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あの日、あなたの背中を見上げていた  作者: わた雲


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第10話 私は今、あなたの力になれる途中

 夏休みの昼下がり。

 白石桃子は、机の上に広げた教科書を前に、シャープペンシルをくるくると回していた。

 机の上には、経済学の教科書。

 その隣には政治学の講義ノート。

 さらに新聞の切り抜きと、大学のレポート。

 高校生の頃の桃子が見たら、きっとこう言うだろう。

 ――何これ。

 ――日本語なのに、日本語じゃない。

 けれど、今の桃子は違った。

「……なるほど。ここで財政政策が絡んでくるのか」

 小さく呟いて、ノートに書き込む。

 分からない言葉があれば調べる。

 調べて、分からなければもう一度読む。

 それでも分からなければ、講義資料を引っ張り出す。

 高校時代には考えられなかった勉強の仕方だった。

「……私、ちゃんと勉強してるなあ」

 自分で言って、少し笑う。

 昔の自分なら、こんなことを言うだけで驚いただろう。

 何しろ、政治というものに興味を持ったきっかけは――

 駅前に立っていた、一人の男だったのだから。

 桃子はペンを置き、椅子の背もたれに身体を預けた。

「……桐生さん」

 その名前を口にすると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。

 スマートフォンを手に取る。

 ニュースアプリを開く。

 政治の記事をいくつか眺めていると、見慣れた名前が目に入った。

 ――桐生恒一議員。

「あ」

 桃子の指が止まる。

 記事を開く。

 桐生が国会で行った質問についての記事だった。

 以前なら、記事の内容より先に写真を見ていただろう。

 そして、

 ――今日もかっこいい♡

 などと思っていたに違いない。

 もちろん、今でも写真を見る。

 見るけれど。

「……ふふ」

 桃子は記事を読み進める。

「この問題について、こういう考えなのか……」

 以前よりも、ずっと内容が分かる。

 なぜその質問をしたのか。

 どこに問題意識を持っているのか。

 その背景には何があるのか。

 大学で学んだことと、ニュースの内容が少しずつ繋がっていく。

「……あの頃の私だったら」

 桃子はスマートフォンの画面を見つめた。

「たぶん、何にも分からなかったな」

 思わず笑ってしまう。

 駅前で初めて見たとき。

 何を話しているのか、半分くらいしか分からなかった。

 それでも、

 ――この人、かっこいい。

 そう思った。

 ただ、それだけだった。

 そこから事務所に行って。

 お手伝いをして。

 秘書になれると言って。

 恋人がいるのかと聞いて。

 そして――

 あの夜。

『ももちゃん』

「……っ」

 思い出しただけで、顔が熱くなる。

「……あれは、ずるいよなあ」

 誰に言うでもなく呟く。

 みんながそう呼んでいた名前なのに。

 桐生だけは、ずっと「白石さん」と呼んでいた。

 だからこそ、たった一度の「ももちゃん」が、桃子にとっては大事件だった。

「……ほんと、私、好きだったんだなあ」

 桃子は苦笑する。

 そして少しだけ間を置いてから、

「……ううん」

 静かに付け足した。

「今も、好きなんだけど」

 その言葉に、もう昔ほどの勢いはなかった。

 けれど、その分だけ。

 ずっと深いところに残っていた。

 桃子はスマートフォンを机に置く。

 そして、再び教科書を開いた。

「……よし」

 ペンを持つ。

「レポート、終わらせよ」

 ――今の桃子には、やるべきことがある。

 それは、桐生に会うことではない。

 まず、自分自身が前に進むことだった。

* * *

 夏休み。

 久しぶりに実家へ帰った桃子は、夕方の街を歩いていた。

 昔と変わらない道。

 昔と変わらない商店。

 そして、昔から知っている近所の人たち。

「あら、桃子ちゃん!」

「こんにちはー!」

「大学、どうだ?」

「楽しいですよー。勉強、大変ですけど」

「そうかそうか。もう三年生だもんなあ」

 そう言われて、桃子は笑った。

「早いですよねえ」

「ほんとだよ。ついこの前まで高校生だったのに」

「それは言わないでくださいよー」

 笑いながら歩く。

 すると、後ろから声が飛んできた。

「おーい、ももちゃん!」

 桃子が振り返る。

「はい?」

 近所のおじさんが手を振っている。

「元気かー?」

「元気ですよー!」

「大学、頑張れよ!」

「はーい!」

 手を振り返す。

 ――ももちゃん。

 昔から変わらない呼び方。

 なんだか少し懐かしくて、桃子は笑った。

 そのまま歩いていると、駅前近くの掲示板が目に入った。

 そこに、一枚のポスター。

 見慣れた顔。

 桐生恒一。

 桃子は足を止めた。

「……あ」

 しばらく眺める。

 そして。

「ふふ」

 思わず笑ってしまった。

「昔より、ちゃんとイケメンに撮ってもらえてるじゃん」

 高校生の頃の記憶が蘇る。

 事務所を探していたときに見つけた、桐生の選挙ポスター。

 その写真を見て思った。

 ――盛れてない。

 ――実物、もっとかっこいいのに。

「……ほんと、失礼なこと考えてたなあ、私」

 今なら、あの頃の自分を少しだけ客観的に見られる。

 けれど。

 ポスターの前から離れようとして――

 もう一度、振り返った。

「……頑張ってるんだ」

 その声には、昔とは違う響きがあった。

 ただ「かっこいい」と思っているだけではない。

 桐生が何をしているのか。

 どんなことを目指しているのか。

 そのために、どんな仕事をしているのか。

 少しずつだけれど、桃子にも分かるようになっていた。

「……私も、頑張らなきゃ」

 そう言って、歩き出す。

* * *

 その夜。

 桃子は自宅の机に向かっていた。

 窓の外は静かだった。

 机の上には、大学の教科書。

 読みかけの新聞。

 そして、進路について考えるための資料。

 桃子はそれらを眺める。

 高校生の頃は、ただ一人の人を見ていた。

 その人の背中を追いかけた。

 もっと知りたい。

 もっと近くにいたい。

 もっと役に立ちたい。

 そんな気持ちから始まった。

 けれど。

 今は違う。

 大学で学ぶことも。

 将来のことを考えることも。

 自分が何をしたいのかを探すことも。

 全部、自分自身のためだ。

 桐生がいなくても。

 きっと、私はこの道を歩いていく。

 桃子は、そう思えるようになっていた。

 それでも――

 スマートフォンの画面に映る桐生の写真を見ると、胸が少しだけ高鳴る。

「……やっぱり、好きだなあ」

 苦笑する。

「ほんと、しょうがないな。私」

 けれど、その笑顔は昔よりずっと穏やかだった。

 桃子はスマートフォンを胸元に抱える。

 そして、小さな声で呟いた。

「桐生さん」

 少しだけ照れながら。

「私、ちゃんと大人になったよ」

 言ってから、自分で首を傾げる。

「……いや」

 そして、笑った。

「まだ途中かな」

 そう。

 まだ途中。

 大学三年生。

 これから就職するのか。

 政治の世界に進むのか。

 別の道を選ぶのか。

 まだ決まっていない。

 けれど。

 少なくとも、昔の自分とは違う。

 ただ誰かの背中を追いかけるだけではなく。

 自分で考えて。

 自分で学んで。

 自分の足で歩いている。

 桃子は窓の外を見る。

 遠くの街明かりを眺めながら、ほんの少しだけ笑った。

「桐生さん」

 もう一度、その名前を呼ぶ。

「私は今――」

 言葉を探す。

 そして。

「あなたの力になれる途中……です」

 誰に聞かせるでもなく。

 桃子はそう呟いた。

 それから、机の上の教科書を開く。

「……よし。勉強しよ」

 今はまだ、途中。

 でも――

 いつか。

 自分の足で、あの人の隣に立てるくらいの人間になれたら。

 そんな未来を、桃子はまだ知らない。

 ただ。

 もう一度、ペンを握る。

 その横顔は、高校生の頃よりほんの少しだけ、大人になっていた。


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