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あの日、あなたの背中を見上げていた  作者: わた雲


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第7話 窓の向こうの視線

 選挙が近づくにつれて、事務所の空気が少しずつ変わってきた。

 朝から電話が鳴る。

 人の出入りが増える。

 机の上には資料が積まれ、コピー機は一日中忙しそうに動いている。

「これ、午前中までにお願いします!」

「こっちは午後の街頭演説用!」

「桐生さんの予定、もう一度確認して!」

「はい、分かりました!」

 以前の事務所とは、まるで別の場所みたいだった。

 でも。

 そんな中でも、私のやることはあまり変わらない。

「ももちゃん、これお願いできる?」

「はーい!」

「ももちゃん、こっちも頼める?」

「了解です!」

 書類をまとめて。

 封筒を揃えて。

 コピーを取って。

 お茶を出して。

 足りないものがあれば補充する。

 最初のころは、いちいち誰かに聞かないとできなかったことも、今ではだいぶ分かるようになってきた。

 我ながら、成長している。

 私は今日も、ちゃんと役に立っているのだ。

 ……たぶん。

「白石さん、これお願いできるかな」

「はい!」

 桐生さんから書類を受け取る。

 それだけなのに。

 私はちょっと嬉しい。

 しかも――

「ありがとう。助かるよ」

「……!」

 また言われた。

 助かるよ。

 この言葉、好き。

 ものすごく好き。

 私は書類を抱えたまま、自分でも分かるくらい口元が緩んだ。

 ……あ。

 そうだ。

 昨日。

 昨日はもっとすごいことがあったんだった。

 ――ももちゃん。

 思い出した瞬間、顔が熱くなる。

 私は慌てて書類に視線を落とした。

 いやいや。

 落ち着け、私。

 たった一言。

 ただの呼び方。

 事務所のみんなだって、普通にそう呼んでいる。

 だから別に――

「ももちゃん?」

「はいっ!?」

 突然、後ろから声をかけられて飛び上がった。

「どうしたの?」

「な、なんでもありません!」

「そう?」

「はい!」

 危ない。

 今、絶対に顔に出てた。

 私は何事もなかったように仕事へ戻った。

 でも。

 桐生さん本人は、昨日のことなんて何もなかったみたいに普通だった。

「白石さん、この資料を――」

「はい!」

「それと、こっちも――」

「はい!」

 いつもの「白石さん」。

 ……。

 まあ。

 そうだよね。

 昨日だけだったのかもしれない。

 でも。

 昨日は確かに――

 ももちゃん。

 ……。

 やっぱり、思い出すと嬉しい。

「白石さん?」

「はい!」

「大丈夫?」

「大丈夫です!」

 私は元気よく返事をした。

 桐生さんが少し不思議そうな顔をする。

 私は笑った。

 大丈夫。

 私は今日も絶好調です。

 それから、忙しい時間の合間に、私はスタッフの人たちの会話を聞くことが増えた。

「この地域だと、やっぱりここがポイントになるな」

「前回もかなり接戦だったからな」

「若い人にも、もっと政治に関心を持ってもらいたいね」

「そうだなあ」

 以前だったら、こういう話を聞いても、

 政治って難しいなあ。

 くらいにしか思わなかった。

 でも、最近は少し違う。

「それって、どういう意味なんですか?」

 私が聞くと、スタッフの人が簡単に説明してくれる。

「へえ……」

「まあ、難しく考えなくていいよ。興味を持つところからで十分だから」

「はい」

 私はうなずく。

 少しずつだけど。

 本当に少しずつだけど。

 政治の話が分かるようになってきた気がする。

 桐生さんが、何を目指しているのか。

 この町で、何を変えたいと思っているのか。

 そんなことが気になり始めていた。

 とはいえ。

 私の中の一番大きな動機が、

 「桐生さんのことをもっと知りたい」

 なのは、まだ変わっていない。

 その頃。

 事務所の外では、別の会話が交わされていた。

「最近、あそこの事務所、ずいぶん忙しそうね」

「選挙が近いからでしょう」

「そうねえ」

「でも、若い子もいるでしょう?」

「ああ、いるいる」

「女の子?」

「そう。いつもニコニコしてる子」

「高校生くらいじゃない?」

「そう見えるわねえ」

 近所の人たちの、ほんの雑談だった。

「よく働いてるわよね」

「感じのいい子よね」

「朝から来てるのを見たことあるわ」

「へえ。熱心ねえ」

 誰も、悪い意味で話しているわけではない。

 ただ、

 「あそこの事務所に、若い女の子がよくいる」

 という、それだけの話。

 けれど。

 選挙が近づいてくれば、人の目は自然と政治の周りに集まってくる。

「向こうの事務所?」

「ああ。最近、若い子がよく出入りしてるって話です」

「若い子?」

「女子高生くらいに見えるって」

「へえ……」

 その話を聞いた人物は、少しだけ考えた。

「一応、見てきてもらえますか」

「分かりました」

 それだけだった。

 翌日。

 私は、そんな話がどこかでされていることなど知らず、いつも通り事務所にいた。

「お茶、どうぞ」

「ありがとう、ももちゃん」

「いえいえ!」

 私は笑顔で湯飲みを置く。

「桐生さんもどうぞ」

「ああ、ありがとう。白石さん」

「はい!」

 それだけ。

 いつものやり取り。

 私にとっては、それだけだった。

 事務所の外。

 少し離れた場所を、一人の男が歩いていた。

 特に目立つ格好ではない。

 通りを歩く普通の人にしか見えない。

 男は事務所の前を一度通り過ぎる。

 そして、少し先まで行ってから振り返った。

 事務所の窓越しに、中の様子が見える。

 電話をしている人。

 資料を運んでいる人。

 慌ただしく動いているスタッフ。

 そして――

 若い女の子。

「……あの子か」

 男は足を止めた。

 聞いていた通りだった。

 私服姿。

 けれど、どう見てもかなり若い。

 しかも、事務所の中で自然に働いている。

 男が見ていることなど、もちろん私は知らない。

「ももちゃん、これお願い」

「はい!」

 私は笑顔で書類を受け取る。

 そして、そのまま桐生さんのところへ向かった。

「桐生さん、これです」

「ありがとう、白石さん」

「どういたしまして!」

 私は笑う。

 男は、その様子をじっと見ていた。

「……高校生、なのか?」

 まだ確信はない。

 けれど、気になる。

 男はポケットから小さなカメラを取り出した。

 そして、何気ない様子で一枚。

 シャッターが切られた。

 その日の夕方。

「ももちゃん、これ終わったら休憩していいよ」

「はーい」

 私は伸びをした。

「今日もいっぱい働いたなあ」

 自分で言って、少し笑う。

 忙しい。

 でも、楽しい。

 桐生さんの役に立てる。

 政治のことも、少しずつ分かってきた。

 それに――

 私は昨日、桐生さんに「ももちゃん」と呼んでもらった。

 思い出すだけで、まだ嬉しい。

 だから。

 もっと頑張ろう。

 もっと役に立てるようになろう。

 私は、そう思っていた。

 その頃。

 別の場所では、一枚の写真が机の上に置かれていた。

 そこには、

 笑顔でお茶を運ぶ私と。

 その先にいる桐生さんが写っていた。

「……若いな」

「ええ」

「本当に高校生なのか?」

「そこまでは、まだ」

「調べてみるか」

「はい」

 写真を見つめる。

 そこに写っているのは、嘘ではない。

 私が事務所にいることも。

 桐生さんの近くで働いていることも。

 笑顔でお茶を出していることも。

 全部、本当だった。

 ただ。

 写真には写っていないものがある。

 私がどうしてここにいるのか。

 桐生さんが私をどう見ているのか。

 私が何を思っているのか。

 そんなことまでは、一枚の写真には写らない。

「……これ、ちょっと使えるかもしれないな」

 そう言って、写真は伏せられた。

 まだ誰も知らない。

 この一枚が。

 これから少しずつ形を変えていくことを。

 私は何も知らずに、次の日の仕事のことを考えていた。

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