上級生の男子学生が資料を机に置いた。


「本日は、セラフィア南西外縁の管理下にある裂け目で行われた実地支援の記録を報告します」


 結晶板に、淡い映像が映った。


 石壁に走る、細い黒い裂け目。


 その周囲を囲む結界柱。


 白い杭のような装置が数本、地面に打ち込まれていた。裂け目の近くでは、黒い靄が薄く揺れていた。


 近くの草だけが、白っぽく乾いていた。


「この裂け目は管理下に置かれており、危険度は低いとされています。ただし、それは安全という意味ではありません。出現する魔物は第一階位相当が中心ですが、記録上、第二階位相当も確認されています」


 映像が切り替わる。


 小型の魔物が映った。獣に似た体。赤い目。前足が長く、動きが速い。


 エアリスは昨日の実技で見た魔物を思い出した。


 あの時は、アキが消した。


 だから、エアリスはまだ魔物と向き合っていない。


「まず、初動です」


 監督官が説明を引き継いだ。


「現場では、戦う前に確認するものがあります。裂け目の幅。結界柱の反応。周辺の退避路。魔物の数。生徒が最初に考えるべきことは、倒せるかどうかではありません。退く道があるか、守れるか、記録できるかです」


 学生の一人が手を上げた。


「魔物が第一階位相当でも、結界札が濁りを拾っている場合は撤退ですか?」


「撤退です」


 監督官は即答した。


「撤退判断に入ります。魔物の数、結界柱、退避路、札の反応を合わせて見なさい。魔界由来の力で、感覚や判断が乱れることもあります。目の前の魔物が弱いからといって、続行してよい理由にはなりません」


 教室のあちこちで、筆が動いた。


 質問した学生は紙の端へ短く印をつけ、席へ戻る。


 次に、ディートリヒが手を上げた。


「撤退判断は、監督者のみが行うのですか。それとも、生徒側からの申告にも効力がありますか」


 声量は大きくない。語尾だけが、きちんと前へ出る。


「効力があります」


 監督官は答えた。


「ただし、申告は明確に。『怖い』ではなく、『何を見たか』を伝えること。結界柱の色が変わった。裂け目の音が増えた。魔物が指定範囲の外へ出た。仲間の札が反応しない。理由を言いなさい。現場では、理由のある一言が命を拾います」


 ディートリヒは短く礼をした。


 エアリスはそのやり取りをノートへ写す。


 怖い、ではなく、何を見たか。


 言葉として覚えるだけでは足りない。実際にその場に立った時、同じことが言えるかどうか。


 そこまで考えたところで、カバンの中からごく小さな声がした。


「いい先生だね」


 アキだった。


 エアリスはカバンを押さえた。


 返事はしない。


 次の映像では、結界柱の一つが青から灰色へ変わっていた。


「この時、支援班は前進を中止しました」


 上級生が言った。


「理由は、結界柱の反応低下です。魔物の数は少なく、戦闘自体は続けられる状況でした。しかし監督官の判断で、学生班は退避。教廷騎士団が前に出ています」


 別の学生が手を上げた。


「そこで学生班が残っていれば、経験にはなったのではありませんか」


 監督官は表情を変えなかった。


「なったでしょう」


 そう答えてから、彼女は続けた。


「ただし、その経験を持ち帰れたかは別です。現場は、皆さんの成長を待ってくれません」


 教室が静まる。


「だから学術院で学びます。安全な場所で手順を覚え、管理された場所で確認し、監督下で失敗する。失敗できる場所で失敗しなさい。裂け目の前で初めて失敗するのは、遅すぎます」


 エアリスは、その言葉を丁寧に書いた。


 隣で、セリナがペン先を止めた。


「いいこと言うなあ」


「はい」


「ちょっと痛いけど」


「痛いですか?」


「耳が」


 セリナはそう言って、苦笑した。


 エアリスはセリナの横顔を見てから、静かに返した。


「それなら、分かります」


「真面目に返ってきた」


 声は小さかったが、セリナは楽しそうだった。


 報告は続いた。


 裂け目周辺の避難路。


 基礎結界札の反応。


 魔物の残滓を記録する方法。


 負傷者が出た時の優先順位。


 戦う者、守る者、記録する者、伝える者。役割が変われば、確認する場所も変わる。


 エアリスはすべてを書き写すのではなく、要点だけを残した。残りは覚えている。あとで整理すればいい。


 途中、上級生が別の事例を出した。


「同じ危険度でも、地形によって判断は変わります。ガイア帝国側の管理下にある裂け目では、乾いた谷で炎が回り、退避路が一つ潰れた記録があります。魔物の階位は低くても、地形が状況を悪くしました」


 セリナの筆がそこで止まった。


 すぐにまた動く。


 声をかけるべきか考え、エアリスはやめた。今聞くことではない。


 やがて、質疑の時間になった。


 セリナが手を上げた。


「火属性を使う場合、裂け目付近では制限が入りますか」


「入ります」


 監督官が答えた。


「燃えるものがなければ安全、とは考えないこと。魔界由来の残滓がある場所では、普通の地面でも反応が変わる場合があります。火属性は強い。だからこそ、使う場所を選びます」


「分かりました」


 セリナは手元の火属性の欄に線を引いた。


 次に、エアリスも手を上げた。


 視線が集まる。


 九色の測定の後だ。視線が集まるのは、もう避けられない。エアリスは手を下ろさず、短く尋ねた。


「裂け目の記録と、実際の反応が違う場合、最初に確認するのはどこですか」


 監督官は結晶板の映像を止めた。


「良い質問です」


 何人かが筆を止めた。


「まずは結界柱。次に裂け目の音。三つ目に、周囲の魔物の動きです。記録と違う時、人は理由を探したくなります。しかし現場で最初に必要なのは原因ではありません。変化が広がっているか、止まっているかです」


「原因は、あとで調べるのですか」


「生きて戻ってからです」


「分かりました」


 エアリスは礼をして座った。


 ノートに短く書く。


 原因より先に、変化の範囲。


 その下に、意志を帯びた波動、と書きかけて、エアリスは線を止めた。


 今ここで追う言葉ではない。


 ペン先を紙から離し、顔を上げる。


 報告会の最後に、マグヌスが再び前へ出た。


「数万年前、魔界の裂け目が各地で暴れた魔淵大災厄以来、各国は魔界の裂け目への対応を共有してきました。セラフィア大和平協約も、その上にあります。皆さんが今日聞いた手順は、一つの国だけの知識ではありません」


 彼は結晶板を消した。


「皆さんの多くは、いずれ人を率いる立場になります。戦場かもしれない。研究室かもしれない。領地かもしれない。どこであっても、分からないものを前にした時、必要なのは勇気だけではありません」


 そこで、マグヌスは声を落とした。


「準備です」


 教室の誰も、口を挟まない。


「恐れるな、とは言いません。恐れを理由に目を閉じるな、と言います。知らないまま近づいてはいけない。知ったつもりで侮ってもいけない。皆さんには、その判断ができる人間になってもらいます」


 エアリスはマグヌスを見た。


「来週、Aクラスは監督付きで管理下にある裂け目の見学に入ります。戦闘訓練ではありません。見る訓練です。詳細は明日掲示します」


 室内に、小さなどよめきが広がった。


 驚きより、緊張に近い。


 それでも、取り乱す者はいない。何人かはすぐに予定表を開き、何人かは今日の資料を見返していた。


 セリナは口元に手を当てた。


「来週か」


「早いですか?」


「早い。でも、遅いよりはいいかな」


 そう言ってから、セリナは内側にしまった封書へ手を当てた。


 エアリスはそれを見たが、やはり聞かなかった。


 報告会が終わると、学生たちは順に講義室を出た。


 廊下には夕方の光が入っていた。白い床が、長く明るく伸びている。


 掲示板の端には、光神祭の手伝い募集の紙も貼られていた。けれど、今は誰もそちらを見ていない。


「エアリス」


 セリナが隣に並んだ。


「図書館に行く?」


「行きます」


「やっぱり」


「セリナさんは?」


「今日は先に戻る。これ、読まないと」


 彼女は封書を指で叩いた。


「家のことですか?」


「うん。大ごと、ってほどじゃないと思う。たぶん」


 そこで言葉が止まった。


 セリナは笑い直した。


「ちゃんと読んでから考える」


 エアリスは封書の端を見たまま、声を落とした。


「必要なら、聞きます」


「ありがとう。まだ平気」


「はい」


 セリナは手を振って、廊下の反対側へ歩いていった。


 エアリスは図書館へ向かう前に、カバンの中の基礎結界札を確かめた。


 白い薄板は入っていた。


 指で触れると、朝と同じ乾いた石の感触が返ってきた。


 エアリスは学生証をしまい、図書館へ向かって歩き出した。

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