佐藤の三邪王
「いません。お帰りください」
「鹿が彼女を案内したはずだ」
逃がした子鹿はコイツの手先だったのか──佐藤はまんまと罠にかかったことを激しく自責した。未熟な己のせいで弟子全員を巻き込んだ。
「妖魔王、ここは丹新山の中でも特に霊気が高い。お体に障りますので帰って養生された方が身のためかと」
「花嫁を連れて帰る」
「連れて帰らせません! 」
佐藤が大きな声を出すと、妖魔王の赤の瞳が揺れる。
「渡雲香君の神威が衰えた噂は真実だったのだな」
「は……」
佐藤が聞き返す前に鋭いものが眉間に向かってくるので咄嗟に躱す。その軌道を確認すると、弟子たちが寝ている天幕に向かうので佐藤は瞬きの間に袖で弾き返す。動物の毛を固めたものは妖魔王の前で止まり呆気なく地面に落ちる。先が毒で塗れていた。妖魔王はその間も佐藤から視線を逸らさない。
「いるんだな? 私の花嫁を隠すのは万死に値する罪だ。骨も残さず滅びても贖えない」
「では仮にいるとして、清揺の気持ちはどうなるんです? 貴女に付いていきたくないかもしれないじゃないですか」
「彼女の前世と約束した。何度生まれ変わっても私たちは同じ天命を辿る。私の意志は彼女の意志だ」
(すごい、話が全く通じない。血鬼の時も思ったけど、コイツら自分本位すぎないか? )
「退いてもらおう」
突如、四方八方から嫌な気配を感じる。妖魔王が妖界から入ってきたヒビが至る所に現れ、今にも開かんとしている。仲間でも呼んだのだろう。佐藤は霊気に満ちた白い息を吐いた。香煙が扇の形を結び、白く実体化する。佐藤はそれを掴み一閃した。扇に仕込まれていた銀針が、空間の裂け目へ残らず突き刺さる。やがてヒビは、何事もなかったかのように消えた。
林 香寧の武器を初めて実戦で滞りなく使用できたことに佐藤は安堵した。
妖魔王は腕を後ろに組んだまま、僅かに顎を上げた。
「どうして邪魔をする? 」
「私は清揺の師だ。師が弟子を守るのは当然の理」
「何が師だ。貴様は姫を虐げた」
佐藤はぎくりとした。確かに、林 香寧の虐待は事実だ。佐藤は林 香寧が物語の悪役だったことを思い出す。
「確かに以前の私は愚かであった。だが己を省みて心を改めた。弟子たちの良き師になるため、また二度と道を踏み外さぬよう日々努めている。贖罪の一つとして、清揺をお前に渡すわけにはいかない」
妖魔王は首を傾げて佐藤をじっと見る。垂れている鎖から金属音が微かに鳴った。
「心を改めた」
「そうだ」
「誰の心をだ」
「誰……」
また鋭い毛が飛んでくるが、動揺した佐藤は避け損ねてしまった。腕を掠めたそれが服を裂き肌へ毒を塗り込む。毒が回らないように抑えて喋った。
「妖魔王、先ほどから不意打ちばかりですね。そんなに真正面から戦うのが怖いのですか」
「渡雲香君の神威が衰えたのは、別人の心と入れ替わったからなのだな? 」
弱みを握ったと言わんばかりに繰り返される言葉に、佐藤は次は動揺しなかった。同時に飛んでくる武器を全て避けきって、佐藤も銀針を返す。まだ毒は回りきってない。いける!戦える! 佐藤がそう確信すると天幕の扉が僅かに動く。
「師匠……? 」
「月澄! 戻りなさい! 」
月澄が起きてきて外に出てきたのだ。妖魔王はすぐさま幼い声がした方向に毛針を飛ばす。佐藤はそれらを全て薙ぎ払うが、妖魔王は放つのを止めなかった。袖を翻して月澄の元へ駆け寄った佐藤は結界を張り直す。天幕の中にあった結界はいつの間にか解かれていた。結界術を施す佐藤の一瞬の隙を突かれ、毒針は佐藤の体をいくつも突き刺す。箸のように細いが、中腹にかけて膨らみ体内に入る際は激痛を伴った。
「っ……」
「師匠!? 」
「いいから、大丈夫だから戻りなさい」
危うく叫びそうな声を必死に抑えつけ、月澄には心配をかけないようになるべく優しく聞こえる様に諭す。月澄は金の瞳を潤ませて震えている。
「渡雲香君は結界が一つしか張れないほど落ちぶれたのか? 吉報として異界の者たちにも告げよう。復讐の刻が来たと」
妖魔王は鎖を鳴らしながら素早く佐藤へ近寄る。
「その前にここで灰となるのだが」
佐藤が対峙しようとすると、妖魔王とは異なる別の悪念があっという間に周囲を覆った。畏怖を感じる邪気に帳のように囲われて、佐藤も妖魔王も驚いてたじろぐ。距離を離した妖魔王が口を開こうとすると、突然彼の頭から獣の耳が生やされる。
「師匠、師匠、息が苦しくて眠れないです……」
月澄に続いて清揺も起きてきた。天幕を捲ってあどけない顔をちらりと覗かせる。いいから中に入ってなさい! と佐藤が叫ぼうとすると、「きゅーん」という動物の甘えた声がする。
佐藤は妖魔王が居た場所に目をやると、そこには巨大な白の獣がひっくり返って腹を出しており、上目遣いでこちらを見ていた。首の鎖は四肢に繋がっていたが右前足が存在しない。妖魔王が化けた姿だろう。
「姫~、白玉です~」
獣の唸り声のような嗄れ声が辺りに響く。尻尾をバサバサと鳴らして立てる風が先ほどまでのシリアスな空気を掻き消した。巨大な邪悪な妖魔が、まだ幼い少女に一生懸命媚を売っている姿を目にして佐藤は思った。
(キッショ……)
徐々に目を覚ました清揺が、状況を把握して佐藤の前へ飛び出し、守るように腕を広げる。
「姫……」
「師匠に何したの!? あんた、私が死ぬまで来ないでって言ったでしょ! 」
「姫、姫、この白玉は何もしておりませぬ。姫にお腹を一度撫でてもらおうと思っただけです~」
「ごほっ」
「師匠!!!」
佐藤が丁度いいタイミングで血を吐きだした。我ながらナイスタイミングだと思い、佐藤は心配させないように清揺の頭を撫でる。
「清揺、彼に一人で元の世界へ帰ってくれるようにお願いしてくれるかな」
「はい、もちろんです! 聞いてた!? はやく帰りなさい! 師匠が死んじゃったら生まれ変わってもあんたと一緒にならない!! 未来永劫恨んでやる! 」
「姫……」
獣が身を起こそうとした瞬間、今まで大人しくしていた月澄が切りかかろうと飛び出す。毒のせいで反応が遅れた佐藤だったが、なんとか刃が当たる前に月澄の体を後ろから抱え込む。
「月澄! やめなさい! 」
「殺す!殺す殺す殺す! 」
「月澄!! 」
「殺す!! 殺して償わせる! 」
少年はものすごい力で暴れて佐藤から逃れようとする。もがく度に傷に響き、佐藤が手を離しそうになったところに微明と清揺が加わって共に抑えてくれる。そうして月澄は少し落ち着きを取り戻すが、未だに息が荒い。三人がかりで取り押さえてなければ今すぐにでも襲い掛かりそうだ。
彼から未だに溢れ出る悪念と気迫に佐藤は悪い予感がする。──また走火入魔をしてしまうのではないか!?
「月澄、落ち着け。 師匠が怪我をしている 」
「清揺!! お前のせいだぞ!! 」
「分かっているわよ! でも師匠を介抱するのが先でしょ! 」
責任の矛が清揺に向いたのが分かった瞬間、妖魔王が人間の形に姿を変えて何かを差し出す。警戒して誰も受け取らないため彼はぞんざいに投げて寄越す。地面に落ちたそれは赤の巾着袋だ。
「解毒丹だ。一週間、毎日三回飲ませろ」
妖魔王はそういって割れ目へと向かい異界に入る。ヒビが閉じ切る前に名残惜しそうにこちらを見つめていた瞳は人間となんら変わらなかった。佐藤は気を失いそうになるのを堪えながら弟子へかたりかける。
「今回の怪我は私の落ち度だ。ひとまず休みたい。月澄、そこの川から水を汲んできてくれないか。ついでに顔を洗ってきなさい。微明、天幕まで運んでくれ」
「はい。師匠、寄りかかってください」
「……」
「師匠、私のせいです。なんとお詫びすれば良いか……」
清揺の声が震えている。
「悪いのはあの獣だ。清揺、虫捕りはまた今度にしよう。すまない」
清揺は可哀そうなほどか細い声で「はい」と呟いた。
佐藤の容態が落ち着いた夜明け頃に、四人は雲香宮へ戻った。毒が強くても林 香寧の体質は元々特異なため、数時間休むと動けるようになるまで回復した。しかし体内では毒の浄化に霊力を巡らせているため弟子の修行に付き合えず、一週間は自習だと告げた。また、佐藤の心配をよそに月澄はかなり冷静だった。走火入魔に入る気配はないためひとまず問題なしと判断して安心した。この状態でまたあの治療を行える自信がなかったからだ。
清揺はここ数日、家事の時以外はほとんど自室に籠っており、食事も一人で取っていた。微明と月澄は軽く言い争いをすることもあるが、明らかに口数が少なくなっている。
理由は分かっている。妖魔王が佐藤を怪我させたことを、清揺のせいだと月澄が責めたからだ。お互い罪悪感があるのだろう。佐藤はアレをお披露目する番かもしれないとやや緊張する。朝の定例会議の時に提案した。
「皆、今日の夕飯は準備しなくていい」
「師匠、ご飯を食べないと丹薬が上手く効きませんよ」
「うん、じゃなくて、私が準備するから皆は手を出さないでくれ」
皆が「えっ」と驚いた顔をするのが分かった。
「まあ見てなさい」
自信ありげな師匠に、弟子はやはり心配の目を向ける。
佐藤は昼食が終わって少しした後、夕飯作りに取り掛かっていた。なんせ初めて作るのだ。現代では軽い自炊をしていたが、ここには電子レンジもIHコンロもない。まず水を汲むところからスタートし、何時間もかけていつもの夕飯の時間より少し遅れて完成させることができた。料理中、心配した弟子が代わる代わる佐藤の様子を覗きに来ていたので、時々つまみ食いをさせた。月澄なんかは途中から佐藤にピッタリくっついて離れず、ずっと話しかけ続けるので正直鬱陶しかった。しかし、毒が完全に抜けきってない体を心配しているのが分かっていたので佐藤は邪険に扱えなかった。最終的には微明がどこかへ連れ出してくれた。
料理を机に並べる。湯気が立つそれは我ながら中々の出来栄えだった。
「湯麺は少し薄いから、自分で香味油を入れて調節してね。饅頭はまだ熱いから火傷に気を付けて。鶏肉は骨が付いてるから飲み込まないように、牛肉もあるから喧嘩しないでね、それと最後に甘味があるんだけど、無理してそれまで食べなくていいか」
「……師匠、もういただいて良いですか」
三人のお腹が同時に鳴る。佐藤は苦笑してどうぞ、と許可を出すと、それぞれ好きなものを自分の皿へ移して口へ運ぶ。佐藤は食事をするフリをしながら皆の様子を伺う。顧 清峻ほど上手くできなくても、せめて食べられるものであってほしいと祈っていた。
「師匠、すごく美味しいです」
久しぶりに共に食事する清揺が佐藤の方を向いてにっこりと笑う。そういえばこの愛らしい笑顔を見るのも数日ぶりだと佐藤は感慨にふける。
「よかった。たくさん食べなさい」
「師匠、全部旨いです。あっ! 湯麵の葱が繋がったまんまです」
「え!? ……本当だ、私のも繋がっている」
「師匠、俺のもです」
皆でそれを掲げて笑う。四人揃って卓を囲めたことに佐藤は胸中で喜んだ。ところどころ野菜の皮が硬かったり、味付けが薄かったりしたが、弟子は文句ひとつ言わずに全て完食し、最後のデザートも平らげてくれた。食器の片づけを行う弟子の背中を眺めながら、佐藤は微明の淹れてくれた熱いお茶を啜る。初めての異国の料理で大変ではあったが、意外と楽しくできた自分に驚く。またやってみよう、と佐藤は新しい料理本を取り寄せることに決めた。
弟子たちが家事を終え、佐藤が座っている周りに腰かける。佐藤が急須から皆にお茶を注いでやると、清揺が恐る恐る話を切り出す。
「あの……」
清揺は右手の変化の術を解いて獣の腕を見せる。以前見た時より大きくなり、爪も伸びていた。少し震えていたので、佐藤はその手を握る。
「清揺、無理しなくていいからね」
「はい、師匠。ありがとうございます。……師匠、私のせいで師匠を怪我させてしまい、申し訳ありません」
「いいんだよ。一緒に食事をしてもう仲直りしただろう? ね? 」
佐藤は月澄と微明を見る。視線の意図を汲んだ二人が頷いて、佐藤に続いて上から手を重ねる。
「じゃあもうこの話は終わりだ。皆が満腹で、一つ屋根の下で揃っている。師はそれ以上を望まない」
清揺は震える声で「ありがとうございます」と呟いた。
次の日から修行と、佐藤と弟子が二人の時間を過ごすルーティンが再開された。丁度清揺の日であったため、佐藤はやすりを持って部屋を訪れた。佐藤が爪を削ってあげると言うと、清揺は獣の方の手を佐藤に預けてくれた。
「師匠、もうお体は大丈夫ですか」
「平気だよ。逆立ちして雲香宮の周りを十周できる」
「傷に響きます……」
清揺は笑っていた。爪の長さを整え終えると、清揺は変化の術で人の手に変える。
「その手を取る方法も見つけないとね」
「……大丈夫です。これは私の罰なんです」
「罰? でも清揺は被害者だろう。何も悪くないよ」
「そういえば師匠、記憶が無くなったんでしたね」
「あ、ああ、うん。まあね」
佐藤は動揺しつつ答える。清揺は複雑そうな顔をしており、気まずい沈黙が流れた。
「……もしよければ、その罰っていうのを教えてくれないかな」
清揺は少し考えて、正座をし直して話してくれた。
「アイツと初めて会ったのは私がまだ家族と過ごしていた時です。山で出会った時みたいに、いきなり割れ目ができて家の中に現れたんです。それで、私のことを花嫁にするって言いだしました。私の前世が彼の恋人だったらしく、生まれ変わった私を迎えに来たと。私はその時まだ五歳になってなかったので、何が何だか分からなくて、蹲って怯えていました」
「その時に手を替えられたのか? 」
「いえ。いつの間にか私は寝ていて、気づいたら朝でした。お父さんとお母さんは何も言わず、ただ泣いて私を雅心宗へ預けました」
「雅心宗って……顧掌門がいる門派の? 」
「はい。そこなら鎮霊司と結びつきもあります。私の前世の魂を沈めて妖魔王を祓ってくれるだろうと親は考えてくれました」
(よかった。清揺の親は清揺を見捨てた訳じゃなかったのか……それと、顧掌門は何故清揺と面識がなかったんだ? )
佐藤は心の中で安堵したと同時に疑問に思ったが、清揺の話を遮らないようにした。
「三年ほどが過ぎて、私は久しぶりに家に帰りました。親が泣いて迎えてくれて、料理を作ってくれたのを覚えています……」
そこで清揺は先日の食卓も連想したのか、少し微笑む。
「でも、妖魔王はまた現れたんです。私を渡さないと、親だけでなく村人も殺すと。なので私は、前世のことは覚えていないので、今世は好きに生きさせてほしいとお願いしました。するとアイツは、自分の右手を私の手の上にくっつけました。約束を忘れないための契約だと。それで帰って行ったので、親はまた泣いて喜びました。でも」
清揺はそこで溜息をついた。佐藤が手を撫でると、彼女は佐藤を安心させるかのように頷いた。
「次の日、村の人たちが妖魔王と関わりがある私達家族を村から追い出しにきました。その時に知ったんですが、私が雅心宗に居た間、お父さんとお母さんは酷い村八分に合っていたんです。お父さんとお母さんをよく見ると、服も古く、とても痩せていました。自分たちがろくにご飯も食べられないのに、私には食べさせてくれたんです」
「村を出る準備をしている時、私に付いた妖魔王の手を見て怖がった村人がいました。鍬で私を殴ろうとしたので、私は咄嗟にやめて、と叫びました。すると、どこかからか妖魔が現れて、その村人を殺し、他の村の人も襲われました」
「気付いた時にはもうほとんどの人は死んでいました。でも、私はその光景を見て、何も後悔しなかったんです」
彼女の目から光が消えて、佐藤は背筋が凍る。
「お父さんとお母さんを虐めていた人たちが消えたんですから、私にとっては当然の報いだと思ったんです。でも親は、私を化け物でも見るような目をしていました。仕方がないですよね。妖魔王の手は下級妖魔を操ることが出来ます。その手がある私は……」
言い淀んだので、佐藤は両手で清揺の手を挟んで撫でる。
「清揺、無理はしなくていい」
「……いえ、もう終わります。それで、私はその目に見られたくなくて、二人を置いて雅心宗に戻りました。雅心宗では私の話は既に伝わっていて、門派の名誉を汚したとしてその場で破門をされました。私はまた家に帰りました。飲まず食わずだったので、疲れて今にも倒れそうでした。家ではお父さんとお母さんは居なくなっていました。逃げたんだと思います。私はそこでようやく、間違ったことをしたと知り、この手のせいで普通に生きられないと悟りました」
清揺は佐藤の手を取った。
「その後は森に居ました。妖魔たちに食べ物を持ってこさせて暮らしていたところ、白宵師叔に拾われました。その後、私は師匠の元へ来ました。これが師匠の記憶が無くなる前の私の生い立ちです。なので、この手は妖魔王との約束でもあり、人を間接的に殺した私の罰でもあります」
彼女は俯いて悔しそうに眼を閉じた後に、真っ直ぐに佐藤を見る。
「でも、師匠は傷つけたくなかったです。師匠は確かに私に体罰を与えていました。でも、妖魔王の言う通り心を入れ替えてくれて、私を真っ当に育ててくれると誓ってくれました」
微明と二筋について話した時の鋭い目を思い出す。清揺にも全く同じ光が宿っていた。
「妖魔王が欲しいのは私の魂です。でも私は私として生まれました。師匠、生まれ変わっても、人の魂は変わったことにならないんでしょうか。前世の私は清廉潔白で誰にでも平等で、虫も殺せなかったそうです。でも私は、親を虐めた村の人たちを今でも許すことが出来ません。これが清廉潔白なのですか? 私と、妖魔王の恋人は全くの別の人間です。……師匠、人は生まれ変わっても、前世に縛り付けられて生きていかなければいけないんでしょうか」
その言葉を聞いて佐藤の胸中が騒めく。清揺は弟子として師の林 香寧に尋ねているのだが、それを貫いて佐藤自身に問いかけられている錯覚に陥ったからだ。佐藤は前世の影響で転生後、弟子三人に同情し、悪役に育てないことに決めた。しかし、本来ならば彼らは邪王として君臨するのが運命だ。
清揺が静かに涙を流すので、佐藤は引き寄せて胸に抱いた。必死にしがみつく手はまだ幼い。いくら意図的でないにせよ、人を殺めたという事実はずっと彼女を苦しめることだろう。
哀れな人間の佐藤は、清揺の質問にきちんと答えることが出来ず、泣き止ませることもできなかった。
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その後、佐藤は弟子たちの修行の付き合いに加え、自身の霊力も高められるように日々訓練を行い、多忙な毎日を送っていた。料理も手が空いた時に行い、レシピ本を見ずに弟子たちの好物を作れるようになっていた。また、弟子からも時々、「師匠の料理が食べたいです」と甘えられたので、佐藤は更に大量のレシピ本を取り寄せた。
「こうして見てると炊飯器と窯って似たような調理器具なのか……」
客間の日が当たる場所に座り、美味しそうな地方の料理名を熱心に眺めて線を引く。一通り目を読み込み、横に積まれた新しい本を手に取る。しかしそれは「番付帳決定版」といったタイトルで、明らかに料理本ではなかった。
「え? 門弟が多い順? 凌霄殿、百草堂、飛燕門……、入りたい門派格付け、龍牙門、夜哭宗、禍華門、かっこいい修真者、楚 寒灯、白宵……え!? 」
知っている名前に佐藤は驚いて、他のページもパラパラと捲る。どうやらこの本はレシピ本ではなく、修真界の門派を独自の基準でランキング化した内容をまとめたものだった。
(白宵師兄がいるということは、弟弟子の林 香寧も載っているのでは!? それに、可愛い可愛い弟子たちも居るかもしれない!!見つけたら教えてやらないと!!!!)
日が暮れた。佐藤は目が血走りになりながら、そのを番付帳を閉じた。本日三度目だった。
(無かった……許せん……暴れん坊ランキングは月澄が一位、綺麗好き一位は微明、優しくてかわいいトップは清揺だろう……)
雲香宮に必要物資を届けてくれる運び屋が来た時、頼んでも居ない番付帳決定版が紛れていたことと、この番付はどうやって集計されているのか尋ねた。いつもお互いに義務的な会話しかしないので、彼らは少し戸惑った後に教えてくれた。
「申し訳ありません。私物が紛れていたようです。また、格付けを決めているのは確かこの辺一帯の商流を掌握している天宝商会かと……。各地の民の代表を数十人ほど集めて定期的に話し合っているそうです」
「町中アンケートを取った、じゃなくて、数百人に聞いて統計を取ったわけではなく、数十人規模で決めているってことですか? 」
「はい。なので、雲香宮のことを知らない人間が参加していることもあるので、結果は気にしない方がよろしいかと……」
運び屋に気を遣わせてしまい、佐藤は苦笑した。
その晩、夕ご飯時に佐藤は「師の中でお前たちは一番の弟子だ」と伝えた。それぞれ「存じています」「はい」「もちろん! 」と返ってきたので自己肯定感の高さに佐藤は喜んだ。
(いつか絶対、その話し合いに乗り込んでランキングを操作してやるからな。覚えたぞ天宝商会……)
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あれ依頼妖魔王が訪ねてくることもなく、比較的穏やかな日々を過ごしていた。弟子の悪念を抑える修行も少しづつではあるが前進している。順調に時が過ぎているように見えるが、佐藤には少し気がかりなことがあった。
───渡雲香君は結界が一つしか張れないほど落ちぶれたのか? 吉報として異界の者たちにも告げよう。復讐の刻が来たと───
妖魔王の言葉だ。林 香寧は異界の者たちの恨みを買っているということだ。しかも少数ではなく大勢。いつこの丹新山に魔の手がくるのか分からなかったため、気を張りすぎて睡眠時間も短くなってしまった。
ある日月澄と佐藤が二人の時についうたた寝をしてしまったことがあった。顔にチクっとした痛みがあって目を覚めると、なんと月澄に膝枕をされており、楽しそうに笑う金の瞳が佐藤を見下ろしていた。
「師匠、まだ眠っていてください」
「……いや、いい。私が寝ている間に悪戯する気だろう」
「もうしました」
(悪ガキすぎる……)
それ以来、月澄の前で寝ないと決めた。
ある日、朝に日課の野菜へ水やりをしていると、丹新山に誰かが入って来る気配がした。複数で、しかもまだ子供だ。ここ一帯は霊気が強いが、稀にその霊気に寄せられた人以外の厄介者が潜んでいたり、野生の大型動物も多い。近くの村人が丹新山に入ることは決して無いのできっと他所から迷子だろう。しばらく動向を探っていたが、どんどんと山を登る気配がしたので、追い返すために佐藤は弟子たちを連れてそこへ向かう。弟子の悪念がギリギリ届かない距離で待機を命じ、佐藤はその侵入者たちの元へ歩いた。
やはり、子供が三人いた。三人の子たちは弟子より少し幼い年齢に見受けられたが、村の子供たちが着ている簡素な服ではなく、人に着せてもらうようなかしこまった身なりをしていた。
それぞれの上衣には糸で模様が縫い込まれ、歩くたびに玉佩が澄んだ音を鳴らす。三人は幼いながらも名家の子息らしい気品を漂わせていた。
「あのね、お父様が言うにはここに仙人が住んでいて天まで声を届けてくれるんだよ」
「でもお願い聞いてくれるかなぁ」
「大丈夫! 僕の父は大商人だから、いくらでもお金があって」
「こんにちは」
「わー!!!」
佐藤が声をかけると、楽しそうに喋っていた三人が固まる。すると勇敢にも、黒髪を高く結い上げている男の子が前に出てきて、佐藤から二人を庇うように手を広げる。まだあどけなさの残る顔立ちではあるが、雰囲気が微明に似ている。しかし眼前にいる彼の方がやや硬い印象があった。眉毛が太いからだろうか。
「こんにちは。この山に住んでいる仙人様ですか? 」
「こんにちは! 私達は怪しいものではありません。仙人様に用があって来ました」
庇う男の子の後ろから、二人の小柄な子供たちが覗き込んで声をかける。人懐こくて礼儀正しい姿に弟子たちを重ね、佐藤は微笑みながらその場に腰を落とす。
「挨拶できて偉いね。私はここより上にある雲香宮に住んでいる林 香寧と申します。残念ながらここに仙人は住んでおりません。一応私は修行中の身でありますが、未熟者ゆえ、ご期待に添える力を備えておりません」
「そうですか……残念です」
佐藤の柔らかい態度に子供たちも警戒を解いた。小柄な二人が前に進み出る。一人はウエーブかかった髪をハーフアップでまとめており、目が丸くて大きい。この中で一番小さく性別不明の愛らしさだ。
もう一人は片眼鏡をしていて、光を受けて煌めく金糸刺繍が全身に入った服を身に着けている。ものすごく高そうなので、お金持ちの父親がいるのがこの子だろう。
「あの、おひとつ聞いてもよろしいでしょうか」
目をうるうるとさせながらハーフアップの子が進み出る。ポニーテールの男の子が一回り小さいその子を気遣うように見ていた。
「はい、どうぞ」
佐藤が答えるとその子は嬉しそうに目を輝かせ、まだサイズが大きな服の袖を払い、拱手の格好で話し出す。
「ありがとうございます、林 香寧先生。私はここより北東にある青都出身の沈 瑾と申します。私は生まれた際に占師に、天が私を欲しがっているため長生きができないと言われました。また、生まれ持った命格は決して覆ることがないため、どんな手を施しても無駄であることも聞きました。親は様々な術師に私のことを見せましたが、結果はどれも同じでありました。先生、私はあと五年でこの世を去る定めです。しかし、私はまだまだ琴を弾き、詩を詠み、各地を巡って旅をし、美しい景色を絵に描いて残したいのです。一介の凡人が命格に逆らうことはできずとも、少しでも因果を外す方法などはありますでしょうか」
佐藤は面食らった。この中で一番幼い子からこんなに重い質問が飛び出たこと、また、難しい単語を淀みなく話していることに。
(月澄より賢い……! )
月澄は遠くでくしゃみした。
ポニーテールの子も進み出て拱手する。
「私は阿瑾の家にお世話になっている玄 桂衝と言います。無礼を承知で私からもお願いです。道士様の立場から阿瑾の質問に答えていただけないでしょうか」
「桂衝、君には関係ないって言ったでしょう」
「しかし……」
「先生、お見苦しい所をお見せしました」
「失礼しました」
二人は諍いをすぐに止め、佐藤に改まって礼をした。
(最近の子はしっかりしている!言い争ってもすぐに手も出ない!!!)
微明は遠くでくしゃみした。
佐藤は必死に頭を巡らしてどう伝えたものだと考える。正しい答えでなくとも、彼らが納得するように導く手助けはしてやりたい。咳ばらいをして話し出す。
「結論から申し上げます。沈 瑾殿が言う通り、命格に逆らうことはできません」
佐藤の答えに、質問者の沈 瑾は堂々としていたが、隣の玄 桂衝は暗い顔になる。
「また、命格に抗うには代償が必要である、という説も存在します。天理に背く以上、相応の代価を払わねばならない。しかもその代価は、千年の修行を経てなお容易には支払えぬほど、重く苛烈なものです。……少々話は逸れますが、願望に代償が付きまとうのと同じことなのでしょう」
「そうですか……」
「それと、終わりを知っているからといって、日々の振る舞いを疎かにしてはなりません。きちんと眠り、きちんと食べ、感謝を忘れずに生きることです。些細な積み重ねこそ、命を正しき道へ繋ぎ止め、心も大きく歪まずに済みます」
「分かりました。先生、ありがとうございます」
玄 桂衝が素早く質問する。
「先生、その対価は他人の魂で代替できますでしょうか」
「阿桂! 」
「ちょっと待った二人とも! 道士先生の前だよ! ほら! 帰ったら美味しいお菓子を用意するよ! 喧嘩しないで! 」
今まで黙っていた片眼鏡の子が止めに入る。興奮したのか沈 瑾が咳をし始めたので、玄 桂衝がその子を背におぶる。沈 瑾は何か玄 桂衝に小言を呟きながらも、大人しく肩に掴まっていた。
すると向こうから三人の子を呼ぶ声がしたので、佐藤は少し見送って彼らと別れた。使用人らしき人と牛車が迎えに来ていたので、やはりいいとこの子供たちだったのだろう。
佐藤が弟子たちの元に戻ると、彼らは神妙な顔つきをしていた。清揺が悲しそうに問う。
「師匠、あの子、長生きできないんですか……」
「天理は覆せない。それこそ、いかなる神仙もだ」
安心させるように清揺の頭を撫でる。すると月澄から強烈な視線を感じたので、佐藤は話しかけた。
「どうした? 」
「……師匠、願望は代償を支払えば必ず手に入れられますか? 」
「願望にもよる。大きすぎるものは駄目だ。例えば、月を求めても決して手に入らないだろうね」
月澄にとって月は己の名前ではなく、見上げる師匠そのものだ。
「では、俺は天理には従いません。仙人より神より偉くなって欲しいものを手に入れます」
「月澄、傲慢が過ぎる……」
佐藤はその瞳に宿る光に言葉を失って、目を背けていた事実に向き合う。やはり彼らは邪王の素質がある。───それも天命であり、佐藤のような取るに足らぬ凡人には逆らえないのだろうか。
肩に見えない何かが重くのしかかる。いや、最初からあったのだ。暗く、深く、闇のように濃い。もしかしたら弟子と初めて会った時、佐藤は突風に吹き飛ばされ、いつの間にか崖の底に落ちていたのかもしれない。そんな錯覚まで陥った。
「師匠、泣いているんですか? 」
月澄に聞かれ、佐藤は不安を取り払うように強く首を振った。例え暗闇の中で手探りで前を進んでいくしか方法がないとしても、佐藤に残された道はそれしかない。三人に向き合って笑い、「帰ろう」と告げた。
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
五年の歳月が過ぎた。
弟子たち三人はすくすくと成長した。その曲線は誰もが目を見張り感心した。白宵師兄だけでなく、その間に雲香宮を訪ねてきた他門派の修行者からも、彼らをただの楼閣に閉じ込めておくのは勿体ないと声が上がるほどだ。三人とも過去が悲惨なものであったため反対する勢力もいたが、それ以上に修真界での活躍を期待する派閥に押し切られた。
また、こんな話もある。
四人は一度だけ丹新山を降りたことがあった。里に割れ目が同時に二つでき、複数の鬼と妖魔が出現したのだ。それを察知した林 香寧が、緊急であったため白宵の指示を待たずに弟子を連れて討伐に向かったのだ。
近くの門派から駆け付けた修真者は、その光景を見て驚愕した。襲撃者はここ十年で見た中で一番大きく、位が高い悪念を持った凶悪な者だった。しかし、数十人が到着した時には既に事は終わっており、一人の師匠と三人の弟子は無傷だった。その場にいた他の門弟は熱心に語った。「私達が三十人いてやっと倒せる悪念を、たった四人で倒した!それも怪我無く!」
そんな声もあったので、中央修仙司は彼らを成人させ、しばらくの監視の後に問題なければ独り立ちをさせることに決めた。佐藤はその知らせを見た時、誇らしさと寂しさで胸がいっぱいになった。
今日はそんな彼らの成人の儀を行った日だった。
「師匠、いつまで俺らの昔の服を抱きしめているんですか? 」
声がすっかり低くなった月澄が声をかける。佐藤は大部屋で箪笥にあった彼らの品を整理していた。
「だって、こんなにちっちゃかったのに……こっち着て合わせて……うわー! 今は三倍はある!!」
「師匠が大きく育ててくれました」
「もっとゆっくりって言ったんだけど……」
「師匠~、ご飯を食べましょう」
鈴のような可憐な声がして、更に美しく麗しい見目に成長した清揺が扉から佐藤を呼ぶ。村の子供たちから仙女様と言われているらしいが、本当に本当にその通りだと佐藤は思う。
(今年の格付けは弟子たち三人が独占だな……)
「あれ、微明は? 」
「居ます」
微明が髪を整えながら音もなく佐藤の目の前に現れる。
「二筋に替わってました」
「そっか。字は喜んでた? 」
「いいえ」
「そっか……」
「そもそもアイツ成人の儀すら理解してなかったぜ。微明兄様、ちゃんと伝えたか? 」
「……」
微明と二筋の関係は四人の中で既に周知の事実だった。今では修意が上がり、微明の意志で完璧に肉体をコントロールできるようになっていたので、今後も支障はない見込みだ。
三人には成人のお祝いとして、佐藤から新しい服と武器を贈った。字はそれぞれが考えたいと言うので、佐藤はそれに従った。
食事中も佐藤は何度も感極まってその度に箸を止めた。弟子はそれぞれ笑い、誇り、呆れた。今すぐ独り立ちをして、佐藤の元を去るわけではない。しかしこれは彼らの華々しい一つの区切りだ。師として傍にいた佐藤は誰よりも感動していた。
「ねえ、成人したんだし今日は一緒にお酒を飲もうよ」
「遠慮します」
「嫌です」
「なんで? 」
「師匠、飲んだら泣いて昔の俺らの話しかしなくなるじゃないですか」
「でも記念だよ? 節目を祝わせてよ! 一杯だけ! 一口! お願い! 」
「分かりました。師匠、今夜は俺と過ごす日です。久しぶりに一緒に風呂に入って月見酒でもしましょう」
月澄の言葉に他の二人がげんなりした。
「風呂か……。まあ今夜は無礼講か。 良い酒を開けよう。清揺と微明は? 」
揃って首を振る。わざわざ藪をつついて蛇を出したくはない、というような顔だ。
「……師匠、風呂の準備は俺がやります」
「お酒は私が出しましょう」
「二人とも、一緒に飲まないのにいいの? 」
「はい。それに微明と私はこの後に虫捕りの予定なので、お気になさらず」
「分かったよ。でもあんまり遅くならないようにね 」
「はい! 師匠」
「はい」
「はっ、折角の善き日なのにお前たちに遠慮してもらって悪いね」
机の下で月澄へ同時に強い蹴りが飛んだ。
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佐藤は先に小浴場の湯に入って月澄を待った。本当は一刻でも早く酒を飲みたかったが、主役より先に楽しむわけにはいかなかった。二人も来てほしかったな~と寂しく思いながら水面に漂っていると、扉が開く音がした。湯気の向こうから人が来る気配がする。
「待ったよげっちょ……、何で裸なの!? 」
「いけませんか? 前はこうやって入っていました」
「いけませんよ。せめて下ぐらい隠しなさい」
「善処します」
月澄と風呂に入るのは数年ぶりだった。当時は彼にねだられて一緒に入ってはいたが、ある日佐藤が突然ストップをかけたのだ。男同士であったしこのまま入り続けても良かったが、今後彼が独り立ちすることを考えて、例え師弟でも適切な距離感を学ばせなければ……という保護者からの責任感だった。
体を適当に拭いた月澄が湯船に浸かると水位が上がる。清揺と微明はまだ佐藤と同じくらいの目線だったが、月澄には背をとっくに追い越されていた。以前見た時は薄くついていた筋肉は、今では山のように盛り上がっており、腕相撲対決をしたら佐藤はもう勝てないだろう。
「はい、持って。注いであげよう」
「ありがとうございます」
「二人も来ればよかったのにね」
「師匠は俺一人じゃ不満ですか。それに清揺は女で、微明は潔癖です。師匠と入ってくれるのなんて俺だけしかいないですよ」
「……たしかに」
若干上からの言い方が気になったが、月澄は昔から生意気だったのですっかり慣れた佐藤は流した。
乾杯をして酒を飲み干す。甘い香りが喉奥へ抜けていき、花蜜のような余韻が舌に残った。清揺が用意した酒は大当たりだ。佐藤は縁に頭を預け、月を眺めて息を吐く。頬に当たるそよ風が心地よい。とてもいい夜だ。
「見て、月も君たちを祝っている」
「はい、明るくて綺麗ですね」
「ね、いい夜だ……」
佐藤が弟子の方を向くと、地上の月と目が合う。彼も同じく夜空を見上げていると思ったので、佐藤は一瞬逡巡した後に盃を向ける。
「師にも注いでくれる? 」
「もちろんです」
「このお酒美味しいなあ。飲みやすいからもう酔いそうだ」
「師匠」
少し改まった口調だったので、佐藤は体を起こして盃を盆に置いた。月澄は笑うと昔の面影があったが、もう今ではすっかり青年の顔つきをしていた。やや獣じみた精悍さはあるが、佐藤の身内の欲目を差し引いても、人目を奪うほど整った顔立ちなのは明らかだ。佐藤の髪と絡まった三つ編みがしっとりと濡れ、まとめた黒髪から垂れている。
「字ですが、師匠からいただいてもいいですか 」
「いいけど、自分で考えるって言ってなかった? 」
「はい、師匠からいただきたいです」
月澄が佐藤の手をそっと握る。手の大きささえも抜かれてしまっていた。二人が立てる微かな水音は、すぐ夜の闇に溶けてしまう。
「師匠の字をください。流雲、俺のは留める雲で留雲です」
「いいけど、いいの? 」
「はい」
よくわからない問いを佐藤はしてしまったが、月澄は佐藤の意図を汲んできちんと頷いた。
「親子で字を受け継ぐのは普通だと聞きました。俺と師匠は家族ですから、問題ないですよね」
「そうだけど、読みも一緒だと混乱しない? 」
「誰にも呼ばせないから問題ありません」
あるのでは……と佐藤は思ったが、月澄に何を言っても無駄だろうと察した。孤児で苗字が無い月澄に、佐藤は林 香寧の苗字を与えたのだ。
「それに師匠は渡雲香君で、いつかは仙道の極致へ向かわれてしまう。俺は、少しでも師匠を傍に引き留めておきたいです」
佐藤の手に月澄が顔をすり寄せる。いつかの走火入魔した時の彼と同じ仕草に、佐藤は言いようもない感情が胸からこみ上げる。
今夜は本当に良い満月だった。山頂で清揺と微明も空を見上げ目を輝かせる。きっと地上ではそうやっていくつもの数えきれない人々が月華を仰ぎ見て、手が届かない玉輪へ無数の願いを託すだろう。
だが佐藤だけは、己の手の中にある月をいつまでも眺めていた。
第一章 おわり
成人した~~~!きゃっきゃ




