第5話 政治家は恋愛禁止?
いつの間にか、私は事務所の中で、ちょっとした名物になっていた。
「ももちゃん、これコピーお願いできる?」
「はーい!」
「ももちゃん、こっちの封筒も頼む!」
「了解です!」
「ももちゃん、これどこに置けばいい?」
「えっ、私に聞くんですか?」
「もう俺より詳しいんじゃない?」
「それは言いすぎですよー!」
そんなやり取りが、普通に飛び交うようになっていた。
最初のころは、書類を一枚間違えたり、コピーの向きを逆にしたり、封筒の宛名を確認し忘れたり。
でも、何度も来ているうちに、少しずつ仕事の流れが分かってきた。
今では、
「これ、次に使うやつですよね?」
「ああ、そうそう。助かるよ」
なんて言われることもある。
……えへへ。
助かる。
この言葉、好き。
私、ここで役に立ってるんだ。
それに――
「ももちゃんが来ると、事務所が明るくなるよなあ」
「ほんとほんと。おじさんばっかりだからねえ」
「若い子がいるだけで全然違うよ」
「私、照明じゃないんですけど!」
笑いが起きる。
私も笑う。
こういう時間が、私は好きだった。
もちろん、最初は桐生さんの近くにいたかっただけだ。
でも、最近は少し違う。
ここで働いている人たちが、どんなことを考えているのか。
桐生さんが、何を目指しているのか。
政治って、何をするものなのか。
そんなことも、少しずつ気になってきた。
たぶん私は、ほんの少しだけ。
「桐生さんのいる世界」に興味を持ち始めていたんだと思う。
……まあ。
一番気になっているのは、桐生さん本人なんだけど。
そこは変わらない。
その日の午後。
事務所の仕事が一段落して、何人かが休憩しながら雑談をしていた。
私は近くで書類を整理していた。
すると――
「そういえばさ」
「ん?」
「桐生さんって、彼女とかいるんですかね?」
「…………」
私の手が止まった。
えっ。
今。
なんて?
「えっ!?」
思わず声が出た。
「ももちゃん、どうしたの?」
「い、いや! なんでもないです!」
なんでもなくない。
全然なんでもなくない。
彼女。
彼女って言った?
桐生さんに?
いるの?
いないの?
どっち!?
私は何食わぬ顔をして書類を持ったまま、その場に残った。
耳が。
耳がダンボになる。
……古い?
知らない。
今の私には、それどころじゃない。
「いやあ、どうなんでしょうね」
「付き合ってる人がいるって話、聞いたことないけどな」
「桐生さん、仕事ばっかりだからねえ」
「朝から晩まで政治のこと考えてるような人だし」
「そうそう。女性とデートしてる暇なんてないんじゃない?」
……。
……え?
いない?
彼女、いないの?
私は思わず顔を上げた。
すると、別の人が笑いながら言った。
「そもそも、桐生さんって恋愛とか興味あるのかね?」
「あるだろ、人間なんだから」
「でも、本人からそういう話、一度も聞いたことないぞ」
「まあ、あの人は真面目だからなあ」
私は黙って聞いていた。
口元は、にこにこ。
心の中は――
どんどん、どんどん、明るくなっていく。
いないんだ……!
桐生さん、今、彼女いないんだ……!
ということは。
ということはですよ。
私にも――
「…………」
いやいやいや。
落ち着け、白石桃子。
まだ何も始まっていない。
そもそも私は高校生。
桐生さんは大人。
政治家。
超有名。
私とは住んでる世界が違う。
分かってる。
分かってるけど。
……彼女がいないっていうのは。
かなり大きな情報では?
少なくとも、
「私以外に好きな人がいる」
という最悪の可能性は、今のところ出ていない。
それだけで、私の心は勝手に希望を持ち始めていた。
「……ももちゃん?」
「へっ?」
「顔、にやけてるよ」
「に、にやけてません!」
「そう?」
「全然!」
危ない。
顔に出てた。
私は慌てて書類に視線を落とした。
その日の夕方。
桐生さんはいつものように、机の上の資料を確認していた。
私は少し離れたところで作業をしながら、ちらちらと様子をうかがう。
……彼女、いない。
そう思うと、なんだか今までより桐生さんが近く見える。
単純すぎる。
私、単純すぎる。
でも――
聞いてみたい。
どうしても。
気になる。
気になって仕方がない。
私は意を決して、桐生さんのところへ向かった。
「桐生さん」
「ん?」
「……あの」
「どうしたの?」
「桐生さんって……」
ここで一瞬、言葉に詰まる。
いや、何を聞こうとしてるの私。
でも、もう遅い。
「恋人、いないんですか?」
言った。
聞いちゃった。
私、聞いちゃった!
桐生さんは、一瞬だけ目を丸くした。
けれど、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。
「恋人?」
「はい……」
「どうして急にそんなことを?」
「えっと……その……」
さっき聞いたんです、とは言えない。
私は適当にごまかした。
「ちょっと気になったので」
「そう」
桐生さんは、少し考えてから答えた。
「今は、政治以外のことを考える余裕がないからね」
「…………」
今は。
私は、その二文字を頭の中で繰り返した。
今は。
ということは。
今じゃなければ?
いつかは?
政治が落ち着いたら?
仕事が一段落したら?
もしかして――
「……じゃあ」
「うん?」
「好きな人ができたら、どうするんですか?」
桐生さんは少しだけ笑った。
「そのときになってみないと、分からないかな」
「…………!」
なんという答え。
なんという余白。
私は勝手に、その余白へ希望を詰め込みそうになる。
でも、桐生さんは続けた。
「ただね」
「はい」
「白石さんは、まだ高校生でしょう?」
「……はい」
「今は、そういうことを考えるより、自分の学校生活や、これからのことを大切にしたほうがいいと思うよ」
「…………」
ぐさっ。
正論。
ものすごく正論。
反論の余地がない。
でも――
そう言われると、逆に思ってしまう。
高校生じゃなくなったら?
そのときは?
私はまだ何も言っていない。
桐生さんも、何も約束していない。
それなのに。
胸の奥だけが、勝手に未来を想像してしまう。
「政治のことでも、学校のことでもいい。好きなことをたくさん学べばいいよ」
桐生さんは、そう言って微笑んだ。
「白石さんは、まだこれからなんだから」
「……はい」
私は小さくうなずいた。
……ずるい。
そんなふうに言われたら。
もっと好きになるじゃん。
事務所を出た帰り道。
私はひとりで歩きながら、さっきの会話を何度も思い返していた。
彼女はいない。
今は政治以外のことを考える余裕がない。
好きな人ができたら、そのときになってみないと分からない。
そして私は高校生。
だから、今は学校生活や将来を大切にしなさい。
……うん。
分かってる。
桐生さんは、私に変な期待をさせないようにしてくれたんだ。
たぶん。
ちゃんと、大人として。
それは分かる。
分かるけど。
「高校生じゃなくなったら……」
ぽつりと口にした瞬間、私は自分で恥ずかしくなった。
「って、何考えてるの私!」
顔が熱くなる。
でも。
頭の片隅には、どうしても残ってしまう。
高校を卒業した、その先。
そのとき私は、どんな人になっているんだろう。
桐生さんは、どんな人になっているんだろう。
そして――
そのときも、私はこの人の近くにいるんだろうか。
答えは、まだ分からない。
ただ一つだけ。
今まで「いつか」を考えたことなんて、なかったのに。
私はその日から。
少しだけ、その先の未来を想像するようになった。




