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あの日、あなたの背中を見上げていた  作者: わた雲


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第11話 ももちゃんじゃない私 

 川崎の夜は、思っていたより静かだった。

 窓の外を電車が走っていく。

 遠くに見える東京の灯り。

 大学三年生。

 白石桃子、21歳。

 一人暮らしにも、すっかり慣れた。

 洗濯物を畳むのは面倒だし、食事はたまにコンビニで済ませる。

 机の上には大学の講義資料と、読みかけの本。

 ベッドの脇には、脱ぎっぱなしのカーディガン。

 高校生の頃には想像もしていなかった、普通の大学生の生活だった。

 桃子は、窓の外をぼんやり眺める。

「……東京、近いんだよな」

 川崎からなら、電車に乗ればすぐだ。

 桐生恒一が活動している場所も知っている。

 ニュースを見れば、最近の動向も分かる。

 事務所の情報だって、調べようと思えばすぐに出てくる。

 だから――

 会おうと思えば、会える。

「……会おうと思えば、会えるんだよね」

 口に出してみる。

 それなのに。

 高校を卒業してから、桃子は一度も桐生に会っていなかった。

 連絡を取らなかった。

 会いに行かなかった。

 避けていたわけではない。

 嫌いになったわけでもない。

 むしろ。

 ずっと、好きだった。

 高校生の頃から。

 駅前で初めて見た、あの日から。

 けれど――

「……あの頃のままじゃ、嫌だったんだよね」

 桃子は小さく呟いた。

     *

 高校生の自分は、桐生のことが好きだった。

 ものすごく好きだった。

 政治のことなんて、ほとんど知らなかった。

 演説の内容だって、最初は半分くらいしか分からなかった。

 それでも、あの人が格好よかった。

 真っ直ぐで。

 落ち着いていて。

 何かを変えようとしていて。

 そして――

 ものすごく格好よかった。

 それだけで、桃子の恋愛脳は十分に暴走した。

 事務所に通って。

 仕事を手伝って。

 名前を覚えてもらって。

 最後には、一度だけ。

『ももちゃん』

 そう呼んでもらった。

 あの一言は、今でも覚えている。

「……忘れるわけないじゃん」

 桃子は笑う。

 けれど。

 あの頃の自分と、今の自分は違う。

 大学に入った。

 政治や経済を勉強した。

 ニュースを見るようになった。

 自分で考えることも増えた。

 友達とくだらない話をして笑って。

 アルバイトをして。

 一人で暮らして。

 自分の生活を、自分で作ってきた。

 桐生のためだけじゃない。

 自分の人生として。

「私……桐生さんに会うために、大人になったんじゃない」

 桃子は静かに言った。

「私が、私になるために……ここまで来たんだ」

 それは、高校生の頃には持っていなかった感覚だった。

 誰かに憧れて。

 その人の背中を追いかけるだけではない。

 自分で考えて。

 自分で選んで。

 自分で歩く。

 そのことを、桃子は少しずつ覚えてきた。

     *

 その夜。

 テレビのニュースに、桐生が映った。

 国会での発言。

 記者からの質問。

 そして、画面の端に映る、いつもの真剣な横顔。

 桃子は、思わずテレビの前に座り直した。

「……桐生さん」

 昔なら。

 ここで、

 きゃああああああ!

 となっていたところだ。

 いや。

 今も、ちょっとなる。

「……やっぱり、格好いいなあ」

 小さく笑う。

 でも。

 もう、それだけじゃない。

 この人が何を話しているのか。

 何を目指しているのか。

 以前よりも、ずっと分かる。

 そして――

「……会いたいな」

 その言葉は、昔とは違っていた。

 高校生の頃の、

『会いたい! 近くで見たい!』

 ではない。

 今の自分で。

 一人の大人として。

 もう一度、ちゃんと話したい。

「……よし」

 桃子はスマートフォンを手に取った。

     *

 連絡は、思っていたよりあっさりついた。

 事務所へ正式に連絡を入れる。

「白石桃子です」

 それだけ名乗ったところで、向こうが少し沈黙した。

『……白石さん?』

「はい」

『もしかして……以前、事務所に来ていた……?』

「はい。高校生の頃に」

 電話の向こうの声が、少しだけ明るくなる。

『ああ……! ももちゃん!』

 その呼び方に、桃子は一瞬だけ目を閉じた。

 懐かしい。

 そして。

 ほんの少しだけ、胸が痛む。

 高校生の頃の自分が、そこにいるような気がした。

「……はい」

 でも、今度は笑って答えた。

「白石桃子です」

 その数日後。

 桃子は、桐生と再会することになった。

     *

 昼間のホテルラウンジ。

 人目のある、落ち着いた場所。

 桃子が少し緊張しながら待っていると――

「お待たせしました」

 聞き覚えのある声がした。

 振り返る。

「……!」

 そこに、桐生恒一が立っていた。

 何年ぶりだろう。

 テレビでは何度も見ていた。

 けれど。

 こうして目の前に立つと、やっぱり違う。

 少し疲れた顔。

 それでも変わらない、真っ直ぐな目。

 桃子は立ち上がった。

「お久しぶりです、桐生さん」

 桐生も、静かに微笑む。

「……久しぶりだね、白石さん」

 その呼び方に。

 桃子は、なぜか少し安心した。

 まだ、いつもの二人だった。

     *

 席につく。

 最初は、近況の話をした。

 大学のこと。

 一人暮らしのこと。

 勉強していること。

 桐生は、時折頷きながら聞いていた。

「経済学を?」

「はい」

「そうか」

 少しだけ嬉しそうだった。

「高校生の頃とは、ずいぶん変わったね」

「……そうですよね」

 桃子は笑った。

「私も、そう思います」

 そして。

 ふと、昔のことを思い出した。

「……そういえば」

「うん?」

「桐生さん、一回だけ」

 桃子は少しだけいたずらっぽく笑う。

「私のこと、『ももちゃん』って呼びましたよね」

 桐生の表情が止まった。

「……覚えているのか」

「覚えてますよ!」

 即答だった。

「忘れるわけないじゃないですか!」

「……そうか」

 桐生は少し困ったように笑った。

「そんなに大したことではないと思っていたんだが」

「私には大事件でした」

「……大事件?」

「はい」

 桃子は胸を張った。

「私の中では、歴史に残る一大ニュースです」

 桐生が、久しぶりに声を立てて笑った。

「君は……昔から変わらないな」

「そうですか?」

「ああ」

 そして。

 少しだけ目を細める。

「でも、変わった」

 桃子は黙った。

「……大人になったね」

 その言葉が。

 思っていた以上に胸に響いた。

     *

 少しの沈黙。

 桃子は、カップに手を添えた。

 ここまで来た。

 だから。

 もう、逃げない。

「桐生さん」

「うん」

「私……今でも、桐生さんが好きです」

 桐生の目が、桃子を見る。

 桃子は、視線を逸らさなかった。

「高校生の頃から、ずっと」

 昔だったら。

 ここで顔を真っ赤にしていた。

 けれど今は違う。

 自分の言葉として、ちゃんと伝える。

「……そうか」

 桐生は静かに答えた。

「でも」

 桃子は続けた。

「高校生の頃の気持ちを、そのまま持ってきただけじゃないです」

 桐生は黙って聞いている。

「ちゃんと大学に行って」

「勉強して」

「一人で暮らして」

「自分のことも、自分で考えるようになって」

 桃子は小さく息を吸った。

「それでも……やっぱり、好きだって思いました」

 桐生は、しばらく何も言わなかった。

 やがて。

「……白石さん」

 その声は、昔と同じだった。

 けれど。

 以前とは違うものが、その声にはあった。

「君が高校生だった頃」

 桐生はゆっくりと言葉を選んだ。

「私は、君の気持ちに応えるべきではないと思っていた」

 桃子は黙って頷く。

「君には、これから先の人生がある」

「……はい」

「学校もある。友達もいる。将来もある」

「はい」

「だから、私は距離を置く必要があると思っていた」

 桃子は少し笑った。

「……分かってました」

「本当に?」

「当時は、分かってませんでした」

「……そうか」

「でも、今なら分かります」

 桃子は笑った。

「桐生さん、ちゃんとしてたんだなって」

 桐生は苦笑した。

「私は政治家だからね」

「それだけじゃないと思います」

 桃子は、まっすぐに桐生を見る。

「桐生さんが、そういう人だったからだと思います」

 その言葉に。

 桐生は一瞬、目を伏せた。

     *

 窓の外を、車が走っていく。

 昼の東京。

 何も変わらない日常。

 その中で。

 二人だけが、少しだけ違う場所にいるようだった。

「……君はもう」

 桐生が言った。

「私の事務所に通ってきていた高校生じゃない」

 桃子は黙って聞く。

「一人で大学に進んで」

「自分で暮らして」

「自分で考えて」

「自分の意思で、今日ここに来た」

 桐生は桃子をまっすぐ見た。

「私は、そのことを……ちゃんと尊重したいと思っている」

 桃子の胸が、静かに高鳴った。

 昔みたいな、爆発するような高鳴りじゃない。

 もっと深く。

 じわっと広がるような。

「……桐生さん」

 そして。

 桐生は少しだけ笑った。

「……ももちゃん」

「…………」

 桃子の思考が止まった。

「…………え?」

「どうした?」

「今……」

「うん?」

「今、なんて……?」

 桐生は少し不思議そうな顔をした。

「ももちゃん、と」

「…………」

 桃子は両手で顔を覆った。

「……それ」

「うん?」

「今、言うんですか……」

「何か問題が?」

「問題しかないです!」

 思わず声が大きくなる。

「嬉しすぎます!」

 桐生が笑う。

「昔から、そういうところは変わらないな」

「だって……!」

 桃子は顔を上げた。

 そして、少し照れながら笑った。

「……ずっと、嬉しかったんです」

 桐生は、そんな桃子を静かに見つめていた。

     *

 けれど。

 それだけで、すべてが決まったわけではない。

 桐生は少し考えるように視線を落とした。

「……少し、時間をくれないか」

 桃子は頷いた。

「はい」

「私も、自分の気持ちをきちんと考えたい」

「……はい」

「君の言葉を、軽く受け止めたくないから」

 桃子は少しだけ笑った。

「分かりました」

 それでいい。

 今すぐ答えが欲しいわけじゃない。

 高校生の頃のように、ただ一方的に追いかけるだけじゃない。

 今は。

 自分の気持ちを伝えた。

 そして。

 相手にも考える時間がある。

 それだけで、十分だった。

     *

 帰り道。

 川崎へ向かう電車の中。

 桃子は窓の外を眺めていた。

 東京の街が流れていく。

「……ちゃんと、会えた」

 小さく呟く。

 会おうと思えば、会えた。

 でも。

 会わなかった。

 会わない時間があったからこそ。

 今日、自分の言葉で「好き」と言えた。

 桐生の背中を追いかけるだけだった少女は。

 いつの間にか。

 自分の足で、彼の前に立っていた。

     *

 部屋に帰る。

 玄関のドアを閉める。

「…………」

 数秒。

 沈黙。

 そして――

「……疲れたぁぁぁぁぁぁ!」

 桃子は、その場で壁にもたれかかった。

「無理……!」

 顔を両手で覆う。

「告白した……私、今……告白した……!」

 高校生の頃とは違う。

 泣きそうなくらい緊張した。

 逃げ出したくなるくらい怖かった。

 それでも。

 ちゃんと、自分で言った。

「……桐生さん」

 そして。

「……ももちゃん、って……」

 桃子は顔を覆ったまま、じたばたした。

「そこ今言うぅぅぅ!?」

 けれど。

 その顔は、笑っていた。

 胸の奥には、不思議なくらい静かな充実感があった。

 もう、ただの高校生じゃない。

 桐生の背中を追いかけているだけの女の子でもない。

 私は私の人生を歩いてきた。

 そのうえで。

 それでも、あなたが好き。

 だから。

 もう一度、あなたに会いに行った。

 それだけで――

 今日は、十分だった。

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