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空の大陸の落ちこぼれ  作者: 滝本りお


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『「ただいま」の重み』

王城を出てから、どれほど歩いただろう。


 見覚えのある街並みを進みながら、ロウは何度も辺りを見回していた。


「……変わってる。」


「五年だからな。店も増えたし、建て替えられた家もある。お前が覚えている王都とは、少し違って見えるだろう。」


「うん。でも……あそこは覚えてる。昔、母さんに内緒でお菓子を買いに行った店だ。」


「よく覚えているな。ちなみに、そのたびに母上には全部バレていたぞ。」


「えっ?」


「お前は隠しているつもりだったようだが、口の周りに砂糖をつけたまま帰ってくる奴がどこにいる。」


「……誰も教えてくれなかった。」


「面白かったからな。」


「兄さん……。」


 マルの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 ロウも笑った。


 こんな会話をするのは、いつ以来だろう。


 五年前ですら、マルはすでに公爵家の跡取りとして忙しく、兄弟で過ごせる時間は決して多くなかった。


 今のマルはさらに遠い存在になっている。


 王直属特務騎士団《天秤》団長。


 王のすぐ傍らに立ち、国を守る者。


 それでも今だけは。


 ロウにとって、ただの兄だった。


 やがて。


 マルの足が止まった。


「着いたぞ、ロウ。」


「…………。」


 ロウも立ち止まる。


 そこには。


 五年前と変わらぬ巨大な門があった。


 その奥に見える、白を基調とした大きな屋敷。


 ジグルザルソン公爵邸。


「……本当に。」


 ロウの声が小さくなる。


「本当に、帰ってきたんだ。」


 魔物と戦っても震えなかった手が。


 ほんの少しだけ震えていた。


 空の大陸では、何度も死を覚悟した。


 黒金竜と出会った時も。


 自分など一瞬で殺せる怪物を前にした時も。


 仲間を守るために戦った時も。


 怖くても前へ進めた。


 なのに。


 たった一枚の門を潜ることが、今はどうしようもなく怖かった。


「兄さん。」


「なんだ。」


「……母さん、僕のこと分かるかな。」


 マルがロウを見る。


「五年経ったし、背も伸びた。顔だって少し変わったと思う。髪も昔より伸びたし……僕、自分でも五年前とは全然違うと思うんだ。」


 マルはしばらく黙っていた。


 そして。


「馬鹿なことを言うな。」


「え?」


「母親がお前を間違えるわけがないだろう。お前が五十年帰ってこなかったとしても、百年帰ってこなかったとしても、母上だけは一目でお前を見つける。そういう人だ。」


「……そっか。」


「ああ。だから行くぞ。」


 マルが門へ向かう。


 ロウもその後を追った。


 門の前に立つ二人の衛兵が、すぐに姿勢を正す。


「マル様! お帰りなさいませ!」


「ああ。」


 そして。


 一人の衛兵がロウを見る。


「そちらの方は……?」


 もう一人もロウを見る。


「…………。」


 その目が。


 少しずつ見開かれていく。


「……いや。」


「まさか……。」


 ロウは困ったように笑った。


「久しぶりです。」


「…………っ。」


 男の顔から血の気が引いた。


「ロ……。」


 唇が震える。


「ロウ……様……?」


「はい。」


「ロウです。」


 次の瞬間。


「ロウ様……!」


 衛兵の目から涙が溢れた。


「生きて……生きておられたのですか……!? 本当に……本当にロウ様なのですか!?」


「はい。生きてました。」


「…………!」


 男は口元を押さえた。


「よかった……。」


 もう一人の衛兵も、目を真っ赤にしている。


「奥様に……! 旦那様にお知らせしなければ……!」


 だが。


 マルが静かに止めた。


「いや。知らせなくていい。」


「しかし……!」


「ロウ自身の足で帰らせてやれ。」


「…………。」


 衛兵は涙を拭い、深く頭を下げた。


「……失礼いたしました。」


 そして。


 震える声で告げる。


「お帰りなさいませ、ロウ様。」


 ロウは一瞬、言葉を失った。


 お帰りなさい。


 五年間。


 一度も聞くことのできなかった言葉。


 ロウは小さく笑った。


「……ただいま。」


 門が開く。


 ロウは五年ぶりに、自分の家へ足を踏み入れた。


 ◇◇◇


 玄関の扉が開く。


「マル様、お帰りなさいませ。」


 使用人たちが頭を下げる。


 だが。


 マルの後ろから入ってきたロウを見た瞬間。


 一人。


 また一人。


 動きが止まった。


「…………。」


「え……?」


「嘘……。」


 手にしていた布を落とす者。


 口元を押さえる者。


 何度も目を擦る者。


 そして。


 ロウが幼い頃から屋敷に仕えている年配の侍女が、一歩前へ出た。


「……坊ちゃま?」


 ロウはその顔を覚えていた。


「久しぶり。」


「…………ロウ坊ちゃま?」


「うん。」


 侍女の目から、大粒の涙が零れ落ちた。


「本当に……。」


「本当に、ロウ坊ちゃまなのですね……?」


「うん。帰ってきたよ。」


「…………っ!」


 侍女は堪えきれず、顔を覆った。


「よかった……! 本当に……よかった……!」


 その声をきっかけに。


 屋敷の空気が一変した。


「ロウ様が……!」


「ロウ様が帰ってこられた!」


「誰か奥様を!」


「本当に!?」


「空の大陸から……!?」


 声が屋敷中へ広がっていく。


 階段から。


 廊下から。


 厨房から。


 次々と使用人たちが顔を出す。


 ロウは少し困ったように笑った。


「……こんなに騒ぎになると思わなかった。」


「当然だ。」


 マルが静かに答える。


「この屋敷で、お前の帰りを待っていなかった者など一人もいない。」


 その時だった。


「何の騒ぎですか?」


 奥から。


 女性の声がした。


 ロウの身体が固まった。


「…………。」


 忘れるはずがない。


 五年経っても。


 何百、何千という魔物の咆哮を聞いても。


 絶対に忘れなかった声。


 廊下の奥から、一人の女性が姿を現した。


「そんなに大きな声を出して……お客様でも――」


 そこで。


 女性の足が止まった。


「…………。」


 ロウも動けなかった。


 五年前より。


 少しだけ痩せたように見えた。


 髪も少し伸びている。


 けれど。


 何も変わっていない。


「……母さん。」


 女性の手から。


 持っていたカップが落ちた。


 ――カシャン。


 床で砕ける。


 誰も動かなかった。


「…………ロウ?」


 震える声だった。


 ロウは笑おうとした。


「うん。」


 でも。


 上手く笑えなかった。


「ただいま、母さん。遅くなって……ごめん。」


「…………。」


 女性の身体が震えた。


 一歩。


 また一歩。


 やがてそれは、走るような足取りへ変わった。


「ロウ……!」


 次の瞬間。


 ロウの身体が強く抱きしめられた。


「ロウ……! ロウ……っ!」


「母さん……。」


「生きてた……! 本当に……生きてたのね……! ずっと、ずっと会いたかった……! もう一度だけでいいから、あなたの顔が見たいって……声を聞きたいって……それだけでいいから帰ってきてって……ずっと……!」


 母の腕に力が込められる。


 まるで。


 もう二度と離さないと言うように。


「ごめんなさい……! あの日、あなたを守れなくてごめんなさい……! 怖かったでしょう……? 一人で知らない場所へ送られて……どれだけ怖かったか……どれだけ苦しかったか……何もしてあげられなくて……!」


「母さん。」


「ごめんなさい……ロウ……! 本当に……ごめんなさい……!」


「母さん。」


 ロウは。


 母の背中へ、ゆっくりと腕を回した。


「僕、大丈夫だったよ。」


「…………。」


「怖いこともいっぱいあったし、死ぬかもしれないって思ったことも何度もあった。でも、一人じゃなかった。助けてくれた人がいて、仲間もできて……僕を鍛えてくれた人もいた。」


 ロウの声が。


 少しだけ震える。


「だから……母さんが謝らなくても大丈夫だよ。僕、ちゃんと生きて帰ってきたから。」


「ロウ……。」


「それに。」


 ロウは笑おうとした。


 けれど。


 頬を、一筋の涙が流れた。


「……僕も、ずっと会いたかった。」


「…………っ!」


「空にいた時も何度も思い出した。父さんのことも、兄さんのことも、母さんのことも。もう会えないのかなって思ったこともあった。でも……帰ってきたら最初に言おうって決めてたんだ。」


 ロウは母を抱きしめたまま。


 五年間。


 ずっと言いたかった言葉を口にする。


「ただいま、母さん。」


 母の腕が、さらに強くロウを抱きしめた。


「……おかえりなさい。」


 声にならないほど泣きながら。


「おかえりなさい、ロウ……! 本当に……本当に、おかえりなさい……!」


 ロウは目を閉じた。


 ああ。


 帰ってきた。


 本当に。


 地上へ帰ってきたんだ。


 周囲では使用人たちも涙を拭っていた。


 マルも少し離れた場所から、何も言わず二人を見守っている。


 その時。


 ――コツ。


 階段の上から。


 足音がした。


 ロウが顔を上げる。


「…………。」


 一人の男が立っていた。


 大柄な身体。


 威厳に満ちた佇まい。


 五年前よりわずかに白髪が増えていたが、その姿を見間違えるはずがない。


 ジグルザルソン公爵家当主。


 ロドリゴ・ジグルザルソン。


「……父さん。」


 ロドリゴは答えなかった。


 ただ。


 ロウを見ていた。


 その顔は。


 ロウが知っている父親の顔ではなかった。


 いつも厳しく。


 何があっても動じず。


 公爵家当主として、人前で弱さなど一度たりとも見せなかった男。


 その瞳から。


 一筋の涙が流れていた。


「…………。」


 ロウは初めて見た。


 父が泣くところを。


 ロドリゴはゆっくりと階段を下りてくる。


 一段。


 また一段。


 ロウの前まで来ると。


 しばらく。


 何も言わなかった。


 五年ぶりに見る息子の顔を、確かめるように見つめ続けた。


 そして。


 公爵家当主ではなく。


 一人の父親として。


 震える声で告げた。


「……ロウ。」


「父さん。」


「生きていてくれて……ありがとう。」


 ロウの瞳が揺れた。


 しかし。


 ロドリゴは次の瞬間。


 深く。


 深く頭を下げた。


「そして――」


 その場にいた全員が息を呑む。


 公爵家当主が。


 自分の息子に頭を下げている。


「……すまなかった。」


「…………え?」


 ロウは。


 その言葉の意味を。


 まだ知らなかった。


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