『五年』
────五年後────
炎のように赤く燃える木々。
熱気の立ち込める森の中を、一人の青年が静かに歩いていた。
十歳だった少年は、十五歳になっていた。
あどけなさは消え、その顔立ちには幾度もの死線を越えてきた者だけが持つ鋭さが宿っている。
肩まで伸びた髪は、いつしか雪のような白へと変わっていた。
毒を喰らい。
魔獣に引き裂かれ。
敗れては起き上がり。
そのたびに、生きることだけを選び続けた。
無駄なく鍛え上げられた身体には、大小無数の傷跡が刻まれている。
どれも誇るためのものではない。
この空の大陸で、生き残った証だった。
そして今。
ロウの全身からは、本人すら意識していないほど濃密な《魔威》が静かに溢れていた。
その気配を感じ取った魔獣たちは、本能で理解する。
――近付けば、死ぬ。
五千レベルにも満たない魔獣は、ロウの姿を認めるだけで足を止め、次々と森の奥へ姿を消していった。
だが。
ロウ自身は、その事実に気付いていない。
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【Lv5250】
【異核4867】
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「また増えたか。」
頭の中に浮かんだ数字を一瞥し、すぐに表示を消す。
もう、驚くことはなかった。
五年間。
誰とも会わず。
誰にも頼らず。
一人で、生き続けた。
毒を食べ。
魔獣を狩り。
逃げ。
敗れ。
それでも立ち上がり。
また歩いた。
それが、ロウにとっての日常になっていた。
「……今日は暑いな。」
頭上を覆う赤い葉を見上げる。
ここは《炎の森》。
木々は一年中、炎のような赤色を帯びている。
地面から吹き出す熱気は息苦しく、浅い場所に流れる水ですら煮え立つほど熱い。
かつては、この森へ一歩踏み込むだけで全身を焼かれた。
今では、その熱すらほとんど感じない。
「ここも、だいぶ慣れたな。」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。
五年間、ずっとそうだった。
それでも独り言をやめなかったのは、黙っていると自分の声まで忘れてしまいそうだったからだ。
その時だった。
ガサッ。
前方の茂みが、大きく揺れた。
「ん?」
ロウの足が止まる。
赤い木々の隙間。
黒く、大きな影が見えた。
全身を覆う長い体毛。
二本の足で立つ巨体。
「ダンダベアか。」
ロウの表情が、ほんの少しだけ緩む。
「久しぶりだな。」
ダンダベア。
巨大な熊型の人型魔獣。
昔は見つかっただけで、逃げることしかできなかった。
何度も追い回され。
爪で腹を裂かれ。
首を噛み砕かれかけたこともある。
だが。
今なら違う。
「……にしては、小さいな。」
茂みの向こうにいる影を眺める。
ダンダベアの成体にしては、ひと回り小さく見えた。
「まだ成長途中か?」
返事はない。
影はロウに背を向けたまま、何かを探すように地面を見ている。
「まあ、いいか。」
ロウは静かに腰を落とした。
「一瞬で終わらせよう。」
地面を蹴る。
ドンッ!!
足元が大きく陥没した。
白い残像が、炎の森を一直線に駆け抜ける。
一瞬。
本当に一瞬で、黒い影の懐へ入り込んだ。
「もらっ――」
拳を振り抜こうとした、その直前。
影が振り返る。
「……あ?」
ゴッ!!!!
「ぶっ!?」
巨大な拳が、ロウの顔面へ叩き込まれた。
頬が歪む。
視界が揺れる。
ロウの身体は真横へ弾き飛ばされた。
「ぐあぁぁぁっ!!」
木を一本。
二本。
三本。
何本もの赤い幹をへし折りながら地面を転がる。
ドガガガガッ!!
ようやく勢いが止まった。
「いってぇぇ……。」
鼻を押さえながら上半身を起こす。
血は出ていない。
だが、久しぶりにまともな一撃を受けた。
「何だ、今の……。」
ダンダベアに、あんな速度はない。
拳の重さも違う。
ロウはゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは。
確かに熊のような、毛むくじゃらの大男だった。
だが、よく見ればダンダベアとはまるで違う。
濃い茶色の体毛の隙間から、赤黒く鍛え上げられた筋肉が覗いている。
太い腕には金属製の籠手。
腰には分厚い革の防具。
背中には、ロウの身体ほどもある巨大な戦斧を担いでいた。
何より。
その顔には、明確な知性と怒りが浮かんでいる。
「……ダンダベアじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間。
大男の額に、太い青筋が浮かんだ。
「おい!!」
腹の底へ響くような大声が、森中へ轟いた。
「こらぁ!!」
「なに勝手に殴りかかってきてんだ、この馬鹿野郎!!」
「…………。」
ロウは口を開けたまま固まった。
「しゃ……。」
「喋った?」
「当たり前だ!!」
大男は自分の胸を、巨大な拳で叩いた。
ドンッ!!
「俺を何だと思ってやがる!」
「ダンダベア……。」
「まだ言うかぁ!!」
大男の怒声に、周囲の木々が震えた。
ロウは反射的に少し身構える。
「いや、だって。」
「遠目から見たら、かなり似てましたよ。」
「どこがだ!!」
「毛とか。」
「毛だけじゃねぇか!!」
「あと、大きさ。」
「それは褒め言葉だな!」
「どっちなんですか。」
大男は一瞬だけ黙り。
やがて。
「がはははは!!」
腹を抱えて豪快に笑い始めた。
「お前、変な奴だな!」
「いきなり殴りかかってきた人に言われたくないです。」
「殴りかかってきたのはお前だろうが!!」
「あ。」
「忘れてたのか!?」
ロウは少し気まずそうに目を逸らした。
大男は笑いながら、背中の戦斧を地面へ突き立てる。
ズンッ!!!!
重量だけで、足元の地面が沈んだ。
「よく聞け!」
「俺は魔物じゃねぇ!」
「俺は――」
大男は分厚い胸を張った。
「《アダマント・ドワーフ》のジェフだ!!」
「…………。」
ロウは何度か瞬きをする。
「アダマント……。」
「ドワーフ?」
「ああ!」
「何ですか、それ。」
「何ですか、それぇ!?」
ジェフは両手で頭を抱えた。
「お前、ドワーフを知らねぇのか!?」
「知りません。」
「地上で何を教わってきたんだ!」
「魔物の種類なら少し。」
「俺を魔物に分類するな!!」
ロウは困ったように眉を下げる。
「仕方ないじゃないですか。」
「空の大陸に来てから、ほとんど誰にも会ってないんですから。」
ジェフの動きが止まった。
「……ほとんど?」
「最初に二人だけ会いました。」
「でも、すぐに別れて。」
ロウは少しだけ視線を落とす。
「それから五年間、ずっと一人です。」
炎の森に、短い沈黙が落ちた。
先ほどまで大声で笑っていたジェフが、何も言わずにロウを見つめている。
「五年。」
「はい。」
「ここで?」
「はい。」
「一人で?」
「そうです。」
ジェフの目が、ロウの全身をなぞる。
白く変わった髪。
傷だらけの身体。
薄汚れた服。
枯れ草や魔獣の皮を繋ぎ合わせ、自分で作ったであろう簡素な荷物。
そして。
本人が自覚していないほどの魔威。
「お前……。」
ジェフの低い声から、先ほどまでの怒気が消えていた。
「よく生きてたな。」
その一言だった。
ロウは少しだけ目を丸くする。
褒められるとは思っていなかった。
それから、照れ臭そうに頬を掻いた。
「まあ。」
「死にかけた回数なら、百回じゃ足りないですけど。」
「……がはっ。」
ジェフの口元が歪む。
「がははははは!!」
再び、森中へ豪快な笑い声が響いた。
「気に入った!」
「お前、面白ぇガキだな!」
「もう十五歳です。」
「ガキだ!」
「ジェフさんがおじさんなだけじゃないですか?」
「誰がおじさんだぁ!!」
ロウは思わず笑った。
「あはは。」
声に出して笑った瞬間。
胸の奥が、不思議なくらい温かくなった。
こんなふうに誰かと言葉を交わすのは、いつ以来だろう。
ナルド。
ミマリ。
二人と別れてから。
五年間。
ロウは一人だった。
誰かに怒鳴られることも。
馬鹿にされることも。
一緒に笑うこともなかった。
ジェフは戦斧を地面から引き抜き、肩へ担ぎ直した。
「おい。」
「はい?」
「腹、減ってねぇか?」
「減ってます。」
ロウは迷わず即答した。
「即答かよ!」
「朝から猛毒の草しか食べてないので。」
「猛毒!?」
「普通ですよ。」
「普通じゃねぇ!!」
「でも回復しますし。」
「何言ってんだ、お前!?」
ジェフは呆れた顔をしたあと、再び豪快に笑った。
「よし!」
「なら来い!」
「え?」
「俺が使ってる一時的な隠れ家が、この近くにある。」
「一時的?」
「ああ。」
ジェフは周囲を見回し、声を少しだけ低くした。
「この大陸じゃ、同じ場所に長く居座る奴から死んでいく。」
「血の匂いも。」
「飯の匂いも。」
「魔力の残り香も。」
「いつか必ず、何かを呼び寄せる。」
ロウは静かに耳を傾ける。
「だから俺は、しばらく使ったら場所を変える。」
「隠れ家を転々としてるってことですか?」
「そういうことだ。」
ジェフは親指で森の奥を指した。
「そこなら、少しはまともな飯を食わせてやれる。」
「まともな飯……。」
「毒じゃねぇぞ。」
「毒じゃないんですか!?」
「何で残念そうなんだよ!!」
「だって、回復できないじゃないですか。」
「お前の身体、どうなってやがる……。」
ロウは小さく笑った。
「分かりません。」
「自分のことだろ!」
「五年前から、分からないことばっかりなので。」
「がはは!」
「本当に面白ぇ奴だな!」
ジェフは森の奥へ向かって歩き始める。
「ほら、来い!」
「暗くなる前に着きてぇ。」
「はい。」
ロウも、その後を追いかけた。
ジェフの大きな背中。
地面を踏み締める足音。
時折、こちらを振り返って何かを話す声。
ロウは、その隣へ並ぶ。
誰かと同じ方向へ歩くことが。
こんなにも不思議なものだったなんて、忘れていた。
(誰かと並んで歩くの……。)
(五年ぶりだ。)
胸の奥で、小さな喜びが灯る。
五年前。
この空へ送られた日。
ロウは、この世界に自分しかいないのだと思った。
けれど。
違った。
この地獄にも。
生きている者たちはいる。
そして。
この出会いが、自分の運命を大きく動かしていくことを。
この時のロウは、まだ知らなかった。




