香寧の子育て
突如、人界に轟音が鳴り響いた。
それは空気を伝いすぐさま海の向こうまで伝わり、何事かと空を見上げた生物全てを完膚なきまでに絶望させた。
空が大きく縦に黒く裂け、そこから得体のしれない根源的恐怖が発現する。人々は本能で理解した。森羅万象を統べ、破壊し尽くす存在である支配者が魔界から降臨したのだと。
「黒焔魔尊……」
誰かが呟いたその瞬間、あまりの恐怖に気絶する者も現れた。黒焔魔尊と呼ばれた人物は黒い炎に包まれて姿が直接確認できない。しかし、その人影だけで周りを圧倒するには十分だった。人界の地に降り立とうとしたその瞬間、深紅の閃光が黒炎を吹き散らす。
「微明」
「……」
剣筋を受け流した黒焔魔尊は、振り返って襲撃者を呼ぶ。名前を呼ばれた人物は答えない。昔から無口だったので、笑顔で気にせず話しかける。
「いきなり襲うなんて酷いな。ほら、俺の服が少しだけ裂けた。どう責任を取るんだ? お前の首一つじゃ足りない」
再び剣を構えた二人の間に、突如として光陣が浮かび上がる。次の瞬間、空間を突き破るように巨大な妖腕が現れた。人が蟻を握り潰すような質量だった。無論、蟻とは二人のことである。黒焔魔尊と微明が左右へ散った先にも、まるで逃がさぬと言わんばかりに光陣が咲き、再び巨大な腕が唸りを上げて振り下ろされた。
「うわあ! 血冥鬼王と万妖女帝だ!三邪王が揃った!」
遠くからその惨状を見ていた者たちは、恐怖に理性を焼かれ、涙、鼻水、失禁すら抑えられなかった。
人に害をもたらす悪念を振りまきながら戦うその姿は、まさしく災厄の化身だった。周りの木々は呆気なく薙ぎ倒されて、今後十年は更地と化すだろう。誰も、あれを止められる気がしなかった。
皆が固唾を飲んで見守る中、三つの影は大きな音と黒煙を立てながらどんどんと上へと昇っていく。
「どこ行くんだ!? 」
「帰れよおお!!」
「空か!? 雲の上に行ってるぞ!」
「帰れよおおおお!!!!」
「あいつらは何をしに来たんだ!?」
「いいから帰れよおおおおおお!!!!!」
「うるせーぞ!!」
人々の声どころか、地上の喧噪すら一切消えた雲の上、かつて同じ師を仰いだ弟子三人が一定の距離を保って対峙する。皮肉にも彼らの師匠の字は流雲で、弟子らはもうそれを簡単に飛び越える力をそれぞれ手にしていた。
激しい攻防のせいで長い黒髪が乱れ、それを気だるげに掻き上げながら黒焔魔尊が口を開く。
「どうしてここまで来なきゃいけないんだ」
「下に居ると戦うふりをしなくちゃいけないの。やることあるし、さっさと話し合って終わらせましょう」
巨大な妖魔の頭に乗った絶世の美女がよく響く声で応える。右手には似つかわしくない獣の手があり、今にも襲い掛からんばかりに毒爪を伸ばしている。
「貴様、師匠の死体はどうした」
微明の鋭い瞳は剣先のように研ぎ澄まされて、心の弱い者は目が合うだけで切り裂かれそうだ。そんな視線をものともせず、問いかけられた黒焔魔尊は退屈そうに炎を指先で擦っている。
「ようやく喋ったと思ったらそれか。同門のよしみだ。お前たちにも分けてやる。先に味わったけど、なかなかうまか……」
そこまで聞いた微明と清揺は問答無用と言わんばかりに一斉に襲い掛かる。
「黒焔魔尊!お前は結局、阿野の頃から何一つ変わってなかったのね!この野蛮人!」
金の瞳が見開かれ、黒の瞳孔が不気味に収縮する。黒焔魔尊は六界に響き渡るような勢いで吠える。
「俺をその腐った名前で呼ぶな!!! 」
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林 香寧の住処、雲香宮は霊験あらたかな場所、丹新山の中にひっそりと聳え立っている。
修行が足りない者が昇ると命を落としかねないと言われる危険地帯だが、その分霊力に満ちており、高位の修行者が己を鍛えるには最適の地でもあった。時折能力を極めた者が更なる自己研鑽のために雲香宮を利用していたが、最近は人里への悪念の出現率も多く、そちらに手を取られ修行の為に訪れる者は少なかった。
以前は林 香寧の師が頻繁に訪れていたが、彼は既に万民を守る戦いの末にこの世を去っている。修行以外の用では必要物資を届けてくれる運び屋か、林 香寧の師兄の白宵が様子を見に尋ねるぐらいしか客は無かった。
(まあぶっちゃけ寂しいけど、そんな辺鄙な場所でぴんぴんしている林 香寧と弟子たちはすごいってことだ。弟子なんてこんなに小さいのに……)
香寧は目頭が熱くなる。
霊脈が流れる山河の間に横たわる土地は所謂普通の人々が暮らしていた。弟子たちの修行が進んだら一緒に山を降りて祭りでも回ろうと香寧は誓う。
「皆、歯は磨いたか? 終わったらこっちへおいで」
「はい、師匠」
素直に返事をしてトコトコとやってくる三人がヒヨコに見えて香寧はあまりの尊さに顔を手で覆う。理性が無かったら今ごろ抱きしめて腕の中で頬ずりをして通報されて逮捕されていただろう。
「……よし。では午前の修練の前に大事な話を三つ行う」
三人が着席したのを確認して香寧は口を開く。目の前の子供たちは三者三様の面持ちで香寧の話の続きを待つ。
「一つ目。言った通り、師はあの林の中で倒れた際に心を入れ替えた。今後三人に理不尽な叱責をしないことを改めて誓う。しかし、人道に反したり、誤った道を進もうとした際、師は叱ることがある。これは君たちが嫌いだから怒るのではなく、真っ当に生きていくための手助けとして、師は君たちを叱ることがある。いいか? 怒ると叱るは違う。難しいけど今はそれだけ覚えてほしい」
三人の弟子は分かったような分からないような表情をしつつも、しかし師の話を真剣に聞く態度は崩さなかった。
「二つ目。師は心を入れ替えた際、手違いで様々なことを忘れてしまった。もしここの暮らしや皆の中で何か取り決めがあって、師がそれを破っていたら遠慮せずに教えてほしい。これは君たちに以前した約束も含まれる」
金の瞳がピクリと反応した。何か言うかと思って香寧は少し待ったが、特になかったので続けた。
「三つ目。えー、ゴホンゴホン、ええと、これは……」
師匠が突然言葉に詰まったので弟子たちが神妙な顔つきになる。もしかしたら俺たちに言いにくいことだろうか、そんな不安が子供たち三人に静かに共有される中、香寧は腹を決めて口を開く。
「師は君たちが大好きだ!もし反抗期の際……いわゆる君たちがもう少し年を取った後、様々な経験をした君たちは師を嫌いになることがあるかもしれない。しかしその反応は正しい。しかし、これだけは知っておいてほしい。私こと師、林 香寧は君たちの一番の味方で、君たちを大好きだ。以上だ!」
最後は照れくさくて早々に終わらせてしまった。香寧は自分の顔が赤くなるのを感じる。昨日読んだ指南書の中に育児書も混じっており、愛を伝えるのがグッドコミュニケーションとあったので早速実践してみたのだ。
香寧は親に愛されない子供時代であったため、大人に無条件に肯定されることが、今後の人格形成においていかに重要なのかを身をもって知っている。
昨日に彼らの悲惨な境遇を白宵から聞いており、自分と重ねてしまった香寧はせめて林 香寧だけでも彼らを愛し続けようと決めた。というかもう既にけっこうかなり好きだ。悪役になんて絶対にさせない!
「……はい、師匠」
清揺が照れたようにもじもじし、小さな声で返事をする。見れば三人とも顔が真っ赤で、突然の好意にどう反応していいか分からないらしい。そんな不器用なところがいじらしいと、香寧は手を伸ばしそれぞれ頭を撫でる。
「よし、師からの大事な話は終わりだ。皆から何かあるか?」
そう尋ねると三人は互いに意味深に目線を合わせる。言いたいことは全員一致だが、まるで誰が先に言い出すか決めあぐねているみたいだ。
「どうした? 言いにくいか? じゃあ後から個別で……」
「師匠、また俺たちのこと抱っこしてくれますか? 」
金の瞳が期待に潤む。香寧の答えはもちろん一択だ。そのまま立ち上がって、まとめて腕の中に包む。
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修行の前に香寧は弟子たちの霊脈を測った。
清揺の霊脈は問題なかった。しかし彼女の体内の中心の霊脈の根、霊核には、獰猛な霊脈がそれを隠すように幾重にも取り囲んでいた。右手から伝わる、先代妖魔王の霊脈だろう。一見それは襲っているように見えるかもしれないが、彼女の清らかな霊核を誰にも渡さないように、何かに怯えながらひたすらに守っているようだった。
微明の霊脈もいわゆる普通のものと変化がないように見えた。しかし、よく探ると形が似ているだけの異なる脈が複数本連なって体を巡っていた。例えるならば何人かの霊脈が一つの体の全身を流れている。微明に違和感が無いのか尋ねたが、当の本人はその問いに不思議そうにしていた。今のところは様子見だが、後々何かが起こりそうな───そんな嫌な予感がした。何も起こらないでくれー!
阿野に関しては、もう滅茶苦茶だった。
霊気が赤と黒の色を帯び、はっきりと視覚化されているのを確認したまでは良かった。だが、更に霊脈を探ろうとした瞬間、流れていた霊気が指先を伝って香寧の体内へ逆流してきた。一瞬、内側へ侵入してきた濃厚な悪念に総毛立つ。冷たい泥水を無理やり血管へ流し込まれたような、不快で禍々しい感覚だった。
しかし次の瞬間には、それは跡形もなく掻き消える。香寧の体質が、反射的に異物を打ち消したのだろう。本人は無自覚だったので、無意識下の防衛本能というやつかもしれない。さすが未来の大魔王の器である。
香寧は真顔になった。緊急時でもない限り、阿野の霊脈には不用意に触れないでおこうと固く決意する。
そしてもれなく全員、悪念が全身を漂っていた。
まるで彼ら自体が悪念無限生成器みたいに湧いてくる。もし悪念が価値あるものだったら捌いて大金持ちになっていたかもしれないほどだ。
弟子の相手が香寧でなかったら、とっくに侵されて惨い目にあっていたに違いない。さらに幸いなことに、三人の悪念は互いを拒み合うように干渉しなかった。
この悪念を抑えるのに必要不可欠なのは強い霊脈だ。彼らは資質を兼ね備えている将来有望な若者なので、しっかり修行をし、健全に成長すればうまくいく可能性が高い。小さく灯った希望に香寧は胸を躍らせた。
「えーと、清揺は基礎体力作り、微明は周りを見ないから明心境、阿…彼は我が強すぎるから忘我境……初心者向けの指南書はこれか」
昼飯の後、自由時間を設けて香寧は弟子たちの修行内容を練っていた。
林 香寧の本棚には指南書こそ数多くあれど、私的な記録帳などが一つもなかった。あわよくば阿野を拾った当時の日記なんかが残っていればなんて思ったが、もちろんあるわけがない。そして弟子たちが香寧の元でどんな修行をしていたかの記載も一切なかった。きっと同じ修行メニューを全員にさせていたのだろう。
(指南書をちゃんと読んで理解していたのか!? 弟子の人数が多いならまだしも、弟子はたった三人で、しかもまだまだ幼いんだから何でもさせないと)
前世の香寧にはこの元の体の持ち主のことが本当に理解できなかった。どうして弟子三人を邪王に育て上げることができたんだ。どうして幼い子に平気で体罰を与えられたんだ。どうして……。
そうして鏡を見るとますます訳が分からなくなる。どうしてこんなに柔和な顔立ちなのに、悪役ポジなんだ……!
香寧は紙に筆で絵を描く。前世の香寧はメモ魔だ。今は手元に和紙しかないが、住んでいたアパートの部屋にはホワイトボードやらカレンダーやら日記帳がいたるところに設置されていた。スマホのメモ帳には買い物リストからアニメ放送日や給料推移など様々な事柄が記録されていた。
それこそ創作活動などはしたことなかったが、何か文字を書くことで思考整理にも繋がるので、事あるごとにペンを手にしていた。
香寧は挿絵を思い出しながらみんなの似顔絵を描く。確か主人公は髪を頭の上に束ねてたっけ。それで白宵は真っ白。実物は本当に絵から飛び出てきたみたいだった。共通していたことは皆超イケメンだった。
あ!!清揺も微明も超美形だった!
清揺は万妖女帝と呼ばれていた。ウェーブがかった髪を揺らし、派手な髪飾りをいくつも付け、ふわっふわのピンクの衣装を身に纏っていた。悪役だったが、天女みたいな神聖な恰好がよく似合っていた。
微明は血冥鬼王で、潔癖がたたりすぎたゆえに鼻と口を覆うマスクを着けていた。髪型がポニーテールで常に剣を携え、服装も隠密用のものだったから、鬼ってより忍者みたいな風貌だった。
悪役だったが、三邪王は作品内でも特に人気のキャラだった。そしてその中でも一番人気はやっぱりラスボスの黒焔魔尊だ。かなり横暴な性格だったが、一人の人を大切に愛し続けていた。
香寧は筆を動かす。黒焔魔尊は黒の長髪を靡かせ、燃えるような金の瞳で世界を睥睨していた。常に黒炎を纏っているせいで表情は見えづらいのに、不思議と笑っているのだけは分かるのだ。作中では何度も人界を壊滅寸前まで追い込んだが、同時に「こいつが画面に出ると全部持っていく」と言われるほど存在感が凄まじかった。炎を操る姿も圧倒的に派手で、特に長衣を翻して空から降りてくる場面は人気投票でも伝説になっていた気がする。体格はしなやかなのに無駄なく鍛え上げられていて、細身の衣装の上からでも分かるほど肩や腕の線が綺麗だった。あれで戦うたびに髪が乱れるのだから、そりゃ人気も出る。
「いやでも性格は最悪だったな……」
「師匠、なに書いているんですか?」
「わ! 」
完全に油断していたところに声をかけられて香寧は机の上の硯をひっくり返しそうになる。声の主は阿野だ。なんと窓から部屋を覗き込んでいる。
「どこに居るの!? 」
「ここです 」
「ここですってここ四階……早く入っておいで! 」
窓を開けると草まみれの少年が窓枠を乗り越えて部屋へ転がり込んでくる。獣の子供みたいだ。不謹慎だがどうして林 香寧が彼に野という名前を付けたのか少し納得した。
香寧は窓の下の地面を覗き込んで、その高さに身震いした。
「あっぶな……もう二度とここに登らないように。落ちると怪我して危ないからね」
「落ちたことないです」
「分かったね」
「……は~い」
香寧の注意があまり響いてない返事に苦笑する。口調を伸ばさないよ、と注意しながら少年の開いた口を香寧の二本の指で閉じると、首を縦に振っていた。
「次に見つけたら、そうだな。風呂に入ってもらおうかな」
「き、昨日入りました」
「一分も入ってなかったって微明から聞いたぞ」
川に入ってるし……ともごもごと言い訳をしつつ少年は身震いした。香寧が席に戻ると、机の向かいから阿野が無邪気に覗き込んでくる。
「師匠、この人は誰ですか? 」
ぼさぼさの頭にくっついていた瑞々しい色をした葉がひらりと落ちる。阿野の髪から落ちた青葉を、香寧はなんとなく摘み上げた。
「これは……架空の人だよ」
違う世界線の君たちの似顔絵を描いてました~なんて言ってどうなるものか。香寧は拾った葉っぱを口に当てて草笛を試す。施設で他の子どもと草笛競争をしたことを思い出す。しかし、昔と違って音が上手く鳴らなかった。
「師匠はこの人が好きなんですか? たくさん描いてある」
(実は全員違う人だよ! 悪かったな画力が無くて!)
「ん~。まあ、好きと言えば好きかな」
「ふーん……」
というかそれ、闇落ちした場合の将来の君なんだけど……と口が裂けても言えない。
香寧は一向に鳴らない草笛を諦めて机に落とすと、金の瞳がそれを捉える。
「師匠、草笛はこうやって鳴らすんです」
香寧が散々吹いた葉を、彼は器用に丸めて口に咥える。
ピーと甲高い音が響く。清涼感があるそれはどこまでも吹く風のようだ。普段はボサボサ頭を振り乱しているので気付かなかったが、こうして間近で観察すると、笛を吹く阿野の横顔は鼻筋がしっかりとしていて、輪郭がかなり整っている。さすが将来の原作人気ナンバーワン黒焔魔尊。既にイケメンの片鱗がうかがえた。
明るい日差しの中で笛を吹く少年って絵になるな~と香寧が彼を眺めていると、太陽光が強く当たった部分の髪色が真っ赤になっている。普段は黒髪に見えるから気が付かなかった。ああ、だから霊気も黒と赤なのかと感心していると、阿野は吹いていた葉っぱを唐突に口に入れそのまま飲み込む。
出しなさい!と香寧が注意する前に、少年はさっさと部屋から姿を消した。……本当に春嵐のようだ。
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その夜、香寧が一日のスケジュールを終え眠りにつこうとすると、誰かが建物の外へ出ていく気配がした。
いくら林 香寧の全身が天才でも、体を扱う前世の佐藤はまだ未熟なため、弟子の中の誰が移動しているかまでは特定できなかった。
足音を殺し、遠くから後を追う。どこに行くんだろう。まさか俺の事が嫌になり山を降りて逃げようとして……?そこまで考えてゾっとして思考を振り払う。
しばらくすると、剣を振りまわす音が聞こえてきて、同時に女の子の嗚咽もする。どういう状況!?と心配し、木に隠れながらそっと覗き込む。
そこには、 清揺が泣きながら剣の型を繰り返している姿があった。その型は今日の午前中に三人に教えたばかりのものだ。
清揺だけが上手くできなかったのだが、それは当たり前だ。男二人はまだしも、清揺はまだ体が細く、今の型では踏み込みに耐えきれない。香寧は型を無理に続けさせず他の項目を練習させた。
型の練習は無理にしなくていいと伝えた時、清揺は平気そうに頷いていた。だが本当は、自分だけ出来なかったのが悔しかったのだろう。こうして夜中にこっそり抜け出して、少し離れた場所で復習している。しかも泣きながら。
香寧は声をかけるべきか迷った。あんまり遅いと明日に響くから心配なのだが、それ以上に今頑張っているところを邪魔したくない。彼女はわざわざ人気のない場所でただひたすら同じ型を繰り返している。
香寧はしばらく見守り続けた後、驚かせないよう、一度わざと距離を取り、大きめの足音を立てて近づいた。もう涙の痕は乾いて、薄暗いと見えないほどの時間が経過していた。
「清揺、夜中に建物の外に一人で出てはいけませんよ」
「……ごめんなさい師匠」
不良目的ではなく、練習しているのは誰がどう見ても明らかなのに彼女は言い訳をしなかった。もしかしたら林 香寧がまだ怖いのかも、と思い立ったがそれは誠実な清揺に失礼な考えだと香寧は頭から消す。
「ですが師が一緒なら問題ありません。次からは必ず私に声をかけてください」
「いいんですか?」
「もちろん。そうしたら、型も見てあげられる。だけど今日はもう帰ろう。さあおいで」
清揺が笑って駆け寄り、屈んだ香寧の背中に飛びつく。
それから二人は時々夜中に型の練習をした。また香寧は、清揺の獣の爪が残る右手に変化の術を施し、人間の手にしてやった。そもそも型ができないのは、刀が上手く持てないからだ。師匠として見逃してしまった香寧は自分を責める。清揺は時間が遅くなっても手を抜かずに懸命に練習に励んだ。
そうしてようやく型が完璧に成功した夜、二人は即興の喜びの舞をした後にこっそりと雲香宮へ帰った。今夜は特別に肩車だ。しかしすっかり油断していて、その姿を、暗闇の中から金の瞳がじっと見つめていることに、香寧は気付かなかった。
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ガシャン!と金属製のものが割れる音が遠くから微かに響いた。それは丁度夕飯前だったので、もしかしたら料理中の子供たちの手が滑って茶碗か何かを落としたのかもしれない。お節介だと自覚しつつも香寧は自室から台所へ急いだ。近づくにつれ何か言い争う声もする。見ると、三人がお互いに服を掴み合っているではないか!
「三人とも!離しなさい!何をしているんだ! 」
「師匠……」
大きく見開かれた金の瞳の中の黒い瞳孔が、香寧を捉えた瞬間ギョロリと膨らむ。香寧は彼の悪念が体内に逆流する瞬間を思い出し身震いした。
「師匠、師匠! なんで清揺ばっかり構うんですか? 二人で夜中にこっそり遊んでいた!」
見られていたのか! と驚く香寧が躊躇していると、清揺が素早く反論する。
「だから! あれは師匠に練習を見てもらっただけ! 遊んでない! 信じてよ! 」
「一緒だ!肩に乗せていた!ずるいずるいずるいずるい!」
「手を放せ野蛮人!清揺の首が締まる! 」
微明の言葉を聞いて香寧はハッとした。阿野から清揺を引き剝がし、彼女を守るように腕に抱え込む。
「師匠!なんで清揺ばっかり!女だから!?女だからだ!ずるい!!」
「いい加減にしなさい!」
香寧の大声に腕の中の清揺も驚く。一喝された阿野は香寧を見つめた後、震えた拳を握りしめて俯く。
「ずるい、俺も師匠と遊びたかった……」
ぽつりとつぶやかれた言葉に香寧の胸が引き裂かれそうだった。清揺に声をかけ、微明と共に椅子に座らせる。微明が「阿野が先に手を出した」と言ったのを聞いて、彼は逃げ出そうとした。
香寧が呼び止めて阿野を引き寄せようとすると、手を振り払われたので無理やり腕の中に閉じ込める。
「師匠やだ! 俺が悪かった! 師匠に謝ります! 」
「謝る相手が違うだろう」
「だって、清揺が悪い! 師匠を独り占めしてた! ずるい、ずるい、俺だって……」
阿野は相変わらず風呂に入ってない匂いがしたが、香寧は構わず抱きしめて頭を撫でる。
「そうだな、それに関しては悪いのは私だ。すまなかった」
「師匠は悪くない! 悪いのは……」
そこまで言って香寧の腕の中の少年は黙る。彼の本能のままに生きるのは玉に瑕だが、その分聡いので自覚しただろう。
「自分の気持ちの整理ができたら、きちんと清揺に謝りなさい。許してもらえなくても言葉にするんだ」
「はい、師匠……」
「それと『女だから』『男だから』は使わないと約束しただろう」
「はい、ごめんなさい……」
「もう。分かっているのにこの子は……」
最後に強く抱きしめて背中を叩く。香寧は三人と一緒に席に着く。
「清揺が言っていた通り、型の練習を見ていただけだ。遊んでなどはいない。しかし、三人の中で一人だけ目にかけてしまったのは事実だ。今回は私の落ち度であり、誰も悪くない。どうか私を許してほしい。許してくれるのであれば、今後もこの件で争わないこと、いいね」
清揺と阿野は互いに何か言いたげだったが、コクリと頷く。
しばらくの沈黙の後、阿野は小さな声で呟いた。
「清揺、俺カッとなって、酷いこと言って、それに首元を強く掴んでごめんなさい」
「……いいわよ。でも次にしたら股間を蹴り上げる」
その言葉に男どもが身震いした。
「よし、いつも通りになろう」と香寧が声をかけると、緊張が緩和され、皆お茶を飲む。阿野が口元を乱暴に拭いながら香寧へ話しかける。
「ねえ師匠、清揺を特別扱いしたんだから、俺も特別扱いして」
「だから、その話は終わり……」
「師匠が清揺だけを特別扱いしたことと、俺が清揺を責めたことは別問題だ。それに、微明だって羨ましがってた!」
その言葉に思わず微明を見ると、目じりが赤くなった微明が香寧からさっと目を逸らす。
香寧は己の力不足を痛感した。子育てって、ほんとーに難しい……。世の中の親御さんに感謝した後、息を深く吐いて腹をくくる。
「分かった。皆、私とキスしよう」
「「「え!?」」」
弟子三人が大きな声を上げる。それを拒否と受け取った香寧の眉間に皺が寄る。
「なに? さっきまで散々私を取り合っておいて、私とのキスが嫌なのか!?」
「ちっちが、ちがうよ師匠! なあ!」
「はっはい、本当です! でっでででも、ききき」
「っ! 」
「私は皆のことが同等に好きで平等に扱っている。それを証明したいんだ」
阿野はぎゃあぎゃあと喚いているが、香寧と目が合うと乗り出していた体を戻し、足を揃えて手を膝の上に置く。
それが合意だと判断した香寧が隣の阿野の両肩を掴むと、彼は一層震えながら口を開く。
「し、し、しししししょ、おれはじめてだからっ」
そのまま身を乗り出して、頭に唇を当てる。香寧が体を離すと目をギューッと閉じていた阿野が瞼を開き、状況を確認してぽかんとした顔をする。
「師匠! え! ちがう! キスってくち!口にして! 」
「くち? するわけないだろう! 」
「だってキスって、あ!! 師匠拭いてる! 俺汚いってこと!?」
「風呂に入りなさい!! 」
「……! 」
反論できず悔しそうに震える彼を横目に香寧はそのまま立ち上がり、清揺に向かってしゃがむ。清揺も背筋を伸ばして大人しくしている。彼女の頭に同じく唇を当てた。さきほどとは気持ち分優しく。
清揺は嬉しそうに恥じらっている。
顔を上げて、最後の弟子を見やる。もう耳まで真っ赤だった。
「微明、おいで」
「っ」
ここ数日過ごして分かったことがある。微明はあまり喋らないが、嫌なことはきちんと断る性格だ。香寧の呼びかけに返事こそしないものの、拒否もしない。
さっき他の二人へは不可抗力ながらハグしたので、平等に扱うために香寧は微明を抱きしめたまま、頭にキスを落とす。微明は体こそ強張っているが香寧を受け入れる。そんな姿がいじらしい。もう顔全部が真っ赤だった。
「師匠、微明のことぎゅーってしてる。俺だけ特別扱いしてって……」
「私は皆が好きだ」
「でもだってぇ……」
確かに、清揺の練習に付き合った分、公平に阿野と微明にも練習に付き合うべきだろう。しかし、ここまでしてまだ欲しがる阿野はこの先も満足するだろうか。微明も内心は怒っているかもしれない。
それに今後また不可抗力で一人の弟子に付き合ってしまうと、またこういった喧嘩が起きる可能性がある。ああ、俺が三人いれば……。
(ん?増やすのではなく三分割すればいいのでは? )
「分かった、こうしよう。師と日替わりで二人きりで過ごそう。夕飯後の二時間、私がみんなの部屋へ行くので、そこでしたいことをなんでもしよう。修行でも遊びでもなんでもだ。どうだ?」
香寧は我ながら天才的だと思った。これには皆が賛成した。
三人は切り替えが早いため、先ほどの険悪な空気は一切なくどの妖怪が強いかの話題で盛り上がりながら食事の準備を再開した。
遅くなった夕飯を囲んだ後、香寧は部屋へ戻るために立ち上がる。そういえば騒ぎが聞こえて駆けつけて以来、仕事を机の上にやりっぱなしだった。階段を上ろうとする香寧の袖を後ろから引っ張られた。
「師匠。今日は俺からですよね? 」
明日からだと思っていた……。そんな無粋なことは言えないので、香寧は頷く。金の瞳がとろんと溶けて甘い蜜みたいだ。
「師匠のお望み通りお風呂に入りましょう。俺、待っていますからね」
強く掴まれて曲がった袖は、彼が去ってもその形のままだった。




