『我が妹へ』
次の瞬間。
ジェフリー・フォン・アルマンの姿が、椅子から消えた。
「――坊ちゃん!?」
バルドが立ち上がる。
だが遅い。
応接室の扉はすでに開き、廊下の向こうからジェフの足音だけが遠ざかっていく。
「場所はどこだ!!」
ジェフの怒鳴り声が商会中へ響いた。
若い店員たちが一斉に振り返る。
数秒遅れて、バルドが応接室から飛び出してきた。
「お、お待ちくだされ、坊ちゃん! まだ場所までは――」
「今日なんだろ!? なら時間がねぇ!」
「ですから落ち着いてくだされ!」
「十三年待ったんだぞ!」
ジェフが足を止める。
振り返った顔から、いつもの笑みは完全に消えていた。
「妹が今どこにいるか分かった。その上、今日国とやり合うってんなら、じっと座ってられるわけねぇだろ。」
「……。」
「場所を教えてくれ、バルド爺。」
バルドは一瞬、言葉を失った。
十三年前。
鍛冶場で騒ぎ回っていた十歳の少年。
それが今は。
空の大陸を生き抜いて帰ってきた、一人の男になっている。
「……北西です。」
「北西?」
「王都からおよそ四十キロ。旧鉱山道沿いに、空送り対象者の輸送部隊が通る予定になっています。エレノア様の騎士団は、そこで襲撃を仕掛けるのではないかと。」
「四十キロか。」
ジェフは即座に踵を返した。
「坊ちゃん!」
「ん?」
「どうやって行くおつもりです!? 馬でも用意を――」
「いらねぇ。」
「はい?」
「走った方が速い。」
「……。」
店員たちが固まる。
ジェフは何でもないことのように扉を開けた。
「じゃあ行ってくる。」
「行ってくる、ではありません!」
「ガハハハ! 戻ったら親父の居場所、もっと詳しく聞かせてくれ!」
「だからお待ち――」
――ドンッ!!
地面が震えた。
次の瞬間。
ジェフの姿は消えていた。
「…………。」
商会の前に残されたのは。
足元に刻まれた、小さな陥没だけだった。
「……。」
若い店員がぽつりと呟く。
「本当に……人なんですか?」
バルドは遠ざかっていく土煙を見つめた。
「昔から……人の言うことを聞かぬ坊ちゃんではありましたが。」
そして。
小さく笑う。
「どうやら、随分と規格外になって帰ってこられたようですな。」
◇◇◇
「ったく……!」
ジェフは街道を駆けていた。
いや。
駆けている、という表現では足りない。
一歩地面を蹴るたび、景色が後方へ吹き飛んでいく。
空の大陸で何年も鍛え続けた身体にとって、地上の街道など障害にすらならない。
「十三年ぶりに帰ってきたら、親父は別の国! 母ちゃんは消息不明! 妹は反逆者!」
走りながら頭を抱えたい気分だった。
「俺の家族、どうなってんだよ!」
だが。
口ではそう言いながらも。
心のどこかでは、少しだけ分かっていた。
「……エレノア。」
十三年前。
自分が空へ送られた日。
妹は泣いていた。
『お兄ちゃん行かないで!』
『なんでお兄ちゃんだけなの!?』
『悪いこと何もしてないじゃん!』
何度も。
何度も叫んでいた。
けれど。
誰にも止められなかった。
十歳だったジェフにも。
八歳だったエレノアにも。
何もできなかった。
「……馬鹿野郎。」
ジェフは歯を食いしばる。
「十三年も、一人で背負いやがって。」
今度こそ。
間に合う。
今度こそ。
自分が行く。
◇◇◇
その頃。
アイゼン・ヴァルト王国北西部。
旧鉱山道。
「前方、異常なし!」
「了解! 隊列を崩すな!」
数十名の王国騎士が、街道を進んでいた。
その中央。
鉄格子で囲まれた大型馬車が三台。
中には。
十歳ほどの子供たちが乗せられていた。
「……。」
「……お母さん。」
「帰りたい……。」
小さな声が漏れる。
だが。
騎士たちは振り返らない。
彼らも理解している。
これから何が起こるのか。
それでも。
命令だった。
「あと二時間ほどで転送施設へ到着する。警戒を怠るな!」
「はっ!」
先頭を進む隊長が声を上げた。
「特に今日は反乱分子が動く可能性がある! 周囲をよく見ろ!」
その直後。
――ヒュン。
「……?」
一人の騎士が空を見上げた。
「今……何か……。」
――ドスッ!!
「ぐっ!?」
街道前方へ。
一本の槍が突き刺さった。
「敵襲!!」
「全員構えろ!!」
騎士たちが一斉に武器を抜く。
そして。
森の中から。
次々と人影が現れた。
黒を基調とした装備。
胸元には。
切断された鎖を模した紋章。
「……来たか。」
隊長が顔を険しくする。
「反空送り勢力……!」
一人。
また一人。
武装した騎士たちが街道を塞いでいく。
その数。
三十。
四十。
そして。
最後に。
一人の女性が姿を現した。
「……。」
銀色の長い髪。
冷たい青の瞳。
細身ながら無駄のない身体。
腰には一本の長剣。
黒い外套を翻しながら。
彼女は静かに前へ出る。
「エレノア……!」
王国騎士隊長の顔が歪んだ。
「エレノア・フォン・アルマン!」
女は答えない。
ただ。
馬車の中にいる子供たちを見る。
「……。」
泣いている。
震えている。
かつて。
自分がそうだったように。
「その子たちを渡してもらう。」
静かな声だった。
だが。
拒否を許さない。
「ふざけるな! これは王命だ! 空送り対象者の輸送を妨害すれば、反逆罪に問われるぞ!」
「知っている。」
「なら退け!」
「断る。」
エレノアは剣の柄へ手を置いた。
「その子たちは犯罪者ではない。誰かを傷つけたわけでも、国を裏切ったわけでもない。ただスキルが一つだった。それだけで十歳の子供を死地へ送る制度など、私は認めない。」
「……!」
「十三年前もそうだった。」
エレノアの瞳がわずかに揺れる。
「私の兄は、何も悪いことなどしていなかった。」
騎士たちが黙る。
「それでも国は奪った。」
「……。」
「だから私は、もう二度と見ているだけではいない。」
ゆっくりと。
剣を抜く。
「その子たちは渡さない。」
背後にいた反空送り騎士たちも、一斉に武器を構えた。
「団長命令だ。」
エレノアの声が響く。
「子供たちの救出を最優先。必要以上に殺すな。抵抗できなくなった者へ追撃することも禁ずる。」
「はっ!」
「我々の敵は騎士ではない。」
一拍。
「空送りという制度そのものだ。」
その瞬間。
戦端が開かれた。
――ガキィン!!
剣と剣が激突する。
「馬車を守れ!!」
「左翼から回り込め!」
「子供たちへ近づけさせるな!」
「前衛、押し込め!」
怒号が飛び交う。
エレノアは一人、中央へ切り込んだ。
「止めろ!」
三人の騎士が同時に襲いかかる。
だが。
「遅い。」
――キンッ!
一人目の剣を弾く。
身体を沈め、そのまま二人目の懐へ入る。
柄頭で腹部を打つ。
「ぐっ!」
三人目が背後から剣を振り下ろす。
エレノアは振り返らない。
半歩だけずれる。
剣が空を切る。
そして。
――ドッ!!
「がっ!」
肘が顎へ入った。
三人が倒れるまで。
数秒。
「……つ、強い。」
王国騎士たちの表情が変わる。
「当たり前だ。」
エレノアは剣を構え直す。
「十三年間。」
青い瞳に。
強い光が宿る。
「この日のために鍛えてきた。」
そして。
戦いはさらに激しくなる。
◇◇◇
「見えた!」
遠くから。
ジェフが叫ぶ。
剣戟の音。
魔力。
人の気配。
間違いない。
「あそこか!」
さらに加速する。
木々を飛び越え。
岩を蹴り。
一直線に戦場へ向かう。
そして。
ジェフは。
見た。
「…………。」
一人の女。
大勢の騎士を相手に。
一歩も引かず戦っている。
銀の髪。
青い瞳。
十三年前。
小さかった妹とは。
何もかも違っていた。
それでも。
「…………。」
分かった。
一瞬で。
母親が子供の顔を見間違えないのと同じように。
兄もまた。
妹を見間違えなかった。
「……エレノア。」
ジェフの足が。
止まった。
十三年ぶりだった。
あんなに小さかった妹が。
今。
剣を握り。
何十人もの人間を率い。
自分を奪った制度と戦っている。
「……。」
ジェフは。
ほんの少しだけ笑った。
「……デカくなったな。」
その時。
戦場の中央。
エレノアへ向けて。
一本の矢が放たれた。
「団長!!」
「――っ!」
エレノアが振り返る。
遅い。
矢は。
真っ直ぐ。
彼女の胸へ――
届かなかった。
――パシッ。
「…………え?」
エレノアの目が見開かれる。
目の前。
いつ現れたのか。
一人の大男が立っていた。
その手には。
飛んできた矢が握られている。
「……。」
ジェフは。
矢を指先で折った。
「ったく。」
そして。
ゆっくり振り返る。
「十三年ぶりに会った妹が、いきなり死にかけてるところ見せんなよ。」
「…………。」
エレノアの呼吸が。
止まった。
目の前の男。
大きくなった身体。
傷だらけの腕。
十三年前とは違う顔。
それでも。
その笑い方だけは。
何一つ。
変わっていなかった。
「…………。」
エレノアの手から。
剣が落ちた。
――カラン。
「……そんな。」
唇が震える。
「そんな……わけ……。」
ジェフは。
十三年前と同じように。
ニッと笑った。
「よぉ。」
一拍。
「久しぶりだな、エレノア。」
「…………。」
「兄ちゃん、帰ってきたぞ。」
エレノアの瞳から。
涙が溢れた。




