第8話 写真の中の私
その朝、事務所の空気は、いつもと少し違っていた。
「おはようございまーす!」
いつものように扉を開けて、私は明るく声をかけた。
返事は返ってきた。
でも、ほんの一瞬。
みんなの視線が、私に集まった。
「……?」
何だろう。
そう思いながら奥へ進むと、机の上に何冊かの雑誌が広げられているのが見えた。
その中の一冊を手にしていたスタッフのおじさんが、私を見る。
「ももちゃん……」
「はい?」
「これ……見た?」
「何ですか?」
差し出された雑誌を受け取る。
最初は、何のことなのか分からなかった。
政治家の記事。
選挙の記事。
桐生さんの名前。
そして――。
「……え」
写真。
そこに写っていたのは、私だった。
私服姿の私が、笑っている。
その隣には桐生さん。
私が差し出したお茶を、桐生さんが受け取っている。
ただ、それだけの写真。
いつもの事務所で、いつものようにしていたこと。
なのに、その写真の下には、大きな文字が並んでいた。
――若手政治家・桐生恒一の事務所に通う「謎の女子高生」。
「……私……」
目を疑った。
写真には私の顔が分からないように目線が入っている。
でも、見れば私だと分かる。
記事には、桐生さんの事務所に若い女性が頻繁に出入りしていること。
スタッフから「ももちゃん」と呼ばれていること。
そして、その女性が高校生らしいこと。
そんなことが、いかにも意味ありげに書かれていた。
「これ……」
声が出ない。
「昨日の夜、出たみたいなんだ」
別のスタッフが言った。
「写真、撮られてたんですね……」
「どうやらそうらしい」
私はもう一度、写真を見る。
そこにいる私は、楽しそうに笑っていた。
だって。
楽しかったから。
桐生さんの役に立てることが嬉しくて。
お茶を出して、「ありがとう」と言ってもらえることが嬉しくて。
ただ、それだけだった。
「……なんで」
小さく呟いた。
「なんで、こんなふうに書かれるの……?」
誰も答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
そのときだった。
「……ももちゃん」
スタッフの一人が、別のページを指差した。
「こっちも……」
そこには、小さな写真が載っていた。
制服姿の私。
駅から学校へ向かっているところなのか、横顔が写っている。
もちろん目線は入っている。
けれど、制服も写っている。
記事には、私が通っている学校についても触れられていた。
「……これ、いつ撮ったの……?」
背中が冷たくなる。
事務所にいるところを撮られただけじゃない。
私の後をつけて。
学校へ向かうところまで。
「学校、分かっちゃうんじゃ……」
「もう、ある程度は特定されてるみたいだ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
怖い。
初めて、そう思った。
今まで私は、事務所に行くことをただ楽しいことだと思っていた。
桐生さんの近くにいられる。
仕事を手伝える。
みんなが「ももちゃん」と呼んでくれる。
それだけだった。
でも。
知らない誰かが、私の後をつけていた。
私が知らないところで、私の写真を撮っていた。
その事実が、急に現実になった。
「……私、どうすれば……」
「ももちゃん」
スタッフが困ったように笑った。
「君が悪いわけじゃないからね」
「……でも」
「本当に、君は何も悪くない」
その言葉が、かえって苦しかった。
学校でも、少しだけ空気が違っていた。
教室に入ると、友達が私のところへ来た。
「桃子、これ……」
「……うん」
私は小さく頷いた。
「週刊誌のやつ?」
「うん……」
「大丈夫?」
「たぶん……」
自分でも、何が大丈夫なのか分からなかった。
休み時間。
先生から呼ばれた。
職員室へ行くと、担任の先生が少し困った顔をしていた。
「白石さん」
「はい」
「今回の記事についてだけど」
「……はい」
「学校としては、あなたが政治に関心を持っていること自体を問題だとは考えていません」
「え……?」
「政治に興味を持つことは、悪いことじゃないでしょう」
私は黙って先生を見る。
「ただ、今は外から注目されているようだから。しばらくは、登下校や帰宅のときには少し気をつけなさい」
「……はい」
「それから、もし学校生活に何か影響が出るようなことがあれば、すぐに相談してください」
「……はい」
先生は、それ以上、私を責めなかった。
政治家の事務所に出入りしていたことについても。
桐生さんについても。
ただ、
「あなた自身の安全には気をつけなさい」
と言っただけだった。
職員室を出て、廊下を歩きながら思う。
学校は、私を悪いことをした人として扱わなかった。
だったら。
私は、何をそんなに怖がっているんだろう。
――いや。
違う。
怖いのは、学校じゃない。
桐生さんだ。
桐生さんに、迷惑をかけてしまったこと。
それが、一番怖かった。
その日の夕方。
私はいつものように事務所へ向かった。
正直、少し迷った。
行かないほうがいいのかな。
でも。
昨日まで普通に来ていたのに、今日から突然来なくなるなんて。
そんなの嫌だった。
扉を開ける。
「お疲れさまです……」
「ももちゃん」
いつものスタッフが声をかけてくれた。
その声を聞いて、少しだけ安心した。
「大丈夫だからね」
「……はい」
そして。
奥を見る。
桐生さんがいた。
机の前で、記事を読んでいた。
私に気づく。
一瞬、目が合った。
いつもの桐生さんの顔だった。
でも。
どこか、いつもより硬い。
「白石さん」
「……はい」
「少し、話そうか」
その声を聞いた瞬間。
胸がざわついた。
「この記事のことは、もう見たね」
「……はい」
「学校にも連絡がいっているようだ」
「先生とは話しました」
「そうか」
桐生さんは、少し黙った。
そして、記事を机の上に置いた。
「白石さん」
「はい」
「君は何も悪くない」
いきなりそう言われた。
「……でも」
「本当に、君は何も悪くない」
いつもより、少し強い声だった。
「君は事務所の仕事を手伝ってくれていただけだ。誰かに隠れて、何かをしていたわけでもない」
「……はい」
「みんなも、それは分かっている」
桐生さんは一度、目を伏せた。
「ただ……」
そこで言葉を切る。
「選挙が近くなれば、こういうことは増える」
「……」
「私たちは、それもある程度は覚悟している」
桐生さんの指が、記事の端を押さえた。
「でも、君は違う」
「……私?」
「君には学校がある。友達がいる。これから先の人生がある」
静かな声だった。
「それを、私たちの選挙のせいで傷つけるわけにはいかない」
胸が痛くなった。
「……私、迷惑でしたか?」
「違う」
即答だった。
「君が来てくれることを、迷惑だと思ったことは一度もない」
「じゃあ……」
私は、ぎゅっと手を握った。
「じゃあ、なんで……?」
桐生さんは、少しだけ苦しそうに笑った。
「だからこそだよ」
「……え?」
「君が悪くないからこそ、これ以上巻き込みたくない」
そして。
桐生さんは、はっきりと言った。
「しばらく、事務所には来なくていい」
「……」
頭の中が真っ白になった。
「……え?」
「選挙が落ち着くまで、とは言わない。まずは少し様子を見よう」
「でも……」
「白石さん」
「私、ちゃんと仕事できます」
「分かってる」
「失敗も減りました」
「うん」
「みんなも、私がいたほうが助かるって……」
「分かっているよ」
「じゃあ……!」
声が震えた。
「じゃあ、どうして……」
桐生さんは、少しだけ困ったように笑った。
「君を守りたいからだ」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
嬉しい。
……いや。
今は、嬉しいだけじゃない。
悔しい。
だって。
私は桐生さんの役に立ちたかった。
桐生さんが大変なときに、少しでも力になりたかった。
なのに。
私は今、守られる側にいる。
「……私」
声が小さくなる。
「私、何もできないんですか?」
「そんなことはない」
「でも、結局……」
私は俯いた。
「桐生さんが大変なとき、私は守ってもらうだけじゃないですか」
桐生さんは、すぐには答えなかった。
しばらくして、
「今は、それでいいんだよ」
と言った。
「……嫌です」
「白石さん」
「私、嫌です」
顔を上げる。
「守ってもらうだけなの、嫌です」
桐生さんの目が、ほんの少し揺れた。
「私だって……」
言葉が詰まる。
「私だって、桐生さんの役に立ちたいんです」
桐生さんは、しばらく私を見ていた。
そして、
「……ありがとう」
とだけ言った。
その「ありがとう」が、いつもよりずっと重く感じた。
「でも」
桐生さんは続けた。
「今は、私のために何かをするより、自分自身を守ってほしい」
「……」
「それが、今の君にしてほしいことだ」
優しい。
いつも優しい。
だから、余計に悔しかった。
事務所を出る。
夕方の街は、いつもと同じだった。
車が走っている。
人が歩いている。
駅へ向かう人たち。
何も変わっていない。
なのに。
私の中だけが、変わってしまったような気がした。
鞄の中には、今日買った週刊誌。
家に帰ってから、もう一度見た。
写真の中の私は笑っている。
桐生さんも、普通に笑っている。
ただお茶を渡しているだけ。
それなのに。
そこには、私の知らない意味が付けられていた。
「……違うのに」
呟く。
「私、そんなことしてないのに……」
涙が一粒、落ちた。
でも。
泣いているだけでは、何も変わらない。
私は涙を拭いた。
そして、もう一度、写真を見る。
桐生さん。
私が好きになった人。
政治家として、みんなの前に立っている人。
私は今まで、その人のそばにいたいと思っていた。
仕事を手伝いたいと思っていた。
もっと話したいと思っていた。
でも。
私は、桐生さんが何を考えて政治家をしているのか。
何を変えようとしているのか。
ちゃんと知っているんだろうか。
「……私」
小さく息を吐く。
「もっと知らなきゃ」
桐生さんのことを。
桐生さんがやろうとしていることを。
ただ、好きだからそばにいたいだけじゃなくて。
ちゃんと知りたい。
分かりたい。
そしていつか。
守られるだけじゃない自分になりたい。
「……よし」
私は週刊誌を閉じた。
その表紙には、まだ私の知らない「私」がいた。
でも。
私自身は、もう少し先を見ようと思った。
桐生さんが見ているものを。
今度は、私も自分の目で見てみたい。
――そう思った。




