第6話 夜の事務所
その日は、いつもより少しだけ帰りが遅くなった。
「じゃあ、今日はこれで失礼します」
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
事務所にいた人たちが、一人、また一人と帰っていく。
私は机の上に残った書類をまとめながら、時計を見た。
もう、こんな時間なんだ。
窓の外はすっかり暗くなっている。
「桐生さんは、まだ帰らないんですか?」
私が聞くと、桐生さんは机の上の資料から顔を上げた。
「うん。もう少しだけ確認しておきたいものがあってね」
「じゃあ、私も手伝います!」
反射的に言っていた。
桐生さんは少し笑う。
「いや、白石さんはもう帰りなさい」
「でも、まだ何かできますよ?」
「今日も学校だったでしょう?」
「それは……そうですけど」
「明日もあるんだから」
そう言われると、何も言い返せない。
桐生さんは、こういうところがある。
私が頑張ろうとすると、ちゃんと止める。
もっとやりたいと言っても、
「無理しなくていい」
と、当たり前みたいに言う。
……そういうところなんだよなあ。
「じゃあ……これだけ片づけたら帰ります」
私は目の前の封筒を指差した。
「これだけなら、いいですか?」
桐生さんは少し考えて、
「それくらいならお願いしようかな」
と笑った。
「はい!」
私は張り切って作業を始めた。
気がつけば、事務所には私と桐生さんだけになっていた。
昼間はあんなに人がいるのに。
夜になると、こんなにも静かなんだ。
コピー機の音。
紙をめくる音。
時計の針が進む音。
窓の外を車が走っていく音。
私は封筒を揃えながら、ふと顔を上げた。
桐生さんは、机に向かって資料を読んでいる。
昼間みたいに、誰かと話しているわけじゃない。
演説をしているわけでもない。
ただ黙って、一枚一枚、資料を確認している。
その横顔を見ていると、ふと思った。
……この人、本当に毎日こうしてるんだ。
政治家だから。
人前に立って。
いろんな人と話して。
いろんなことを決めて。
それが終わったら、こうやって一人で資料を読む。
私は今まで、桐生さんの「かっこいいところ」ばかり見ていた。
でも。
こういう時間もあるんだ。
「……桐生さん」
「ん?」
「毎日、こんなに仕事してるんですか?」
「まあ、そうだね」
桐生さんは資料から目を離さずに答える。
「政治家なんて、だいたいこんなものだよ」
「大変じゃないですか?」
「大変だよ」
「……即答なんですね」
思わず笑ってしまった。
桐生さんも少し笑う。
「でも、自分がやりたいと思ってやっていることだからね」
「……やりたいこと」
「うん」
桐生さんは、机の上の資料を一度閉じた。
「大変だからやらない、という選択もある。でも、それでもやりたいと思えることなら、頑張る意味はあると思うよ」
「……」
私は何も言わずに、その言葉を聞いていた。
駅前で初めて見たときも。
事務所で話しているときも。
桐生さんは、ずっとこういう人だった。
自分が何をしたいのか。
何を目指しているのか。
そこが、ぶれない。
「……やっぱり、桐生さんってすごいですね」
「そんなことないよ」
「ありますよ」
私は即答した。
「だって、私だったら途中で疲れて、もういいやってなっちゃうかもしれないです」
「白石さんは、まだ若いんだから。これからいろんなことを経験すればいい」
「……はい」
そう言いながら、私は桐生さんを見た。
やっぱり、好きだ。
かっこいいから。
優しいから。
頭がいいから。
政治家だから。
……それだけじゃない。
この人が頑張っているところを、もっと見ていたい。
この人がやろうとしていることを、少しでも応援できたらいい。
そんな気持ちが、いつの間にか混ざっていた。
「……ふう」
桐生さんが小さく息を吐いた。
そして椅子の背もたれに体を預ける。
「さすがに今日は疲れたな」
そう言って、ネクタイを少し緩めた。
私は思わず、じっと見てしまった。
……。
……かっこいい。
昼間、きっちりスーツを着て、人前で話している桐生さんとは少し違う。
仕事を終えようとしている、大人の人。
なんというか。
……かっこいい。
いや、語彙力。
私の頭の中には、それしか浮かばないのか。
でも仕方ない。
かっこいいものは、かっこいい。
私がぼんやりしていると、桐生さんがこちらを見た。
「どうしたの?」
「えっ!?」
「いや、さっきからこっちを見ていたから」
「み、見てません!」
「そう?」
「見てません!」
危なかった。
顔に出ていた。
絶対に出ていた。
私は慌てて封筒に視線を戻す。
「……白石さん」
「はい?」
「それ、さっきから同じところに並べてない?」
「…………」
しまった。
「……見てました」
「やっぱり」
桐生さんが笑った。
私は恥ずかしくなって、慌てて作業を続けた。
しばらくして。
桐生さんが時計を見る。
「……もうこんな時間か」
「え?」
私も時計を見る。
思っていたよりずっと遅い。
「白石さん、今日はもう帰ろう」
「でも……」
「もう十分手伝ってもらったよ」
「……はい」
桐生さんは立ち上がった。
「高校生がこんな時間まで残ってちゃ駄目だよ」
「……すみません」
「謝ることじゃないよ」
そう言って、桐生さんは少し笑った。
「学校のほうが大事だからね」
「……はい」
まただ。
こういうところ。
ちゃんと私のことを心配してくれる。
私は鞄を持った。
「じゃあ、帰ります」
「うん。気をつけて帰るんだよ」
「はい」
事務所の入口まで歩く。
靴を履いて。
ドアに手をかける。
私は一度だけ振り返った。
「桐生さん」
「ん?」
「……今日はありがとうございました」
「こちらこそ。手伝ってくれてありがとう」
「はい!」
私は笑った。
そして、ドアを開けようとした。
「……あ」
後ろから声がした。
私は振り返る。
「?」
桐生さんがこちらを見ていた。
「ももちゃん」
「…………」
時間が止まった。
「…………え?」
今。
なんて。
言った?
私の聞き間違い?
いや。
違う。
絶対に違う。
桐生さんは、いつも。
いつだって。
私のことを――
「白石さん」
そう呼んでいた。
それが。
今。
「ももちゃん」
って。
「……今日はありがとう」
桐生さんは、それだけ言った。
いつもと変わらない、穏やかな顔。
まるで何事もなかったみたいに。
私は動けなかった。
ももちゃん。
ももちゃん。
ももちゃん。
頭の中で、その言葉が何度も響く。
事務所のみんなは、いつもそう呼んでいる。
だから、別に珍しい呼び方じゃない。
珍しくない。
珍しくないはずなのに。
なのに。
桐生さんが言うと。
なんでこんなに違うの。
「…………」
「白石さん?」
「は、はいっ!」
私は慌てて返事をした。
「どうしたの?」
「な、なんでもないです!」
なんでもないわけがない。
ある。
ありすぎる。
「じゃ、じゃあ、帰ります!」
「うん。気をつけて」
「はい!」
私は勢いよくドアを開けた。
外に出る。
夜の空気が頬に当たる。
私はしばらく歩いて――
「…………」
立ち止まった。
「……ももちゃん、って……」
小さく呟く。
そして。
「……桐生さんが……」
胸の奥が、どくん、と鳴った。
これは。
もしかして。
もしかしてだけど。
私。
ちょっとだけ。
特別なんじゃ――
「…………いやいやいや!」
私は慌てて首を振った。
「落ち着け、白石桃子!」
ただの呼び方。
たぶん。
きっと。
……でも。
桐生さんが。
私を。
「ももちゃん」って。
その夜。
私は家に帰ってからも、なかなか眠れなかった。
「……ももちゃん……」
自分で言ってみる。
「…………」
布団に顔を埋める。
「無理ぃぃぃ……!」
枕を抱きしめる。
たった一言。
本当に、たった一言なのに。
私にとっては。
今日一日のどんな出来事よりも。
それが一番、大きな出来事だった。




