『魔王の名』
「ゼロス。」
一拍。
「ゼロス・アポカリュプシスだ。」
「――――っ。」
王の顔から。
血の気が消えた。
「…………ゼロス?」
王の唇が、わずかに震える。
「今……ゼロス・アポカリュプシスと申したのか?」
「ああ。」
ナルドは何でもないことのように答えた。
「そう言ったが。」
「…………。」
王は言葉を失った。
周囲の重臣たちも、王の異変に気付き始める。
「陛下……?」
「その名に、何か……?」
ナルドは怪訝そうに王を見る。
「なんだ。知っているのか?」
「知っている……?」
王は思わず聞き返した。
その声には、明らかな動揺が滲んでいた。
「知っているも何も……。」
王の視線が、ゆっくりとロウへ向けられる。
「ロウ。」
「はい?」
「先ほど余がお前へ話していた男を覚えているな。」
「先ほど……?」
ロウは少し考える。
十歳。
たった一つしかスキルを授からなかった少年。
出来損ないと蔑まれながら、戦えば戦うほど異常な速度で成長し。
わずか十年で世界の大半を支配した存在。
「……まさか。」
ロウの表情が変わった。
王は重く頷く。
「五百年前。」
「世界の大半をその力で支配し、数え切れぬ国を滅ぼし、地上そのものを恐怖で覆い尽くした男。」
「二十歳を迎える頃には、誰一人として逆らえる者はいなくなっていた。」
「そして、世界中の人々が畏れを込めて――」
王はナルドを見た。
「魔王と呼んだ男。」
一拍。
「その本名こそが――」
「ゼロス・アポカリュプシスだ。」
「…………。」
ロウの思考が止まった。
「……は?」
ザルヒも固まっている。
重臣たちからも動揺の声が漏れ始めた。
「魔王……。」
「五百年前の……?」
「まさか……。」
だが。
ナルドだけは。
「…………。」
黙っていた。
数秒。
そして。
「……ふっ。」
突然、肩が震えた。
「ふ……。」
「ガハハハハハハハハ!!!!」
ナルドの豪快な笑い声が、北門一帯へ響き渡った。
「なっ……!」
王国側の人間たちが一斉にナルドを見る。
「何がおかしい!」
「魔王だぞ!」
「五百年前、この世界を恐怖に陥れた存在なのだぞ!」
「ガハハハハ!!」
ナルドは腹を抱えている。
「ゼロスが!?」
「あのゼロスが魔王だと!?」
「笑わせるな、王よ! あんなふざけた奴に魔王など務まるものか!!」
「…………。」
王の頬が引きつった。
「ふざけた……奴?」
「ああ!」
ナルドは目元を拭いながら笑う。
「あいつほど適当な男も珍しいぞ。人の飯を勝手に食う。寝る場所を決めたと思えば翌日には別の山にいる。強そうな魔物を見つければ話の途中でも消える。何百年経とうが、やることがほとんど変わらん。」
「何百年……?」
ロウが反応する。
「ナルドさん。」
「今、何百年経ってもって……。」
「言ったぞ。」
「じゃあ……ゼロスって人とは、五百年前に会っただけじゃないんですか?」
「何を言っている。」
ナルドは当然のように答えた。
「その後も何度も会っている。」
「…………。」
ロウの目が見開かれる。
王も動きを止めた。
「待て。」
王が低い声を発する。
「今、何と申した。」
「だから、その後も会っていると言った。」
「五百年前だけではないのか?」
「違う。」
「では……。」
王が一歩前へ出る。
「ゼロス・アポカリュプシスは、五百年前に死んだのではないのか?」
「死んだ?」
ナルドが首を傾げる。
「誰がそんなことを言った。」
「…………。」
空気が変わった。
王はナルドから目を逸らさない。
「地上では、ゼロスはある日を境に忽然と姿を消した。」
「遺体はなかった。」
「戦闘の痕跡もなかった。」
「城も、軍勢も、財宝も残したまま、ゼロスだけが世界から消えたのだ。」
ナルドの笑みが。
少しずつ消えていく。
「……消えた?」
「ああ。」
「いつ頃だ。」
「世界の大半を支配した後だ。正確な年月には諸説あるが、およそ五百年前。」
「…………。」
ナルドが黙る。
何かを思い出している。
「五百年前……。」
その目が細くなる。
「そういえば。」
ロウがナルドを見る。
「何か思い出したんですか?」
「ああ。」
ナルドは腕を組んだ。
「昔、ゼロスが妙なことを言っていた。」
「妙なこと?」
ナルドはゆっくりと記憶を辿る。
それは、遥か昔。
まだナルド自身も、今ほど長い時を生きていなかった頃。
空の大陸。
魔物の死骸が転がる荒野で。
ゼロスは何でもないことのように言った。
『ナルド。』
『もし、お前にも地上へ降りられる時が来ても、降りない方がいいぞ。』
『地上?』
『ああ。』
『なんだそれは。』
『知らないなら、そのままでいい。』
ゼロスは笑っていた。
『俺はいつでも戻れるけどな。』
『戻る?』
『でも――もう戻るつもりはない。』
当時。
ナルドは深く考えなかった。
またゼロスが訳の分からないことを言っている。
それくらいにしか思っていなかった。
だが。
今。
「…………。」
ナルドの目がゆっくりと見開かれる。
「なるほどな。」
ロウが首を傾げる。
「ナルドさん?」
「……点と点が繋がった。」
「え?」
ナルドは王を見る。
「王よ。」
「なんだ。」
「お前たちの話が本当なら、俺は一つ勘違いしていたらしい。」
「勘違い……?」
「ああ。」
ナルドは懐から、先ほどの眷属を取り出した。
紫黒の光が小さく脈打つ。
「俺はゼロスがどこで生まれたのか知らなかった。」
「過去を聞いても、あいつはまともに答えなかったからな。」
「だから俺も興味を持たなかった。」
ナルドは小さく笑う。
「空の大陸では、そんなことは珍しくない。」
「過去を話したくない奴もいる。何百年生きているのか分からん奴もいる。自分がどこから来たのか忘れた奴だっている。」
「だからゼロスも、その一人だと思っていた。」
王の表情が険しくなる。
「では……。」
「ああ。」
ナルドが頷く。
「おそらく、あいつは――」
一拍。
「地上から空へ来た。」
王の瞳が大きく見開かれた。
「やはり……!」
「待ってください!」
ロウが思わず声を上げた。
「ちょっと待ってください、ナルドさん!」
「なんだ。」
「僕、もう頭が追いついてません!」
ロウは両手で頭を押さえる。
「五百年前に世界を支配した魔王がゼロスって人で、その人が空の大陸にいて、ナルドさんの友達で、しかもナルドさんはその人が地上出身だって知らなくて……。」
一度息を吸う。
「というか!」
「その人、いつ空へ来たんですか!?」
「知らん。」
「どうやって!?」
「知らん。」
「誰かに送られたんですか!?」
「知らん。」
「なんにも知らないじゃないですか!!」
「本人が話さなかったからな。」
「聞いてくださいよ!!」
「興味がなかった。」
「五百年前の魔王ですよ!?」
「俺にとってはゼロスだ。」
ロウが言葉を失う。
「…………。」
あまりにも。
地上と空では、認識が違いすぎる。
王も黙っていた。
だが。
その表情には明らかな動揺が浮かんでいる。
五百年間。
王家が追い続けてきた魔王失踪の謎。
その答えに繋がる存在が、突然目の前へ現れたのだ。
「ナルド。」
王が静かに尋ねる。
「最後に一つだけ答えてくれ。」
「なんだ。」
「ゼロス・アポカリュプシスに最後に会ったのは……いつだ。」
「最後?」
ナルドは少し考える。
「さて。」
指を折る。
「百年前……いや。」
「もっと最近だったか。」
「…………。」
王の表情が固まる。
ロウもナルドを見る。
「ナルドさん。」
「まさか……。」
ナルドは不思議そうに二人を見る。
「何を驚いている。」
そして。
何でもないことのように告げた。
「ゼロスなら――」
一拍。
「今も生きているぞ。」
誰も。
声を出せなかった。
五百年前。
世界を恐怖で支配し。
歴史から忽然と姿を消した魔王。
ゼロス・アポカリュプシス。
その男は今も。
空の大陸のどこかで――
生きている。




