『帰還者の証言』
「兄ちゃん、帰ってきたぞ。」
エレノアの瞳から。
大粒の涙が零れ落ちた。
「…………。」
声が出なかった。
目の前にいる男を、ただ見つめることしかできない。
十三年前より遥かに大きくなった身体。
太くなった腕。
日に焼け、いくつもの傷が刻まれた顔。
八歳だった頃、毎日のように後ろを追いかけていた兄とは、まるで違う。
それでも。
分からないはずがなかった。
笑った時に少しだけ片方の口角が上がる癖も。
自分を見る時の優しい目も。
何一つ。
変わっていない。
「……お兄……ちゃん……?」
「ああ。」
ジェフは、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「遅くなっちまったな。」
「…………。」
エレノアの唇が震える。
一歩。
ゆっくりとジェフへ近づいた。
もう一歩。
手を伸ばせば触れられる距離まで来る。
それでも。
まだ信じられなかった。
エレノアは震える手を伸ばし、ジェフの胸へそっと触れた。
「……いる。」
「ああ。」
「ほんとに……いる……。」
「だからさっきからそう言ってるだろ。」
「…………。」
温かい。
幻じゃない。
夢じゃない。
何度も夢の中で会った兄は、触れようとすると必ず消えた。
目が覚めれば。
そこには誰もいなかった。
けれど。
今は違う。
「……っ。」
エレノアの顔が歪んだ。
次の瞬間。
――バシンッ!!
乾いた音が戦場へ響いた。
ジェフの顔が横へ向く。
周囲の騎士たちが一斉に息を呑んだ。
「だ、団長……?」
ジェフは頬へ手を当てながら、ゆっくりと妹を見る。
「……痛ぇな。」
「十三年……。」
「…………。」
「十三年だよ……!」
エレノアの声が震える。
「お兄ちゃんがいなくなってから、十三年も経ったんだよ……! 一年待っても帰ってこなくて、二年待っても帰ってこなくて……五年経っても、十年経っても……!」
涙が止まらない。
「みんな言ったよ! 空に送られた人は帰ってこないって! もう死んでるって! いつまでも待ってたら前に進めないって……!」
「…………。」
「でも、無理だった……!」
エレノアはジェフの服を掴んだ。
「忘れられるわけないじゃん……! 私のお兄ちゃんなんだよ……!」
「……エレノア。」
「あの日のことだってずっと覚えてる! もっと強く引っ張ればよかったとか、もっと泣けばよかったとか、大人たちに噛みついてでも止めればよかったとか……何回考えたか分からない!」
「…………。」
「八歳だったんだぞ、なんて言われても納得できなかった! 八歳だったから何もできなかったなんて、そんなの……!」
声が掠れていく。
「そんなの、どうでもよかった……!」
エレノアは拳を握る。
そして。
もう一度ジェフの胸を叩いた。
今度は。
弱く。
「……遅いよ。」
「…………。」
「遅すぎるよ……お兄ちゃん……。」
ジェフは、しばらく何も言わなかった。
妹の拳を受け止めることも。
泣くなと言うことも。
しなかった。
ただ。
十三年間吐き出せなかった言葉を、全部受け止めるように立っていた。
そして。
エレノアの頭へ、大きな手を置いた。
「……悪かった。」
「…………。」
「好きで十三年も帰らなかったわけじゃねぇ。けど……待たせたのは事実だ。」
エレノアが顔を上げる。
「空じゃ色々あった。何度も死にかけたし、帰る方法なんて長いこと分からなかった。それでも……。」
ジェフは少しだけ笑った。
「ちゃんと帰ってきた。」
「…………っ。」
「だから。」
頭を撫でる。
十三年前。
泣いている妹へ何度もそうしたように。
「もう、そんな顔すんな。」
「誰のせいだと思ってるの……。」
「俺だな。」
「……馬鹿。」
「ああ。」
「大馬鹿。」
「ああ。」
「…………お兄ちゃん。」
「ん?」
エレノアは。
とうとう耐えきれなくなった。
ジェフの胸へ飛び込む。
「おかえり……!」
「…………。」
「おかえり、お兄ちゃん……!」
ジェフの目が。
ほんの少しだけ揺れた。
十三年。
どれだけ長い時間を空で生きても。
この言葉だけは。
一度も聞くことができなかった。
ジェフは妹の背中へ腕を回した。
「……ああ。」
強く。
けれど壊さないように。
「ただいま、エレノア。」
十三年間。
止まっていた兄妹の時間が。
ようやく。
ほんの少しだけ動き始めた。
だが。
ここは戦場だった。
「…………。」
ジェフは妹を抱きしめたまま、視線だけを動かした。
王国騎士団。
反空送り騎士団。
どちらも武器を構えたまま。
そして中央には。
鉄格子に囲まれた馬車。
その中で怯える子供たち。
「……エレノア。」
「……なに?」
「続きはあとだ。」
「…………。」
エレノアもすぐに理解した。
涙を腕で拭い。
一歩、兄から離れる。
「ああ。」
ジェフが笑った。
「いい顔になったな。」
「今それ言う?」
「ガキの頃よりずっとマシだ。」
「……あとで絶対殴るから。」
「ガハハ……。」
ジェフは笑いかけ。
すぐに口を閉じた。
今は。
笑っている場合ではない。
「まず、こっちを片付ける。」
ジェフは両陣営の間へ歩いていく。
「お兄ちゃん?」
「大丈夫だ。」
エレノアを振り返る。
「俺が話す。」
ジェフは街道の中央で足を止めた。
右に王国騎士団。
左に反空送り騎士団。
そして。
「双方、一度武器を下ろしてくれ。」
「…………。」
誰も動かない。
王国騎士団長が険しい目を向ける。
「貴様がエレノア・フォン・アルマンの兄であることは理解した。だが、それと我々の任務は別問題だ。我々は王命により、空送り対象者を転送施設まで護送している。」
「ああ。」
ジェフは頷いた。
「分かってる。」
「ならば道を開けろ。」
「それは無理だ。」
「何?」
「勘違いするな。俺はあんたらと戦いたいわけじゃねぇ。」
ジェフは騎士たちを見る。
「命令があってここにいるんだろ。あんたら一人一人が、このガキどもを憎くて空へ送ろうとしてるわけじゃねぇ。それくらいは分かる。」
「…………。」
「だから、こっちも剣を収める。」
ジェフはエレノアを見る。
「エレノア。」
「……。」
「部下に武器を下ろさせろ。」
「でも――」
「俺を信じろ。」
短い言葉だった。
エレノアは兄を見つめる。
十三年間。
夢にまで見た兄。
その兄が。
今、自分の目の前に立っている。
「…………分かった。」
エレノアは振り返る。
「全員、武器を下ろして。」
「団長!」
「下ろして。」
「……はっ。」
反空送り騎士団が。
一人。
また一人。
剣を収めていく。
それを確認したジェフは、再び王国側へ向いた。
「こっちは下げた。」
「…………。」
「そっちも頼む。」
騎士団長はすぐには応じない。
「なぜ我々が反逆者の要求に従わねばならん。」
「エレノアの要求じゃねぇ。」
ジェフは自分の胸を指差した。
「俺からの頼みだ。」
「貴様に何の権限がある。」
「ない。」
即答だった。
「…………。」
「王国騎士に命令できる身分も権限もねぇ。十三年前まで、俺はただの鍛冶屋のガキだった。」
そして。
「ただし。」
ジェフの表情が変わった。
「俺は十三年前、あそこに乗せられてるガキどもと同じように空へ送られた。」
騎士団長の目が細くなる。
「そして。」
一拍。
「空の大陸から、生きて帰ってきた。」
ざわっ。
騎士たちが騒めいた。
先ほどから断片的には耳にしていた。
だが。
本人の口からはっきり告げられれば。
その意味はまるで違う。
「そんな……。」
「生還者……。」
「空から帰った……?」
ジェフは続ける。
「それだけで、今回の空送りを一旦止める理由にはならねぇか?」
「…………。」
「十三年間、この国じゃ空へ送られた人間は帰らないってことになってたんだろ?」
「……そうだ。」
「なら、俺がここにいる時点で、今までの前提が一つ崩れた。」
騎士団長は答えない。
「俺には空で何が起きているのか話せる。」
「…………。」
「どんな魔物がいるのか。送られた人間がどうやって生きてるのか。何人くらい生きてるのか。帰ってくる方法があることもな。」
エレノアの目が見開かれた。
だが。
今は口を挟まない。
「これはもう、あんたらがこの場で判断する話じゃねぇだろ。」
騎士団長の眉が動く。
「……何が言いたい。」
「今日の空送りは延期。」
ジェフは馬車を指差した。
「子供たちは一時的にこっちで保護する。」
「認められん!」
「最後まで聞け。」
声は荒げていない。
だが。
騎士団長は。
なぜか口を閉じた。
「逃がすんじゃねぇ。」
「…………。」
「他国に連れて行くつもりもない。アイゼン・ヴァルト国内で、所在を明らかにした状態で保護する。」
「誰が責任を持つ?」
「俺だ。」
「貴様が?」
「ああ。」
「十三年も国にいなかった男が、何を根拠に――」
「俺は。」
ジェフが言葉を重ねる。
「ゴルドラック・フォン・アルマンの息子だ。」
「…………!」
騎士団長の表情が変わった。
その名は。
当然知っている。
アイゼン・ヴァルト王国を代表する鍛冶師。
アルマン鍛造商会会長。
国内外に大きな影響力を持つ男。
「ジェフリー・フォン・アルマン。」
ジェフは自分の名を告げた。
「親父なら、王国上層部と正式に話す席くらい作れるだろ。」
「…………。」
「それに。」
ジェフは自分を指差した。
「俺自身も王国へ報告する義務がある。」
「義務?」
「空送りから帰ってきたんだぞ。」
少しだけ呆れたように笑った。
「国としても、『へぇ、帰ってきたんだ。よかったな』で済ませるわけにはいかねぇだろ。」
「…………。」
「俺だって王に聞きたいことがある。十三年前、どういう理由でガキを空へ送る制度があったのか。今もなぜ続いてるのか。」
ジェフは子供たちを見る。
「だから。」
もう一度騎士団長へ視線を戻す。
「後日、正式に話し合おう。」
「…………。」
「王国側。」
「エレノアたち。」
「それから、実際に空から帰ってきた俺。」
「全員でな。」
ジェフは静かに言った。
「それから決めたって、遅くはねぇだろ。」
「…………。」
長い沈黙が流れた。
騎士団長は、馬車を見る。
中には子供たち。
今から自分たちが。
空へ送ろうとしていた者たち。
そして。
目の前には。
そこから帰ってきたという男。
「……一つ確認する。」
「ああ。」
「本当に。」
騎士団長はジェフを真っ直ぐ見た。
「本当に貴様は、空の大陸から帰還したのだな?」
「何度言わせんだ。」
ジェフは苦笑する。
「ああ。」
「十三年前に送られ。」
「ああ。」
「そこで生き延び。」
「ああ。」
「自力で地上へ帰った。」
「まあ、自力って言い切ると色々説明が面倒なんだが……帰ってきたのは間違いねぇ。」
「…………。」
騎士団長は目を閉じた。
しばらく考える。
やがて。
ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった。」
エレノアが目を見開く。
「今回の護送は、一時中断する。」
「隊長!」
「ただし!」
部下の声を遮る。
「条件がある。」
ジェフは頷く。
「言ってみろ。」
「空送り対象者は、アイゼン・ヴァルト王国内で保護すること。所在は王国へ報告し、無断で国外へ移動させないこと。」
「ああ。」
「そしてジェフリー・フォン・アルマン。」
「ん?」
「貴様自身も、正式な召喚があれば王国へ出頭すること。」
「構わねぇ。」
「ゴルドラック・フォン・アルマンにも、今回の件について連絡を取る。」
「好きにしてくれ。俺もどのみち会いに行く。」
「……。」
騎士団長はエレノアを見る。
「エレノア・フォン・アルマン。」
「何。」
「今日の戦闘については、別の問題として残る。」
「分かってる。」
「だが。」
少しだけ間を置く。
「これ以上、今日ここで血を流す必要もないだろう。」
「…………。」
エレノアの表情が。
ほんの少しだけ和らいだ。
「……ええ。」
騎士団長は頷く。
「ならば決まりだ。」
そして。
右手を上げる。
「総員。」
一拍。
「武器を収めろ。」
王国騎士たちが。
ゆっくりと剣を鞘へ戻していく。
カチャ。
カチャ。
カチャ。
戦場から。
殺気が消えていった。
馬車の中。
子供たちはまだ状況を理解できていない。
ただ。
自分たちが今すぐ空へ送られなくなったことだけは。
なんとなく。
分かった。
一人の少女が。
静かに泣き始めた。
それを見て。
ジェフは小さく息を吐いた。
「……よし。」
十三年ぶりに地上へ帰ってきて。
まさか。
その日のうちに。
空送りを一つ止めることになるとは思っていなかった。
「坊ちゃんに会ったら、バルド爺も腰抜かすだろうな……。」
「お兄ちゃん。」
「ん?」
エレノアが隣へ立った。
「……ありがとう。」
「まだ何も終わってねぇぞ。」
「それでも。」
エレノアは馬車を見る。
「今日、この子たちは空へ行かなくて済んだ。」
「…………。」
「十三年前の私には、できなかったことだから。」
ジェフは。
少しだけ黙った。
そして。
妹の頭へ手を置く。
「今度は間に合ったな。」
「…………うん。」
エレノアの目に。
また少しだけ涙が浮かんだ。
◇◇◇
撤収の準備が始まった。
王国騎士たちは王都へ報告を送る。
エレノアたちは子供たちを保護するため、馬車を引き取る準備を進めていた。
そんな中。
騎士団長がジェフの前へやって来た。
「ジェフリー。」
「なんだ?」
「最後に一つだけ。」
「ああ。」
騎士団長は。
しばらくジェフの顔を見つめた。
「私は今日まで。」
「…………。」
「空送りされた者は、全員死ぬものだと思っていた。」
「……そうか。」
「だから。」
視線が鋭くなる。
「貴様の帰還は、ただ一人の男が故郷へ帰ったという話では済まない。」
ジェフが眉を上げる。
「何が言いてぇ。」
「十三年前に空へ送られた男が、生きて戻った。」
騎士団長は静かに告げる。
「その事実が王国へ届けば――」
一拍。
「この国の常識そのものが、ひっくり返るぞ。」
「…………。」
ジェフは。
しばらく黙っていた。
やがて。
遠く。
空を見上げる。
ロウ。
ナルド。
空の大陸に残った仲間たち。
そして。
今ここにいるエレノアと。
空へ送られるはずだった子供たち。
「……いや。」
ジェフの口元が。
ゆっくりと上がった。
「もう――」
一拍。
「ひっくり返り始めてるさ。」




