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エピローグ『グリ、ハイになる』

「あの、茶禅さん。ぼくらの新しい名前って、好きな色の他にどんな理由でつけたんですか」

「うむ……まず赤里、お前は組織や私が、新しい親となるようにと願い付けさせてもらった」

「ぼくの事情を考えてくれたんですね」

「青依、お前も同じだ。これからは組織や私を、もっと頼ってくれていい」

「……あ、ありがとうございます!」

「わたしは?」

「知ってる。茶禅さんが見つけたとき、スイカを食べてたからでしょ?」

「そんなわけないでしょ!」

「そうだぞ赤里。翠佳、お前のそのきれいな髪と顔からそれぞれ取ったんだよ」

「よくわかりません」

「もう少し大きくなったら、辞書を引いて調べてみるといい」

「はい、そうします」

「とにかく、これから三人、ずっと仲良く、助け合っていくのだぞ」

「はいっ!」






 遠い昔、三人で交わした約束は、結局破られてしまうのか。

 それともまだ生き続けているのか。

 海から吹き付けてくる冷たい風は、赤里に何も教えようとはしない。


 自分独りとはいえ、まさかこの港町へまた来ることになるとは。

 緩やかな坂道を下りながら、赤里は何とも言えない気分を抱く。


 年季の入った住宅、疎らな車と人通り、小魚を食べている野良猫、錆び付いたシャッターが下りている商店街……

 時間が停止しているかのように、寂れた町はあの時と何一つ変わっていない。

 だが、赤里は決してこんな雰囲気が嫌いではなかった。

 枯れてしまっているように見えても、確かに生命が息づいているのだ。


 ふと前触れなく、舌に甘ったるい味の幻覚が蘇る。

 もしもグリに飴をあげた老婆と出会えたのならば「あの時はありがとうございました」と彼女の代わりに礼を言いたかったが、そもそも顔自体知らないことを思い出す。


 益体もないことを考えている内に、すぐ港に到着してしまう。

 やはり変わり映えしない光景を目の当たりにして、あの時とは異なる複雑な気分が赤里に去来する。

 清々しさと少しの寂しさが混ざった、青春時代を思い返した時のようであった。


 意図したのかは分からないが、目当ての一方が、波止場の先端で海を眺めていた。


「おう、見送りご苦労」


 赤里が声をかけるよりも先に、気配に気付いた青依が大物ぶった態度で片手を上げた。


「翠佳は?」

「お前、いきなりそれかよ。子どもを連れて散歩に行ってるよ。もうすぐ戻ってくるんじゃねえか……って途中で会わなかったのかよ」


 赤里は、ああ、と短く言い、煙草とライターを放り投げる。


「へへ、悪いな」

「子どもが産まれてから、ますます嫌な顔をされてるんだろう。今の内に味わっとけよ」

「おっしゃる通りで」


 青依はそそくさと火を付け、久しぶりの喫煙を存分に愉しみ始める。

 実は最近、実質的に翠佳から煙草を禁止されており、ニコチン切れで苦しんでいた所だ。


 盛大に吐き出した煙が、薄雲の一部と化すように透明度の高い蒼穹へ溶けていく。

 赤里はそれを見上げつつ、缶コーヒーを開けて口をつける。

 煙草の美味さとやらは理解できないが、風景として眺めている分にはそんなに悪くない。


「子どもは元気か」

「おう。お前が二人を守ってくれたおかげだ。ありがとうな」

「気にするな、というか俺は何もしてないよ。最終的に守ったのは、お前だ」


 互いに何とも言えない含み笑いを漏らしていると、町側から何かを抱えた女の人影が小さく現れた。

 片手で大きく手招きしているのを見て、二人は歩き出す。


「それにしても、どうしてまた海外へ行くことにしたんだ。高飛びする必要もなくなったのに」


 足を動かしつつ、携帯灰皿に吸いかけの煙草をねじ込む青依に赤里が尋ねる。


「あ? まあ、別に残ってもよかったんだけどよ。心機一転したくてな。ちゃんと翠佳とも話し合って決めたんだからな」

「じゃあ船じゃなくて飛行機で行けばいいのに。時間がかかるし、手続きも面倒だろう。"脱色"の時と同じ人間に頼んだんだって?」

「うるせえな、海が好きなんだよ」


 そんな話は初耳だが、あの銀色の鱗のように輝く水平線、どこか懐旧の念を呼び起こさせる潮の香りを嗅げば、心をくすぐられるのも無理はない。


「私を放っといて海を見つめてるなんていい度胸ね、この男どもは」


 顔を合わせるなり、翠佳が形よい目鼻や口を崩し、大げさな呆れ顔を作ってきた。

 赤里が胸に抱いた存在について尋ねる暇もなく、更に文句を並べる。


「青依、あんた煙草臭い! 赤里、あんたが余計な差し入れしたのね?」

「まあまあ、たまには息抜きさせてやれよ。煙草だけに」

「お、流石は赤里! うまいこと言うぜ」

「やかましいわね。半径五メートル以内に近付かないでくれる?」


 そう言って翠佳は本当に青依から距離を開けてしまった。


「……お前が煙草なんざ差し入れるから」

「おい、責任転嫁かよ」


 そこから二人はしょうもない口論を開始したが、少し時間が経過したところで翠佳が両者に張り手を見舞い、強制終了させられる。


「いてて……お前、子どものことはこんな風に叩かないでやれよ」

「するわけないでしょ」


 翠佳は更にもう一撃、赤里へ食らわせた。

 この痛みも二度と味わえないかもしれないと思うと、つい胸に来てしまうものがある。

 潮風が心地良く頬を冷ましてくれるのがまた切ない。


「この前見た時よりも、また少し顔が変わったな」


 赤里は気持ちを誤魔化すために、自ら話題を振った。


「ええ、赤ちゃんの成長って本当に早いのよね」

「母親似で良かったよな」

「そりゃどういう意味だ」


 赤里は横から聞こえる低い声を無視して、母親の腕と胸の狭間ですやすやと眠り続けている赤ん坊の顔をまじまじと観察する。

 将来は誰もが振り返るような存在になること間違いなしだろう。


「……あ、そうそう」


 翠佳が思い出したように、バッグから何かを取り出した。

 差し出した掌の上に乗っているものを見て、赤里はあっという顔をする。


「私からの餞別よ。今さっき町の人からもらったものの一部だけど、ありがたく受け取りなさい」


 透明な袋に包まれた、赤、青、緑の宝石、もとい飴だった。

 こうして実物を見ても、赤里の舌へ味が蘇りはしなかった。


 が、急に鼻がつんとなり――目が潤み出す。


「えっ、なに? あんた、泣くほど飴が好きだったの?」

「……んな訳ないだろ。ちっ、お前らより先に泣いてたまるかって思ってたのに」


 ひったくるように翠佳の手から飴を取り、袋を破って緑のそれを口へ放る。

 たちまち広がる、安っぽいメロンもどきの甘味。

 別に好きでも何でもない、むしろ後味が悪くて嫌なのに。

 この時ばかりは愛おしく、そして同時にありもしない苦味がじわじわと湧き起こってくる。


「俺……離れ離れになっても、お前たちと一緒に過ごしてきたこと、絶対に忘れないからな。ここまで色々あって、もう昔みたいな関係にはなれないかもしれないけど……二人をずっと、ずっと友達だと思ってるからな」

「バカね。今生の別れじゃあるまいし。固い顔で固いこと言わなくたっていいじゃない」


 そういう翠佳もまた、いつの間にか熱い涙を流していた。


「そうだぜ、くだらねえこと言う奴はロシアンルーレットたこ焼き・全部当たりver.の刑だ!」


 青依だけは泣かずに、二人の肩を抱き寄せ、頭上の太陽にも負けない笑顔を作っていた。


「何かあったら遠慮しねえで言えよ。すぐ飛んでいってやる」

「……ああ、頼りにしてる」

「心配しなくても、そのうちちゃんと戻ってくるわよ。あの子へのツケだってまだ残ってるんだから。ちゃんと言っておくのよ。必ずやり返しに行くから、首を洗って待ってなさいって」

「分かった、伝えておく」


 別れの時が船という形を取ってすぐ目の前まで迫っていたが、赤里も、青依も、翠佳も、心の底から安堵していた。

 もう命を奪い合わなくてもいい。

 約束は決して死なない。

 心は、友情は、親愛は、距離に関係なく、いつも三人だけのローカル無意識領域に共有されているのだから。






「お帰りなさい」


 帰宅した赤里を出迎えたグリの腹は、服の上からでも分かるほど、大きく丸い膨らみを帯びていた。


「ただいま」


 赤里は彼女に軽くキスをしたあと、早速翠佳からの伝言を口にした。


「……そう、楽しみね。その時はとびきりの料理やワインと一緒にもてなしてあげましょう」


 諧謔的な言葉とは裏腹に、グリの右目は真剣だった。

 失った左目の方には眼帯がつけられており、当て布部分に咲く青い薔薇が一際存在を主張している。

 ただ、十字傷の方は既に癒えており、雪のような白肌からやたらと浮いて見える褐色の痕を残すだけとなっていた。


「それよりもあなた、やっぱり泣いちゃったのね。目の縁がまだ少しだけ腫れてるわよ」


 指摘に対し、赤里は「ああ、まあな」と曖昧な返事をする。

 冷静に振り返ってみると、やはり大の大人が泣いていたというのは少し恥ずかしい。

 壁にかけられている、縁に銀の茨をあしらった大鏡に映った顔を覗き、苦笑いする。


「ここの最上階の住み心地はどう? もう慣れた?」

「正直、まだ目が馴染んでない」


 大の男にはきつい色彩、造形の部屋を見渡し、赤里は目を細める。

 最初は翠佳と同居していた一軒家にグリを呼んで住んでいたのだが、こうして修繕が済んだ今は再び組織本部ビルの最上階に戻る形となった。

 設備は充実しているため、生活上の不便はないが、どうにも落ち着かない。


 ふと、赤里の足元を、もさっとしたものが撫でていく。

 尻尾を立てて頭や体をこすりつけてくる飼い猫だった。


「その子は嬉しそうみたいだけど?」

「みたいだな」

「ビアンコ、大分あなたにもなついてくれるようになったわね」

「ああ……」


 耳の後ろを軽く擦ってやると、ビアンコは甘い声で鳴き出し、いっそう密着してくる。

 こうもベタベタされると、今度は逆に少々鬱陶しいとさえ思ってしまう。

 とはいえ、嫌いになったりはしないのだが。


「ねぇねぇ、私もぉ」


 対抗意識を燃やして、グリまでもがすり寄ってきた。

 しょうがないな、と赤里は笑い、肩や腰回りを羽根のようなタッチでなぞっていく。


「あっ……ん……上手になったわね」


 甘い快感に身を痺れさせ、吐息と共に、無駄に艶っぽい声を漏らすグリ。


「この子の名前はどうする?」


 両手で包み込むように腹部へ触れながら赤里が尋ねると、グリは歌うように男女それぞれの候補を挙げた。

 それを聞いて、らしい名付け方だと思ったが、特に反対はしない。

 逆に今、唐突に浮かんだことを口にする。


「ついでに変な質問してもいいか?」

「なぁに?」

「路上に三色の信号があるだろ。あれの黄色について、どう思う?」


 グリは少し考える仕草をした後、きっぱりと答えた。


「好きじゃないわ。法律上では赤信号に近い立場だけど、どっちつかずの中途半端な感じがするのよね。……あら、吹き出しちゃってどうしたの? 私、そんな変なこと言った?」

「い、いや、最高の答えだって思って」


 赤里はおかしそうに笑いながら、グリの体を抱きしめた。


「俺達、きっと上手くやっていけるよ。改めてよろしくな、グリ」

「こちらこそ。不束者だけど末永く、いいえ、死んだ後もずっと一緒にいましょうね」


 グリは微笑んで、赤里と唇を重ねる。

 互いにたっぷり、ねっとりと舌を絡め合い、指で髪を愛撫しあい、駆け巡る電流に身を浸す。

 呼吸も忘れてしまうほどの陶酔は、赤里がグリの背中にタップするまでしばらく続いた。


「ああもう、どうしよう。私、幸せすぎておかしくなっちゃいそう」

「大人しくしてろよ。もう一人だけの体じゃないんだから」

「分かってる。でも心の方が抑えられないのよ。……はい、これ」


 グリは早歩きで化粧台へ向かい、小箱を持って戻ってきた。


「この前言ってたやつか」


 赤里は箱を開け、灰色がかったダイヤの指輪を摘んで左手薬指にはめた。

 一般的な男女のように、男である赤里が用意しなかったのは甲斐性の問題ではなく、グリがどうしても自分で用意したいと強く推してきたからである。


「サイズもぴったりね。よく似合ってるわよ」


 グリは左手を出して、既に薬指へつけていた片割れを見せた。

 その後すぐに下ろして腹部をさすり、


「早く元気に出てきてちょうだい。パパとママが、あなたを幸せにするのを待ってるわよ」


 愛おしげに、ごく近い将来この世界へと産まれ出でる存在へと呼びかける。


「弟か妹か、どちらになるか分からないけど、すぐに作ってあげるからね」


 それを聞いた赤里が思ったのは、本当に我が子を幸せにできるのかということよりも、出産後は一層励まないといけないのかという茜がかった憂鬱であった。

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