『帰るべき場所』
「ゼロスなら――今も生きているぞ。」
ナルドが何でもないことのように放ったその一言は、その場にいた誰の口も開かせなかった。
五百年前、世界の大半を支配し、あらゆる国から恐れられながら、ある日を境に忽然と姿を消した魔王。
ゼロス・アポカリュプシス。
地上ではとうの昔に歴史上の人物となったその男が、今も生きている。
しかも、空の大陸で。
「…………。」
王はしばらくナルドを見つめたまま動かなかった。
聞きたいことなら、いくらでもある。
ゼロスは今どこにいるのか。
なぜ地上へ戻らなかったのか。
どうやって空の大陸へ渡ったのか。
そして何より、五百年前、この地上で本当は何が起きていたのか。
五百年間、王家が追い続けても辿り着けなかった答えを、この男は知っているかもしれない。
だが、王はやがて大きく息を吐いた。
「……いや、これ以上はここで話すべきことではないな。余も今日一日であまりにも多くのことを知った。魔王ゼロスが今も生きていることも、お前が空の大陸から地上へ降りてきたことも、そして空の大陸そのものについても、整理しなければならぬことが多すぎる。おそらく、お前自身にも何が起きたのか分かっていない部分があるのだろう?」
「ああ、その通りだ。俺もついさっきまで地上へ降りられるなんて思っていなかったからな。ロウのカオスが解放された時、たまたま近くにいた俺にも妙な恩恵が流れ込んできた。それから地上への往来とやらが可能になったらしいから、試しに来てみただけだ。だから俺に聞かれても、今のところ分からんことの方が多いぞ。」
「ならば、なおさら今ここで結論を急ぐべきではないだろう。今日はここまでとする。」
王はそう告げると、改めてナルドへ身体を向けた。
「ナルド殿。突然訪れた地上で何の準備もないまま過ごせというのも酷な話だ。お前が地上に滞在している間の宿と食事については、王家が責任を持って保証しよう。期間を設けるつもりもない。今後どれほど長く地上へ滞在することになろうと、少なくとも寝床と食事について困ることはないと思ってくれて構わぬ。」
「ほう、それはありがたい話だな。宿については雨風さえ凌げればどこでも構わんが、飯まで保証してくれるというのなら話は別だ。空じゃ食える時に食っておかないと、次にいつまともなものへありつけるか分からんからな。できれば量は多い方が助かるぞ。」
「……一応言っておくが、王家が保証するとはいえ、常識の範囲で頼むぞ。」
「その地上の常識とやらを俺は知らん。」
「…………確かにそうであったな。」
王が思わず額へ手を当てる。
その様子を見ていたロウは、懐かしさを覚えながら苦笑した。
「ナルドさん、本当に何も変わってませんね。地上に降りてきて最初に気にすることが食事なんて、空にいた時とまったく同じじゃないですか。」
「当たり前だろう。食える時に食う、眠れる時に眠る、殺される前に倒す。空で生き残るなら基本中の基本だ。それに地上へ来たばかりの俺へ、いきなりお前たちの常識を守れと言われても無理な話だろう。」
「最後の一つだけは、地上では基本じゃないですからね。」
「そうなのか?」
「そうですよ。」
「面倒なところだな、地上は。」
「そこですか……。」
五年前と変わらないナルドとのやり取りに、ロウの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
そんな二人を見ながら、王もほんのわずかに表情を緩める。
「今後どうするのかについては、ナルド殿自身も一度落ち着いてから考えるとよい。余としてもゼロスについて聞きたいことは山ほどあるが、それ以上に空の大陸そのものについて知らねばならぬことが多い。数日後、改めて城へ来てもらいたい。その時にはロウ、お前にも同席してもらう。」
「はい。僕も聞きたいことがありますし、また来ます。」
「うむ。それまでは少し休むとよい。特にロウ、お前は五年ぶりに地上へ帰ってきたばかりなのだ。王国のことも、空の大陸のことも、魔王のことも、すべてを今日中に片付ける必要などない。」
王はそこで言葉を切ると、少しだけ穏やかな目でロウを見た。
「五年ぶりの地上なのだ。今はまず、お前自身が会いたい者たちのところへ行ってこい。」
「…………。」
その言葉に、ロウは目を伏せた。
五年ぶり。
改めてその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、急に浮かび上がってきた。
地上へ戻ってから、あまりにも多くのことが起きた。
ジェフとランと別れ、ザルヒと再会し、骸の主を倒した。
王都へ連れてこられ、王から空送りの歴史を聞き、兄とも五年ぶりに顔を合わせた。
そして今度はナルドまで地上へ降りてきて、五百年前に姿を消した魔王が今も生きているという、とんでもない事実まで知らされた。
目の前の出来事についていくだけで精一杯だった。
だから。
地上へ戻った時からずっと胸の奥にあったはずの、一番大切なことを後回しにしていた。
まだ会っていない。
父にも。
母にも。
「ロウ。」
背後から、静かな声が聞こえた。
振り返ると、そこにはマル・ジグルザルソンが立っていた。
「……兄さん。」
マルは何も言わず、しばらく弟を見つめていた。
五年前とはまるで違う。
身体つきも、纏っている魔力も、その瞳に宿るものさえも。
けれど。
マルにとって、目の前にいる少年が弟であることだけは変わらない。
「ロウ。話したいことも、聞きたいことも山ほどある。お前だって俺に聞きたいことがあるだろう。特に、五年前のあの日……俺がなぜお前の前へ姿を見せなかったのか、その理由もな。」
「……。」
「だが、その話は今じゃない。俺より先に、お前が会わなければならない人たちがいる。だから今日はもう帰るぞ。父上と母上がお前を待っている。」
ロウの瞳が、わずかに揺れた。
「父さんと……母さんが……。」
「ああ。お前が空へ送られたあの日から今日まで、一日だって忘れたことはない。」
マルはロウの横を通り過ぎた。
数歩進んだところで足を止める。
それでも振り返らない。
「五年間だ、ロウ。父上も母上も、お前がもう帰ってこないかもしれないと分かっていながら、それでもずっと待っていた。だから生きて帰ってきたのなら、まず顔を見せてやれ。それから俺たち兄弟の話をしよう。時間なら、これからいくらでもある。」
「…………。」
ロウは返事をすることができなかった。
胸の奥が、急に苦しくなった。
空の大陸で過ごした五年間。
あの世界では、生きることだけで精一杯だった。
今日を生き延びる。
目の前の魔物から生き延びる。
もっと強くなる。
仲間を守る。
そして、いつか地上へ帰る。
それだけを考えて走り続けてきた。
けれど。
その五年間。
自分が空で必死に生きていたのと同じ時間だけ、地上にも自分の帰りを待ち続けていた人たちがいた。
ロウは小さく息を吸った。
「ナルドさん。僕、家に帰ります。父さんと母さんに、ちゃんと自分の口から生きて帰ってきたって伝えてきます。」
「ああ、それがいい。」
ナルドは腕を組んだまま、穏やかに笑った。
「俺との話なんぞ、いつでもできる。王の話も、ゼロスの話も、空のことも後回しで構わん。五年間も帰ってこなかった息子が突然帰ってきたんだ。待っていた奴らからすれば、お前が今どれだけ強くなったかなんてどうでもいいだろう。」
ナルドはロウの目を真っ直ぐ見た。
「行ってこい、ロウ。お前がどこで何をして、どれだけ強くなったのかを話す前に、まずは顔を見せてやれ。お前が生きていることを、一番伝えなきゃならん奴らにな。」
「……はい。」
ロウは笑った。
そして。
マルの背中を追いかける。
向かう先は、五年前まで当たり前のように帰っていた場所。
幼い頃から走り回った庭があり。
家族と食卓を囲んだ部屋があり。
十歳になるまで、そこへ帰ることに何の特別さも感じていなかった。
けれど今は。
世界のどんな場所よりも、そこへ向かうことが怖かった。
ジグルザルソン公爵邸。
母がいる。
そして。
ジグルザルソン公爵家当主。
父――ロドリゴ・ジグルザルソンが待っている。
五年前。
空へ送られた少年が。
ようやく。
家へ帰る。




