第1話 爆笑
「ガア゛ア゛ア゛ーーー」
目の前にいるそいつは、人の形をしていた。だが、もう人間と呼べない姿だった。
近くには、そいつに殴り飛ばされたのか、壁にもたれかかるように倒れている少女がいた。
少年は、炎をまとった拳を見つめる。涙が地面に落ちた。
「ごめんな、ちゃんと見れてなくて……」
***
「うわ!やっべぇ、寝坊した!」
陽坂笑徒は、制服の袖に腕を通しながら、ドタドタと階段を駆け下りた。リビングに着くと、食事を終えた父親は新聞を読んでおり、母親は空いた皿を片付けていた。
「なんで起こしてくれなかったん??」
笑徒は水を飲みながら母に尋ねた。
「あんた、もう高校生なんだから自分で起きなさいよ!ねぇ、あなた??あっ!でも今日、誰かさんも、寝坊しかけたわよね、確か……」
そう言うと母は、新聞を読んでいた父に視線をやり、父は新聞を持ち上げ、急いで顔を隠した。
母の言葉を聞き流しながら笑徒は、洗面台に向かった。顔を洗い、歯ブラシをくわえたままカバンに教科書を詰め込んでいく。
「ん……」
笑徒の手が止まった。
「まて、お父さんも起こしたならついでに俺も起こせよ!なんで俺だけハブるんだよ!」
母は待ってましたと言わんばかりの顔で、両手を腰に当て、
「それねー、忘れてたのよね~。どんまい笑徒!!!」
母は得意げに親指を立ててきて、笑徒はいつものことかと思いつつため息をついた。
「それじゃ、いってきます!」
笑徒は玄関の扉を勢いよく開けると、学校へ向かって走り出した。
「急げばまだ間に合う!!」
キーンコーンカーンコーン
チャイムが学校に鳴り響く。
笑徒はまだ廊下にいた。
「まずい……」
笑徒は足取りを速めて教室へ向かう。チャイムが鳴り終わると同時に、教室の扉に手を当て勢いよく開けた。
バンッ!
教室中の視線が、一斉に笑徒に向けられた。
「はい、ギリギリセーフ!やればできるやん俺!」
笑徒はネクタイを緩め、上着の襟元で扇ぎ、風を送りながら席に向かおうとした。すると、教卓の前に立っていた先生に肩をつかまれた。
「いいや、笑徒、大遅刻だ……」
「何言ってるんだよ、山口先生!チャイムが鳴り終わる前には教室にいましたやん!ちょっと、過ぎたかもだけど、それは大目にみてもろて!」
笑徒は両手を合わせ、頭を下げて先生にお願いした。頭を上げると先生は、呆れた表情をし、時計を指さした。
「今は10時で、さっきのチャイムは一時間目の終わりのチャイムだ。」
笑徒は目を見開いた。「まさか、まさか」と思い、時計の方へ視線を移す。時計の時刻は10時2分を指していた。
「ん、何かがおかしい。」
「まだ寝ぼけているのか??顔でも洗って、その後に生徒指導室に行きなさい。」
先生はそう言うと、教卓に戻り、授業終わりの挨拶をし、教室を後にした。笑徒は顎に手を当て思考を巡らせているようだった。
「……待てよ。俺が10時に学校に着いたってことは、父さんも会社遅刻じゃね?なんであんな優雅に新聞読んでたん?いや、そんなことより、母さん!時間くらい教えろよ!」
笑徒は遅刻理由書に「母親の陰謀」と書いて提出した。
生徒指導室での説教は、思っていた以上に長引いた。終わる頃にはすっかり昼休みになっていた。
教室の扉を開けると、弁当のいい香りが笑徒の腹を刺激した。
「腹減った〜! そういや、朝から何も食ってねぇ!」
笑徒は腹に手を当てながら自分の席に着いた。すると、後ろから肩を強くたたかれた。
「よっす!しょーと!なになに、今日はどうしたん??」
吉本樹は笑徒の前の席に腰をおろし、背もたれに腕を乗せ、後ろを振り向いた。
「普通に寝坊。ガチやったわー」
笑徒は背もたれに体を預けながら答えた。
教室の扉が開いた。
教室に入ってきた男子生徒は、笑徒を見つけるなりニヤリと笑った。
「なな、なんと!高校生になってもなお!!時計の読めない、義務教育の敗北者。その名も!ふぃさかーーーしょーとー!!!!」
最上湊は満面の笑みで笑徒の隣に座り、なれなれしく肩を組み始めた。
「今のお気持ちはいかがでしょう????」
「オレ オマエ ナグリタイ」
笑徒は拳に息をあて湊の方を向いた。
「じゃあ、そことそこ、試合決定で。」
樹は笑徒と湊の二人を交互に指さしながら、椅子を少し引いた。
「やめて!!俺おやじにもぶたれたこと無いのに!!」
湊は自分の手を体に巻きつけ、笑徒から距離をとる。
「ハハハ!私の拳を受けてタダで済んだものはいない!なぜなら、殴ったことが無いからだ!」
笑徒は拳を振り上げた。
「くらえっ!」
だが拳は湊の顔の前で止まった。笑徒は握っていた指をほどくと、湊の額に向かってデコピンをくらわせた。
一瞬の沈黙の後、樹が思わず吹き出していた。笑徒と湊もつられて笑いだす。
「ご飯食べよ!ご飯!!俺、今日何も食べてないんよ!お腹ペコペコ。」
そう言って笑徒は、カバンから弁当を取り出し、机の上に置いた。
樹と湊もそれに合わせて、弁当や菓子パンを出し始めた。
「そういえば、今日何時集合??」
湊が菓子パンをほおばりながら尋ねた。
「んーいつでもいいけど、お前らの準備次第でいいよ。」
笑徒はそう言うと、再び弁当に箸を伸ばした。
「久々だな〜、笑徒の家!今日こそは、笑徒にゲームで勝つ!泊まりだから、オールで勝負だ!!」
樹は笑徒に箸を向けた。
「箸を向けるな!箸を!!!まあ、望むところだ!」
笑徒は樹の箸を指して注意したあと、ニッと笑った。
夕方。
「じゃあ、準備できたら家来いよ~!」
笑徒は手を振って、湊を見送った。
「うん、すぐ行く!」
湊も手を振り返し、帰路に着いた。
少し歩くと、辺りの家々から話し声が聞こえてきた。
「母さん、今日のご飯何~?」
「弁当箱洗いたいから、早く出してちょうだい。」
湊がいつもの曲がり角を曲がると、見慣れた家が姿を現した。周囲の家々には明かりが灯っていたが、その家の窓は薄暗いままだった。
「……ただいま。」
湊は靴を脱ぎ、家へとあがる。リビングのソファーには、母が座っていた。乱れた髪の下には濃い隈が浮かび、頬は以前よりもこけていた。
床にはゴミが散乱しており、その中には、父親と知らない女性が写った写真があった。
湊は二階の自室に向かい、着替えや必要なものをカバンに詰めた。準備を終えると、再び階段を下りた。
「母さん、今日友達の家に泊まるから……。」
母は、眉の一つも動かさず、テレビを眺めたままだった。湊は少しの間を置き、玄関へ向かった。
玄関の扉を開ける。湊はもう声をかけることはなかった。




