第12話 それぞれの道の、その先で
川崎の部屋を引き払ってから、もう一年以上になる。
大学を卒業すると同時に、桃子は地元へ戻った。
就職先に選んだのは、地域経済に関わる民間の調査・支援機関。
大学で学んだ経済学を生かしながら、地域企業の調査や、商店街の活性化、自治体と企業をつなぐプロジェクトなどに携わっている。
社会人二年目。
白石桃子、23歳。
もう、すっかり仕事にも慣れた――。
……とまでは、まだ言えない。
「……この資料、あと一回見直したほうがいいかな」
自宅の机に広げた仕事の資料を眺めながら、桃子は首を傾げた。
明日の会議で使う資料だ。
数字を確認して。
グラフを確認して。
文章を確認して。
「……よし」
ようやくファイルを閉じる。
「今日の私、えらい」
自分で自分を褒める。
大学を卒業して、二年。
まだまだ勉強することは多い。
仕事で失敗することもある。
思うようにいかないこともある。
それでも。
桃子は、今の仕事が好きだった。
*
何気に、大学は主席で卒業していた。
本人は、それをあまり大げさには考えていない。
卒業式の日も、
「え? 主席? いやいや、たまたまだよ」
などと言っていた。
けれど。
高校生の頃の桃子を知る人間が見たら、きっと驚くだろう。
政治の話を聞いても、
――日本語なのに日本語じゃない……!
と頭を抱えていた少女が。
今では地域経済の資料を読み込み、数字を分析し、会議で意見を述べている。
もちろん、政治や経済のすべてを理解しているわけではない。
それでも。
自分で考えて。
自分で調べて。
自分の言葉で話す。
そんなことが、少しずつできるようになった。
「……私、ちゃんと大人になったなあ」
桃子は独り言のように呟く。
そして。
ふと、窓の外を見る。
地元の町。
昔から見慣れた景色。
高校生だった頃と、同じ場所。
なのに。
そこにいる自分は、もうあの頃とは違っていた。
*
高校生の頃。
桃子が政治や経済に興味を持ったきっかけは、ひどく単純だった。
桐生恒一という、一人の政治家に惹かれたから。
あの人が何を考えているのか知りたかった。
あの人が、何を変えようとしているのか知りたかった。
だから勉強した。
最初は、ほとんど桐生のためだった。
けれど。
いつの間にか。
政治も。
経済も。
地域のことも。
自分自身の未来も。
桐生とは関係なく、考えるようになっていた。
仕事だってそうだ。
地域の人たちと話す。
企業の悩みを聞く。
どうしたら若い人たちが、この町に残りたいと思えるのか考える。
その答えを探すことが、今は楽しい。
「……桐生さんのためじゃないんだよね」
桃子は、ふっと笑った。
この仕事は。
この人生は。
自分自身が選んだものだ。
それが、今の桃子には誇らしかった。
*
そんなある日の帰り道。
駅前を通りかかった桃子は、掲示板に貼られた一枚のポスターに目を止めた。
「……あ」
そこにいたのは。
桐生恒一。
今も変わらない、凛とした表情。
スーツ姿も決まっている。
昔よりも、政治家としての風格が増していた。
「……ふふ」
桃子は思わず笑った。
高校生の頃に見た、あのポスターを思い出す。
「昔の写真、ちょっと写り悪かったんだよね」
実物はもっと格好よかった。
それは、今でも変わらない。
「……今のは、ちゃんと格好いいじゃん」
思わず独り言が漏れる。
けれど。
その笑顔は、ほんの少しだけ寂しくなった。
「……桐生さん」
あれから。
長い時間が経った。
高校を卒業して。
大学へ行って。
川崎で一人暮らしをして。
勉強して。
働いて。
地元へ戻って。
その間。
一度だけ会った。
気持ちも伝えた。
会おうと思えば、会えた。
東京は、決して遠くない。
桐生が今どこで活動しているのかも分かる。
連絡を取ろうと思えば、取れた。
それでも。
会わなかった。
なぜなら。
あの頃の気持ちを、そのまま抱えて大人になりたくなかったから。
ただ「桐生さんが好き」という気持ちだけを、自分の人生の中心にしたくなかった。
自分で生きて。
自分で考えて。
自分の仕事を見つけて。
自分の人生を作る。
それをしてから。
もう一度、彼に会いたかった。
「……今なら」
桃子は、ポスターの中の桐生を見る。
「今なら、会えるかな」
もう。
あの頃の私じゃない。
ただ憧れて追いかけていた高校生でもない。
何かを教えてもらうだけの女の子でもない。
私は、自分でここまで来た。
「……会おうかな」
そう思った。
*
一方。
東京・永田町。
桐生恒一、四十一歳。
政治家になって八年目。
新人だった頃と比べれば、政治家としての経験も格段に増えていた。
国会での議論。
地方での活動。
政策の立案。
人との調整。
何度も壁にぶつかりながら、そのたびに乗り越えてきた。
今では党内でも、将来を期待される政治家の一人になっている。
テレビに映れば、
「次世代のリーダー候補」
「若手のホープ」
そんな言葉が並ぶことも珍しくない。
そして――。
「それにしても、桐生先生って本当に格好いいですよね」
そんな声まで、周囲から聞こえてくるようになった。
四十一歳。
端正な顔立ち。
落ち着いた物腰。
政治家としての知名度も上がっている。
世間では、冗談半分に、
「結婚したい政治家」
などと話題にされることもある。
本人は、そうした話を振られるたびに、
「政治とは関係のない話ですね」
と困ったように笑っていた。
そして。
独身。
当然。
政界の中でも、結婚の話はたびたび持ち上がっていた。
*
その日。
桐生は、党の重鎮に呼び出されていた。
「桐生君」
「はい」
「君も、もう四十一だな」
「そうですね」
「政治家としても、ずいぶん経験を積んだ」
「ありがとうございます」
「この先、もっと上を目指すつもりはあるかね?」
桐生は迷わなかった。
「あります」
重鎮は頷いた。
「そうだろうと思った」
そして。
少し間を置いて。
「ならば、そろそろ身を固めたほうがいい」
桐生は黙って聞いていた。
「政治の世界では、結婚もまた一つの力になる」
「……」
「君にふさわしい女性を紹介したい」
相手の家柄。
政界とのつながり。
人脈。
家同士の関係。
重鎮は、丁寧に説明していく。
悪意があるわけではない。
むしろ本気で桐生の将来を考えているのだろう。
「君がこの先、本気で頂点を目指すなら――」
最後に。
「一度、会ってみてはどうかね?」
桐生は、すべて聞き終えるまで口を挟まなかった。
そして。
「お心遣い、感謝いたします」
一礼。
「ですが、お断りさせていただきます」
重鎮が目を細める。
「……理由を聞いても?」
桐生は、ほんの少しだけ視線を落とした。
そして。
静かに答えた。
「私には、すでに心を決めた女性がおりますので」
「……ほう」
重鎮の表情が変わる。
「誰だ?」
桐生は答えなかった。
「いずれ、ご紹介します」
それだけ言って、席を立った。
*
建物を出る。
秘書が駆け寄ってきた。
「先生、この後の予定ですが――」
「今日はもういい」
「え?」
「少し、行くところがある」
「……どちらへ?」
桐生は答えなかった。
ただ、タクシーを止める。
車に乗り込む。
そして。
「――東京駅へ」
そう告げた。
*
東京駅。
桐生は新幹線に乗り込んだ。
行き先を誰にも告げることなく。
ただ一人。
静かに車窓を眺めていた。
*
その頃。
桃子は、自宅で仕事の資料を整理していた。
明日の会議の準備。
メールの確認。
いつもの仕事。
ふと、スマートフォンを見る。
ニュースが更新されていた。
そこに、桐生の名前があった。
「……桐生さん」
桃子は、画面を見つめる。
胸の奥が、少しだけ騒がしくなる。
「……会いたいな」
今度こそ。
連絡してみようか。
そんなことを考えた、そのとき。
――ピンポーン。
「……?」
インターホンが鳴った。
桃子は玄関へ向かう。
「はーい」
扉を開ける。
「…………」
言葉が出なかった。
そこに。
桐生恒一が立っていた。
「……久しぶりだね」
「…………桐生、さん?」
「うん」
「え……なんで……?」
「君に会いに来た」
あまりにも真っ直ぐな答え。
桃子の頭が、一瞬で真っ白になる。
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
その声を聞きつけて、奥から両親が出てきた。
「桃子、どうしたの?」
「誰――」
そして。
桐生を見た瞬間。
「……え?」
「……桐生先生?」
桃子は両手をばたばたさせる。
「ち、違っ……違わないけど! いや、そうじゃなくて!」
何が違うのか、自分でも分からない。
桐生は、そんな桃子を見て、少しだけ笑った。
そして両親へ、丁寧に頭を下げる。
「突然お邪魔して申し訳ありません」
「い、いえ……」
父親も母親も、完全に状況についていけていない。
そんな中。
桐生は桃子を見る。
まっすぐに。
逃げずに。
そして、静かに言った。
「桃子さん」
「……!」
その呼び方に、桃子の胸が大きく鳴った。
「私が、この国の頂点を目指すなら――」
桐生は、一度だけ息を整える。
「君の存在が不可欠だ」
桃子の目が見開かれる。
そして。
「私と、結婚してください」
時間が止まった。
*
「…………」
「…………」
「…………」
桃子も。
両親も。
誰も言葉が出ない。
やがて。
桃子の目に、涙が浮かんだ。
「……はい」
小さな声。
「……私で、いいんですか?」
「君がいい」
即答だった。
桃子は泣きながら笑った。
「……はい」
もう一度。
「はい……!」
そして。
桃子は桐生へ駆け寄った。
抱きつく。
桐生は少し驚いたあと、静かに桃子を受け止めた。
その姿を見ながら。
両親は、ようやく状況を理解し始めていた。
――娘が。
あの頃からずっと好きだった政治家と。
本当に結婚するらしい。
*
しばらくして。
少し落ち着いた桃子は、ふと顔を上げた。
「……桐生さん」
「うん?」
「私、本当に……お嫁さんになるんですか?」
「そのつもりで、お願いしたんだけどね」
「……」
桃子は数秒考えた。
「……そっか」
笑う。
嬉しい。
嬉しいけれど。
なんだか。
胸の奥が、すごく静かだった。
高校生の頃は。
ただ、あの人の隣に立ちたかった。
そのために勉強した。
自分を変えた。
そして今。
私は、自分の人生を歩いている。
仕事も好き。
自分の生き方も好き。
そんな私が。
その先で。
この人と一緒に歩いていきたいと思った。
だから。
これは、誰かに決められた人生じゃない。
私自身が選んだことなのだ。
桃子は、もう一度笑った。
「……よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は静かに向き合った。
*
――その日のうちに。
桐生は桃子の両親に改めて挨拶をすると、帰っていった。
桃子は玄関先で、その背中を見送った。
「……」
遠ざかっていく姿を見ながら。
胸の奥が、まだふわふわしている。
まさか。
本当に。
結婚するなんて。
*
――その夜。
桃子は、自分の部屋で一人になった。
「…………」
ベッドに座る。
そして。
「…………あれ?」
何かに気づいた。
「……私たちって」
考える。
「……付き合ってないよね?」
高校生の頃。
告白した。
でも、桐生は応えなかった。
大学三年生。
再会して。
桃子は改めて好きだと伝えた。
桐生は「少し時間をくれ」と言った。
その後――
三年間。
一度も会っていない。
そして今日。
突然、プロポーズされた。
「…………」
桃子は、ゆっくりスマートフォンを手に取る。
少しだけ迷って。
そして。
電話をかけた。
――プルルル。
「……はい」
聞き慣れた声。
「桐生さん!」
「なんだい?」
「私たち……」
一拍。
「付き合って、ないですよね?」
「…………」
「…………」
「……そうだね」
「ですよね!?」
桃子は頭を抱えた。
「えええええええ!?」
桐生も少し考える。
「……結果的には、そういうことになるのかな」
「いやいやいやいや!」
桃子は叫んだ。
「交際期間ゼロで結婚って!」
「……交際期間は、ゼロだね」
「認めるんですか!?」
「事実だからね」
「そこ冷静に言わないでくださいよ!」
桃子は思わず笑ってしまった。
涙が出るほど笑った。
そして。
ふと、胸の奥で思う。
――まあ。
いいか。
高校生の頃から。
ずっと好きだった。
離れていた時間も。
勉強した時間も。
仕事をした時間も。
自分の人生を歩いた時間も。
全部、ちゃんとここにつながっている。
だから。
これは、交際期間ゼロでも。
決して、何もなかった二人の結婚じゃない。
積み重ねてきたものは。
ちゃんと、ここにある。
桃子は笑った。
「……交際0日婚、かぁ」
そして。
「……私らしいかも」
そう呟いた。
窓の外には、静かな夜。
その向こうには、これから二人が歩いていく未来が広がっている。
――それは、恋人としてではなく。
夫婦として始まる未来だった。




