第3話 放課後ボランティア
「今日から、よろしくお願いします!」
事務所のドアを開けた私は、ぺこっと頭を下げた。
「おう、ももちゃん。今日も来たね」
「はいっ!」
スタッフさんが笑って迎えてくれる。
それだけで、胸がふわっと軽くなる。
ここに来ると、私はちょっとだけ特別な場所にいる気がした。
……まあ、理由は言うまでもない。
桐生さんがいるから。
「白石さん、学校は終わったの?」
「はい! 今日はちゃんと終わってから来ました!」
「そう。それならよかった」
桐生さんは、いつもの落ち着いた声でそう言った。
それだけ。
たったそれだけなのに。
(……声、好き……)
私は危うく、その場でにやけそうになった。
危ない。
ここは政治事務所。
推し活の現場ではない。
……いや、私にとってはほぼ推し活なんだけど。
今日の私は、少しだけ対策をしてきた。
学校から直接ここへ来たことが、あまり目立たないように。
制服の上にはコートを羽織っている。
別に、悪いことをしているわけじゃない。
ただ、
「女子高生が毎日のように政治事務所に通ってる」
なんて知られたら、なんとなく目立ちそうだから。
だから、ちょっとだけ隠している。
それくらいの感覚だった。
「じゃあ、まずこれをお願いできるかな」
渡されたのは、書類の束だった。
「はい!」
封筒を分けたり、資料を並べたり、チラシを数えたり。
簡単な作業ばかりだけれど、私は一つひとつ真剣に取り組んだ。
「あっ……すみません!」
一枚だけ向きを間違える。
「大丈夫、大丈夫。最初はそんなもんだよ」
「次は絶対間違えません!」
「頼もしいねえ」
そんなやり取りをしながら、少しずつ仕事を覚えていく。
お茶を出す。
書類を整理する。
封筒をそろえる。
ポスターや資料を運ぶ。
そして、ときどき桐生さんの姿を見る。
……いや。
最後のが一番大事。
(今日もかっこいい……)
仕事をしている横顔。
誰かと話している姿。
資料に目を通している真剣な表情。
全部が、駅前で初めて見たときと同じだった。
いや、むしろ。
近くで見るようになったぶん、もっと好きになっている。
そんな私の視線には気づいているのかいないのか。
桐生さんは、ふとこちらを見ると、
「白石さん、ありがとう」
と声をかけてくれた。
「い、いえっ!」
心臓が跳ねる。
(仕事できる女として認められてる……!?)
ただお礼を言われただけなのに。
私の中では、また一つ勲章が増えた。
そんなある日のことだった。
「でも、女子高生がこうして毎日のように来てるのって、外から見たらちょっと目立つかもしれませんね」
スタッフさんが、何気なくそう言った。
私は思わず固まった。
……やっぱり?
桐生さんも少し考えるように黙った。
「そうですね」
そして、私を見る。
「だから、白石さん。学校を最優先にしてください」
「え?」
「ここに来るために、学校を休んだり、勉強の時間を削ったりする必要はありません。無理して来なくても大丈夫ですから」
「……でも」
もっと来たい。
もっとここにいたい。
そう言いかけた私に、桐生さんは穏やかに続けた。
「政治のことに興味を持ってくれるのは、私は嬉しいですよ」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
「でも、今のあなたにとって一番大切なのは、学校でしょう」
……そういうところなんだよなあ。
この人。
自分のところに来てくれる人を、ただ喜ぶだけじゃない。
ちゃんと、その人自身のことを考えている。
「……はい」
私は小さくうなずいた。
「ちゃんと、学校も頑張ります」
「うん。それでいい」
桐生さんが笑った。
ほんの少しだけ。
それだけで、また嬉しくなる。
帰り際。
「ももちゃん、これ忘れ物」
スタッフさんが私を呼び止めた。
「あ、ありがとうございます!」
振り返る。
その少し離れたところで、桐生さんがこちらを見ていた。
「気をつけて帰ってください、白石さん」
「はい!」
結局、今日も「ももちゃん」ではなく、「白石さん」。
それなのに。
なぜだろう。
私は少しだけ、幸せだった。
駅へ向かいながら、ふと思う。
私、桐生さんのことばかり見ていたけど。
桐生さんが話していること。
この人がやろうとしていること。
それを、もっと知りたい。
政治って、なんなんだろう。
この人は、何を変えようとしているんだろう。
「……ちょっと、勉強してみようかな」
口に出してから、自分で少し驚いた。
最初はただ、
――もう一度、あの人を見たい。
それだけだった。
でも今は。
ほんの少しだけ。
――あの人が見ているものを、私も見てみたい。
そんな気持ちが生まれていた。
その頃の私は、まだ知らなかった。
放課後に制服を隠して通ったこの事務所が。
そして、何気なく積み重ねていたこの時間が。
いつか、私と桐生さんの人生を大きく揺らすことになるなんて。
もちろん、そのときの私は。
そんな未来のことなんて、何も知らない。
ただ――
明日も、ここに来たい。
そう思っていた。




