序章最終話 『決戦』
これにて、序章終了。
黒い土、踏みしめる。
何度も踏みしめ、マウンドを感じる。
私は今、高校野球の土を踏みしめ、マウンドに立っている。
深呼吸をする。
そして、辺りを見回す。
一塁手はモブ、二塁手もモブ、遊撃手には神宮寺エイジ先輩、三塁手はモブ、以下省略。
捕手には果てしない情報量を誇る吉川大先生。
野球は一人じゃない。マウンドで投げる私にはたくさんの仲間がいるのだ。
心から感謝し、空を見上げた。晴天である。天まで味方に付けたか。
もう一度深呼吸して、キャッチャーミットを視認する。
私はあそこに目掛けて投げるだけ。正確に投げるだけ。ただただそれだけ。
燃えている、今、猛烈に激烈に強烈なまでに燃えている。表情を作るのが苦手な性質なので、顔には出ないが確実に燃えている。
戦う準備は整った。後はプレイボールの声を待つだけ。野手がバッターボックスに立つだけ。
士気を上げる事は最優先事項に等しい。しかし、その役目は大概先輩が受ける。そればかりではつまらないだろう。だから、柄でもない事をしてみようと思う。
手を広げ、深く息を吸う。三秒ほど空を見上げる。そして、味方の方に視線を向ける。
「打たれた時はお願いします! 打たせはしませんが、万が一、打たれた時は皆さん、助けてください! 私たちの力で上級生に勝ってしまいましょう!」
私としたことが、高らかと宣言してしまった。辺りを見回すと、先輩は先にやられたな、という表情である。後の皆さんも気合十分である。
女房役の吉川大先生はニヒルに笑っている。この男、全てお見通しみたいな顔しやがって。
バッターボックスに野手が立った。一番打者は確かエリオット先輩である。
審判は鬼監督が務める。口を開けば、高校野球が始まるのだ。
人生初の高校野球が今、始まった。
「プレイボール!」
両腕を振り上げる。
足を上げ、力いっぱい踏み込む。
全ての神経を指先一点に集中させる。
右腕を振りかぶる。
白球が放たれた。
高校野球、初めての一球は渾身の一球で、キャッチャーミットに華麗に収まった。
審判の判定は――――ストライク。見事なスタートダッシュである。
次はストライクからボールになるフォーク――――当然の如く、判定はボールだ。
どうやら、今日は調子がいいらしい。構えた所へ九割、いや八割方投げられそうだ。
変化球のキレは申し分ないだろう、多分。
次は内角高めにストレート――――これはファール。吉川大先生の言った通りカットして球数を増やすつもりなのだろう。
そして、外へ逃げるカーブ――――判定はボール。ここまで完璧な流れである。
最後は……渾身のストレートを目一杯外角低めに投げる!
エリオット先輩のバットが回り、快音が響いた。
これが高校野球初めての奪三振となった。内心、非常に嬉しい。無意識に小さくガッツポーズしてしまっているぐらいには嬉しい。
モブ二番打者をツーストライクワンボールで追い込み、シュートを投げゴロアウト。これでツーアウトだが、油断出来ない。
最も畏れられている打者、木原キャプテンと対峙しなければならないのである。
より集中して投げるのみ。これに尽きる。
一球目は、内角高めのストレート――――これでファールを誘う算段だ。よし、まずは現実になった。
そして、外に逃げるスライダー――――判定はボール。これは通用しないようだ、どう考えても視られている。
ギリギリでストライクになるフォークを低めに投げ、追い込む算段だが通用するだろうか。投げてみなければわからん!
ベルトより下で内角にストレートを半個分ずらして投げる。先生の想定ならこの球は振らない。
これでカウントツーストライクツーボールになった訳だが、ここで決める。
疑いは確信に変わり、自信になった。この世の中に完璧超人はいないのだ。そう、木原氏はフォークに途轍もなく弱い。
データによる打率は高い。圧倒的に高い。対左打者の打率も高い。得点圏打率も高い。しかし、欠点は存在する。
フォークが来ると滅多に打つ事が出来ないのだ。ゴロか三振が多い。これは利用するしかない、と大先生は踏んだのだろう。
想定だと、ボールになるフォークを振る。
これで決める! 私の手元から白球が離れていく。キャッチャーミット目掛けて飛んでいく。バットは空を切り、快音だけが残った。
――――我らバッテリーの勝利である!
木原氏は相当悔しかったようでバットを叩き付けた。こちらを睨んでいる。まさかフォークに弱いのを知っているとは思うまい。
一回の表、一年生・中学生軍が見事に抑えた。
そして、物語は急転直下、九回の表に突入する。
誰もが投手戦を予想していただろう。しかし、蓋を開けてみると現実はそれとはかけ離れていた。
まさかの相手投手が大炎上、結果四失点。先輩ヒット、大先生ヒット、モブヒット、まさかの鶴神選手満塁本塁打。
絶好球が来てしまったのだから仕方がなかろう。ど真ん中への棒球を見逃す程清い人間ではないのだよ。
それにしても本塁打を打ったのは久しぶりである。忘れかけていた感覚を取り戻させてくれた。有難う。
私は称賛したい。モブなどと呼んでいたあの頃の私を葬り去りたい。尊敬の意を込めて、新橋先輩と呼ぶ事にしよう。
炎上してはならないと模範になってくれたに違いない。優しいお人だ。
だからどうということはない。
そんなことは至極どうでもよいことであって、事実は何も変わりはしないのだ。
六回に捕まり二失点という失態を晒してしまったが、それ以上打たれることはなく、二失点に留まった。それ以降は何とかして持ち堪えて今に至る。
鶴神善幸、六回で一度崩れる男である。なぜかはわかっていないので、解明されることはない。
そして、私もなぜ確実に一度崩れるのか分かっていない。気が緩む、のだろうか。無意識に崩れてしまうのだ。
無意識で無自覚なまでに急に崩れてしまうこの癖を何とかしたいのだがどうしろと言うのだ。
改善策は今のところ見つからないし、自覚した所で生理現象のようにやってくるので防ぎようがないのである。こればかりは点を取ってもらうしか策はない。
つまり、何が言いたいのかというと、序盤で四点の援護を貰った私が負ける可能性は零に等しいということだ。
四点以上の援護を貰った私は統計学的に負けるなど有り得ない!
九回表を迎えて早五分。上級生側がまさかの状況に緊急ミーティングを開いたのである。
その間、我々は最後をどう締めるかを考えている。
慢心せず油断せず気だるく投げず意識を高めればどうにかなるだろう。基本中の基本ではあるが、確認すべきことである。
「吉川大先生、最終回はどう終わらす気で?」先程からずっとしかめっ面で何かを考えている様子で、気になってしまったから聞いてみた。
「一番からの好打順、勿論、三人で締めますよ」その大先生は、頼り甲斐のある顔をしていた。大船に乗っかれば大丈夫だろう。
「守備は僕たちに任せてちょうだい。どんどん打たせちゃえばいいんだよ。頼れる仲間がいるんだからさ」頼り甲斐のある先輩がいて頼もしい。
「あれま、上級生たちはまだミーティングをしているのですか。こちらはもう終わりましたよ。早く再開しましょうぜ」大先生が煽る。
「ちょうど終わったところだ。俺らが負ける訳ねぇだろ! ぶっ潰すぞテメェら!」鬼監督はどうしてこうも怖いのか。そうか、怖いから鬼なのか。
「私は全てを背負っている! 全力で華麗に勝たせてもらおう!」味方全員の思いを背負っているこの私が負けていいはずがあるまい。
「九回の表、始めるぞ! 負けたら承知しねぇから覚悟しとけよ」鬼監督が凄んだ。そして、ミーティングは終わりを告げ、局面は最終を迎えたのであった。
いくら凄んだところで、我々の勝ちは確定である。
なぜならすこぶる調子がいいからだ。
これ以上打たれる気はしない。根拠はないが、打たれる気はしない。そんな感じ。
一人も打たせない! そんな自信もあるぐらいにアドレナリンが異常なまでに出ている。
「漢、鶴神善幸……ここは三人で終わらす!」盛大に啖呵を切った。そして、同時に自分も追い込んだのだ。これで打たれては示しが付かない。
エリオット先輩を迎えて始まった九回の表。
典型的なオーバースローから白球が放たれた。
全神経を指先に集中させたストレートを打者の内角に放り込む。
乾いた音と同時にバットを振る音がグラウンドに鳴り響いた。
まずはワンストライク。
九回まで構えた所に針の穴を通すぐらいに正確なコントロールを維持出来ているとはどうやらすこぶる調子が良いらしい。
「終盤に来て体力が有り余っております」とは断言出来る程、体力は無いのだがアドレナリンのお陰で投げ切れそうである。
驚いた事に次に構えたのはど真ん中である。おいおい大先生、打たれても知らんぞ。
現時点でもっとも有効な球がストレートという事か!
ただただ、渾身のストレートを投げるのみ!
結果、振り遅れかけてファールになった。カウントはツーストライク。
先程聞いたリードだとここから球数が多くなるのだが、今の状態なら何とかなるだろう。いや、是が非でも何とかしようではないか。
内角高めへストレートを放り込む。予定ではファール。
投げた白球はバットの先にかすり、結果はファール。
外角に明らかなボール球を投げる。
これは振るはずがない。カウントはツーストライクワンボール。
内角に明らかなボール球、体には当てない程度の。
これも振る訳がない。カウントはツーストライクツーボール。
これを決められるかで次が決まる。終わらすのは私だ。
低めぎりぎりにボールになるストレートを投げる。
これも振る訳が無い。振るようなチームでないことを祈る。結果、見極められツーストライクスリーボール。
三人で終わらすと啖呵を切った以上、三人で終わらせないのは漢ではない。義理と人情を重んじてこそ、漢である。
「これで決める!」私は叫んだ。
どうやら思っていた球と違ったようで、エリオット先輩は驚愕している。しかし、驚愕したところで私の勝ちは変わらない。
ストレートを意識させた結果、バットを早く振らせることに成功したのだ。
決め球のフォークボールである。精度は落ちていないようで何より。
見事なまでに策に嵌った。誰も他の球種を投げないとは言っておらんのだよ。
そして、ボールはミットの中に。
恍惚な表情を隠しきれない私は、ガッツポーズも隠しきれなかった。ものすごく鬼のような顔をして睨み、先輩はベンチへと去っていった。
――――まずは一人。
これで後二人!
内から漲るアドレナリンを全面に出しこのモブを全力で抑えてやろう!
敬意を表して、速球一つで打ち取ってやる!
全神経を指先に注ぎ、白球を放つ。
この一球に全てをかける!
「うおらッ!」と雄叫びを上げた。
白球が三塁手のグラブに納まる。この対決――――気迫の勝利である。
漫画でよく見かける瞳が燃え滾る描写があるだろう、まさにその気分だ。
しかし、ここは現実世界なので瞳は燃え滾っていない。少し残念である。
気迫で勝ったところで、気を緩めてはいけないのだ。
警戒してもしたりない三番打者、木原主将を抑える事で我々は勝利を手に入れる。
四番打者まで回すと面倒だから仕方が無い。そろそろ気力で補えなくなってしまう。
先程の対決で体力を使い切ったといっても過言ではないし、もう一人抑えるのは非常に難しい。
ライフゲージで表すと残りわずか1。真の気迫で打ち取るしかなかろう。
三球で終わらせよう。
なぜならそれ以上体力が持たないのだ。
中学生活で培ってきた野球技術を全て注ぎ込み、気迫で勝つ!
吉川大先生に三本の指を向け、意思を伝える。頭の回転が速い男だから伝わるだろう。
全身全霊屍になろうが構わない……というのは大袈裟だ。
両腕を振り上げ、左足を地にしっかり根付き、踏み込む。
そのまま右腕を振り抜く。
「うおらァ!」と雄叫びを上げる。
雄叫びが響き渡る。
体から無駄な力が抜けていっているのが分かる。手に取るようには分からないが。
この三球に全てを乗せよう!
一球目はなんとびっくり、吉川大先生よろしくキャッチャーミットに華麗なまでに収まった。
漲る力が最高潮のようだ。クライマックスは今、迎えている!
投げる度に高まるフラストレーションを抑える必要は最早皆無。出し切る!
二球目もなんとびっくり、吉川大先生よろしくキャッチャーミットに華麗なまでに収まる……のは流石に簡単すぎる。
渾身の中の渾身には変わりないのに当ててくるのである。そんな、打者が彼だ。
三球勝負だが、確実に当ててくるだろう。理解していても避けきれない事実である。現実を変えるのは非常に難しい。
その通りに進むのなら、最大級で立ち向かえばいい。最高潮のフラストレーションで立ち向かえ、諸君。
この手で勝利を掴むのだ!
「うおらァ!」これが最後の雄叫びである。もう力は残っていない。
血と汗と涙の結晶は、打者に真っ直ぐ飛び、バットに当たった。
私のところまで飛んできて、グローブをはめた手を伸ばしたと同時に倒れこんだ。
体力の限界である。
そして、意識が遠のいていく。
薄れ行く意識の中に賑わいを感じた。
何を騒いでいるのだろう。
目も霞んできて何が何だか把握し難い。どうなっているのだ、諸君、何を騒いでおる。
幻聴が聴こえてくる始末。
どうやら天から迎えが来たようだ。
もしや、迎えが来た訳ではないのか。
気になって、顔を向けたその先に映ったのは、悔しがる主将の姿と私の下へと駆け足で向かってくるチームメイトであった。
グローブをはめた左手に何かを感じる。
それを確かめる為に視線を移す。
手を開いた瞬間、全てが繋がった。
理解するのに時間は必要なかった。
理解した途端全ての力が抜けていった。起き上がれそうにない。
「すまないが、誰か起こしてくれ」自力で起き上がれない程、体力を使ったのかと実感した。
吉川大先生の手を借り、起き上がる。周囲を見渡す。ふと思う、これが勝者の景色か。
「勝ったぞ! 上級生に勝った!」自然に叫んでしまい、湧き上がる熱意と感情を抑えられなかった。
群がるチームメイト。
零れる汗。
絶えぬ笑顔。
人生で初めて胴上げをされたのであった。
高く、高く、天まで飛んでいけそうな気分、まさに絶景。
「全員、礼!」
「ありがとうございましたー!」
両雄、深々と頭を下げ、この試合は終わりを告げた。
初対面で喋り倒し、初対面で勝負を仕掛け、去り際に鬼のような形相で睨んだエリオット先輩に爽やかな笑顔が戻っている。
木原主将は謎の笑みを浮かべていて恐ろしい。
三振に終わった大泉先輩も最高の笑顔でどっしりと構えている。これぞ、四番打者。
男気溢れる筋肉野郎であった。これは最大級の褒め言葉なので勘違いしないでいただきたい。
差し出された手を取り、熱い握手を交わしたが半端ない握力だったのを忘れはしない。
鬼の木原と呼ばれているという噂は事実のようだ。
笑顔の鬼は非常に恐ろしい。
そして、もう一人――――笑顔の鬼が。
歩み寄る鬼ッ!
勇み足の鬼ッ!
グラサン越し笑顔の鬼ッ!
泣き顔の鬼ッ……?
何故、泣いておる。
怒りの感情以外あった事に驚いている場合ではなさそうだ。
殺されてしまうのか、鶴神善幸。ここで人生を終えるのか。それだけは嫌だなあ。
今にも襲いそうな顔をしている!
しかしそれは杞憂に終わった。普通に考えれば当然か。
「鶴神……オメェ漢だ、漢。軟弱野郎だと思ってた俺を殴ってくれ」
「じゃあ、遠慮なく殴りますよ」
「殴ってくれ! 俺は負けた」
「歯ァ喰いしばれェッ! うおらァ!」
宙を舞う、鬼監督。
「……おい、コラ」
「何でしょう」
「何でしょうじゃねェ! 本気で殴るやつがいるかボケェ!」
……面倒な鬼がいるもんだ。殴れと言ったじゃないか。だから殴ったじゃないか。
と思ったが事を面倒にしたくないので、素直に謝っておこう。
「申し訳ない」
「分かればいいんだよ。漫画の世界でも少しは手加減するだろうが!」
「全力で殺るのが礼儀だと思っておりました。申し訳ありません」
漫画の世界では手加減するのか。それは知らなかった。漫画好きなら全力で相手するのが最低限の礼儀だと信じていたが、まさか違うのか。
「おいおい、まさか殺すつもりだったのかよ!」
「全力で殴って殺さないように頑張る方が難しいです。それが鶴神流奥義でして」
「体術極めてますアピールなんか知らんわボケ!」
「すいません。それとこの漫才いつ終わりますかね?」
「漫才なんか始めたつもりねェぞ。ふざけるのも大概にしろ!」
「もういいよ。うおらァ!」
チィッ……二度目は流石に避けるか。反射神経いいんだな、この監督。
「教師に殴りかかるやつがいるかああん!?」
何を言っているんだこの人は。最初に殴れと言ったのはアンタじゃないか。支離滅裂だよ。
「お二人さんいつまでそんなことしているのかな」やれやれと両手を広げ、首を振るエリオット先輩がそこに居た。
「ずっと見ていたのなら止めてくれればいいものを」
「だって、面倒じゃないか。そうだ! この野球部には変な伝統があって監督が試合後にラーメンを奢ってくれるんだよ!」と、先輩は不敵に笑った。
「嘘だったら貴様の命は保証しかねるがよろしいか?」嬉しさの余り、本性が暴かれる所だった。
「ああ、そうだぜ。俺はラーメンがこの世で一番好きなんだ。だから、祝杯にラーメンを食べる」監督の目が輝いている。サングラスを外しているからかとんでもない輝きだ。
「奇遇ですね。ラーメンは至高の食べ物です!」監督に賛同しかないぞ。
「流石は俺の見込んだ漢だ! よし、テメェら上級生を抑えた祝いだ! いつもの所行くぞ!」鬼監督と謂われているようだがサングラスを外すと、綺麗過ぎる程に澄んだ瞳をしておられる。
「私は味に煩い。これだけは言っておこう」
「なーに、にやけながら言ってんの」エリオット先輩に突っ込まれてしまった。
この喜びを隠す為にわざと釘を刺したのだが、どうやら隠しきれていないらしいな。
全国のラーメンを食べ歩く為に生きていると言っても過言ではないこの私が心躍らない訳がなかろう!
海星大学附属野球部御一行と私、吉川大先生は全速力で目的地まで駆け抜けた。
勝利の味補正もあったかもしれないが、そこで食べたラーメンが究極的に美味しかったのは別のお話。
こうして中学生活に花を添え、波乱の高校野球開幕は無事終了したのであった。




