第9話 私にも、できること
あれから、私は事務所へ行っていない。
桐生さんに、そう言われたから。
――しばらく、事務所には来なくていい。
あのときの桐生さんの顔を思い出す。
怒っていたわけじゃない。 困っていたわけでもない。
ただ、すごく真剣だった。
だから私は、言われた通りにした。
学校へ行って、授業を受けて、友達と話して。 放課後になったら、そのまま家へ帰る。
それまでだったら、放課後は私の第二の一日だった。
学校が終われば、事務所へ行く。
ドアを開ければ、
「お、ももちゃん来たか」
「これ、ももちゃんお願いできる?」
「ありがとう、白石さん」
そんな声が聞こえてきた。
その中に、桐生さんの声がある。
それだけで、なんとなく一日の疲れが吹き飛んだ。
……今思えば、ずいぶん単純だったな、私。
でも。
やっぱり、寂しい。
事務所へ行かなくなってから、何日か経ったある日のことだった。
私は机の上に置いた週刊誌を、もう一度手に取った。
そこに載っているのは、あの写真。
私と、桐生さん。
私はお茶を渡していて、桐生さんがそれを受け取っている。
ただ、それだけの写真。
なのに、その写真には、私の知らない意味が勝手につけられていた。
私はしばらく写真を見つめた。
そして――ふと思った。
私。
桐生さんのこと、好き。
それは間違いない。
だけど。
私は、桐生さんのことを、本当に知っているんだろうか。
政治家として。
何をしたい人なのか。
何を変えたいと思っている人なのか。
私は、どれくらい知っている?
「…………」
そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ痛くなった。
だって私は、桐生さんのことを見ていた。
ずっと見ていた。
かっこいいな、とか。
優しいな、とか。
仕事してる姿、素敵だな、とか。
そういうことは、たくさん知っている。
でも――。
「桐生さんが、何をしたいのか……」
私は、小さく呟いた。
その言葉が、妙に頭に残った。
*
次の日。
私は本屋にいた。
政治の入門書を手に取る。
表紙を見る。
裏返す。
値段を見る。
もう一度、表紙を見る。
「……よし」
買った。
家に帰って、机に置く。
開く。
――五分後。
「…………何これ」
私は本を閉じた。
いや、待って。
おかしい。
日本語で書いてある。
なのに。
「日本語なのに、日本語じゃない……」
予算。
財政。
社会保障。
税制。
景気。
経済政策。
「うわぁ……」
今まで私が政治について知っていたことなんて、本当に表面だけだったんだ。
でも。
そこで終わりにはしなかった。
分からない言葉を調べる。
また分からない言葉が出てくる。
それをまた調べる。
最初は桐生さんが話していた言葉を理解したくて始めた。
だけど、少しずつ違ってきた。
ニュースを見る。
新聞を読む。
桐生さんの過去の発言を調べる。
街頭演説で話していたことを思い出す。
そして、以前の私なら聞き流していたような話が、少しずつつながっていく。
政治って。
国会だけの話じゃない。
法律だけの話でもない。
人が働くこと。
会社が活動すること。
税金。
国のお金。
地方の暮らし。
社会保障。
景気。
いろんなものがつながっている。
「……経済」
その言葉を口にした。
政治と経済。
切っても切れないんだ。
私はまた、本を開いた。
今度は、さっきより少しだけ面白く感じた。
*
勉強しているうちに、私は一つのことを考えるようになった。
桐生さんは、政治家だ。
だから、自分の考えていることを実現するために、政治という場所で戦っている。
じゃあ。
それを実現するためには、何が必要なんだろう。
政治家が一人で頑張れば、全部できる?
……違う。
きっと、いろんな人が必要なんだ。
法律を知っている人。
経済を知っている人。
地域のことを知っている人。
企業のことを知っている人。
現場で働いている人。
いろんな人の力があって。
その中で、政治家が方向を示す。
私は、そこまで考えて。
ふと、手を止めた。
「……じゃあ」
もし。
将来。
私が桐生さんのそばにいなかったとしても。
もし、桐生さんと付き合っていなかったとしても。
もし、桐生さんと何の関係もない人になっていたとしても。
それでも。
桐生さんが「こういう世の中にしたい」と思っていることを叶えるために、私にできることがあるのなら。
私は。
「……それができる人になりたい」
初めて、そう思った。
*
それからしばらくして。
私は、事務所の前に立っていた。
少しだけ緊張する。
ドアの前で深呼吸。
「……よし」
開ける。
「こんにちはー……」
一瞬。
事務所の中が静かになった。
そして――。
「おお!」
「ももちゃん!」
「久しぶりじゃないか!」
「学校、大丈夫だったか?」
いつもの声が、一斉に飛んできた。
「はい!」
私は笑った。
なんだか、胸がいっぱいになる。
「ももちゃん、元気そうだな」
「はい。元気です!」
事務所の空気は、あの日までと何も変わっていなかった。
それが嬉しかった。
私は、奥を見る。
――いた。
桐生さん。
目が合った。
一瞬、胸が跳ねる。
だけど。
今日は、それだけじゃない。
私は、まっすぐ桐生さんのところへ歩いていった。
「桐生さん」
「……白石さん」
いつもの呼び方。
少しだけ、懐かしい。
「お久しぶりです」
「ああ。久しぶりだね」
「……お話があります」
桐生さんが、少し表情を変えた。
「分かった。こっちへ」
私たちは、事務所の隅へ移動した。
*
「それで?」
桐生さんが言った。
「何の話かな」
私は、少しだけ息を吸った。
「私……勉強しました」
「勉強?」
「はい」
私は頷く。
「政治のことです」
桐生さんが黙った。
「本を読んで、ニュースを見て。分からないことを調べて……まだ全然分からないことだらけなんですけど」
「……そうか」
「最初は、桐生さんが何を言ってるのか知りたかったんです」
桐生さんは何も言わない。
ただ、私を見ている。
いつものような、少し遠慮した目じゃない。
まっすぐ。
私の話を、ちゃんと聞こうとしてくれている目。
「でも、調べてるうちに、ちょっと分かってきたことがあって」
「うん」
「政治って、政治だけじゃないんですね」
桐生さんの表情が、ほんの少し動いた。
「経済とか、お金とか、働くこととか。いろんなものが関係してて」
「ああ」
「桐生さんがやりたいことを実現するためにも、いろんなことを知らなきゃいけないんだなって」
そこまで言って。
私は一度、黙った。
そして。
桐生さんの目を見る。
「私、桐生さんのことが好きです」
「…………」
桐生さんの目が、わずかに見開かれた。
私自身も、言った瞬間に心臓がものすごい音を立てた。
……言っちゃった。
いや。
違う。
そういう意味じゃない。
でも、ここで一度、言葉を止めた。
ほんの少しだけ。
沈黙が落ちる。
「それは、たぶん……変わりません」
私は続けた。
「でも」
一度、息を吸う。
「それだけじゃ、嫌なんです」
桐生さんは、黙って私を見ていた。
「桐生さんが、何をしたいのか」
「どうして、それをしたいのか」
「どうしたら、それを実現できるのか」
「私も、ちゃんと知りたい」
胸の奥から、言葉が次々に出てくる。
「ただ、桐生さんのそばにいたいだけじゃなくて」
「ただ、桐生さんに喜んでもらいたいだけじゃなくて」
「私自身が、ちゃんと考えて」
「ちゃんと勉強して」
「いつか、私にもできることがあるなら……」
そこで、少しだけ声が震えた。
「それができる人になりたいんです」
桐生さんは、しばらく何も言わなかった。
でも。
目を逸らさなかった。
まっすぐ私を見ていた。
私は、その目を見ながら思った。
ああ。
この人は今。
私を子ども扱いして、適当に話を終わらせようとしているんじゃない。
ちゃんと。
私の言葉を受け止めようとしてくれている。
「……そうか」
桐生さんが、静かに言った。
「白石さん」
「はい」
「君は、ずいぶん考えたんだな」
「……はい」
「自分で調べて、自分で考えて、それでも分からないことがある」
「はい」
「それでいいと思うよ」
桐生さんが、少しだけ笑った。
「政治だって、経済だって、最初から全部分かる人なんていない」
「……はい」
「大事なのは、自分で考え続けることだと思う」
その言葉が、胸に入ってきた。
「だから」
桐生さんは続けた。
「これからも、いろんなことを勉強するといい」
「はい」
「私の考えに、全部賛成する必要もない」
「……え?」
「自分で考えて、違うと思ったら違うと言えばいい」
私は、少し驚いた。
そして――笑った。
「……それ、いいですね」
「そうだろう?」
「じゃあ、いつか桐生さんに『それ、違うと思います』って言えるくらい勉強します」
「それは頼もしいな」
桐生さんが笑った。
その笑顔を見て。
私は、また胸がいっぱいになった。
好き。
やっぱり好き。
でも。
今までとは、少し違う。
ただ近くにいたいんじゃない。
この人が見ているものを、私も見たい。
この人が変えたいと思っているものを、私も自分の目で知りたい。
そして。
いつか。
私自身の力で、何かをできるようになりたい。
*
その後、事務所では選挙の最終盤を迎えていた。
私は以前のように毎日事務所へ通うことはなかった。
学校もある。
自分の勉強もある。
でも、時々事務所へ行った。
そして、街頭演説を見た。
ニュースを見た。
桐生さんの話を聞いた。
以前なら、半分も分からなかった言葉が。
少しずつ分かるようになっていた。
「あ……」
ある日の演説を聞きながら、私は思った。
「これ、前に言ってたことだ」
以前の私は、ただ「かっこいい」と思って聞いていた。
今は違う。
言葉の意味を考える。
それが実現したら、誰の暮らしが変わるんだろう。
そのためには、何が必要なんだろう。
そして――
自分には何ができるんだろう。
そんなことを考えるようになっていた。
*
選挙が終わった。
桐生さんは、当選した。
私は、事務所で桐生さんに言った。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
「……でも」
「うん?」
「これからなんですよね」
桐生さんが笑った。
「ああ。これからだ」
その言葉を聞いて、私は頷いた。
「私も」
「ん?」
「私も、ちゃんと自分のやりたいこと、見つけます」
「それがいい」
桐生さんは、そう言った。
私は少し考えてから、
「あの……」
「何だい?」
「また、政治の話をしに来てもいいですか?」
「もちろん」
その答えを聞いて、私は笑った。
「じゃあ、また来ます」
「ああ」
それだけだった。
でも。
私は、それで十分だった。
*
その夜。
私は自分の机に向かった。
机の上には、政治の本。
経済の本。
ノート。
そして、今日もらってきた大学案内。
何気なくページをめくる。
いろんな学部が載っている。
その中で、私の指が止まった。
「……経済学部」
政治と経済は、切っても切れない。
あの日から、何度もそう思うようになった。
もっと勉強したい。
もっと知りたい。
いつか、自分の力で誰かの役に立てるくらい。
私はページをめくる。
そして――
ある大学の名前を見つけた。
「……あ」
桐生さんの母校。
知っている。
前に事務所で聞いたことがある。
私は、その大学のページをしばらく見つめた。
「…………」
そして。
小さく笑った。
「ここで、勉強できたら……」
まだ何も決めていない。
まだ、私には分からない。
高校を卒業したあと、どんな人生になるのか。
桐生さんと、どんな関係になっているのか。
ずっと今のままなのか。
それとも――。
そんなことは、誰にも分からない。
ただ。
今の私には、一つだけ分かることがあった。
私はもう。
ただ、好きな人のそばにいたいだけの女の子じゃない。
自分で考えて。
自分で選んで。
自分の未来を、自分で歩いていきたい。
そして、その先で。
もし。
桐生さんの力になれることがあるのなら。
そのときは――。
「……私にも、できることがあるかもしれない」
私はそう呟いて。
もう一度、大学案内を開いた。
そのページを、今度は少しだけ長く眺めていた。




