恵の雨と合図
馬車で揺られること1時間。
目的の村へ到着した。
広がる畑には青々とした野菜が並び、朝露をまとった葉が陽光を受けて輝いている。
「ようこそお越しくださいました、公爵様!」
農民たちが深々と頭を下げる。
「お初にお目にかかります、奥様」
クラリッサも微笑んで頭を下げた。
「本日はよろしくお願いいたします」
セオドリックに続き、畑へ足を踏み入れたクラリッサはしゃがみ込む。
そっと地面へ手を伸ばした。指先ですくった土は、さらりと崩れ、驚くほど柔らかい。
「……ふわふわ」
思わず声が漏れる。
少し握ると適度にまとまり、力を抜けばほろりと崩れた。
「とても良い土ですね」
そう呟いた瞬間、周囲が静まり返る。
「……」
農民たちは目を丸くしていた。
「公爵夫人様が……土を?」
「素手で触っておられる……」
「貴族のご婦人は、汚れるのを嫌がるものだと思っていたが……」
ひそひそと声が交わされる中、クラリッサは周囲の様子に気づいて首を傾げた。
「何か、いけませんでしたか?」
「い、いえ!」
年配の農夫が慌てて首を振る。
「この土をそんな風に見てくださるご婦人は初めてでしたので……。嬉しいのです」
クラリッサは少し照れたように笑った。
「もっと畑のことを教えてください」
農民たちは顔を見合わせ、それからにこりと笑った。
◇
「今年は出来が良さそうだな」
畑を見渡しながら、セオドリックが穏やかに口を開く。
「ええ。今年は雨が多く降っていますから」
農夫が嬉しそうに頷いた。
クラリッサは小さく首を傾げる。
アストレア王国では、雨は喜ばれるとは限らない。降りすぎれば根が腐り、日照時間も減ってしまうからだ。
それに気づいたセオドリックが静かに口を開いた。
「ヴァイスガルドの雨には魔力が含まれている。土へ染み込み、作物の栄養になるのだ」
農夫が嬉しそうに続けた。
「だからこの国では、雨は多いほどありがたいのですよ」
別の農婦が、籠いっぱいの野菜を抱えながら笑顔で続けた。
「その雨で育った野菜にも魔力が宿りますからね。この大地の恵のおかげで、私たち龍人の体は頑丈なのです」
クラリッサには馴染みのない話だった。
ふと、気になることがあった。
「人間でも、魔力の恩恵を受けられるのでしょうか?」
「いや。人間は魔力を吸収できない」
「……そう、ですよね」
魔力を扱える人間の話は聞いたことがない。
そう思っていると、セオドリックが静かに続けた。
「だが、魔力を溜めることはできる」
「魔力を溜める……?」
農婦が赤く熟した野菜をクラリッサに渡す。
クラリッサはそっと両手で受け取った。
「龍人の母は溜めた魔力を赤子に与えることができるのですよ」
「龍人でなくてもできるのですか?」
「奥様は青い瞳をお持ちですから」
ふと、セオドリックの瞳と視線が合った。
「……受け取れる量は子の瞳の色次第だが」
農民たちの表情が明るくなる。
「お二人のお子様なら、素晴らしい龍人になられることでしょうね」
「青……いや、金の瞳のお子様かも…!」
「これは頼もしい!」
突然向けられた期待に、クラリッサは笑顔を浮かべた。
「そ、そうですね……」
けれどその笑みは、どこかぎこちなかった。
それを見ていたセオドリック。
「ここからは、二人で見てまわる。案内ご苦労だった」
農民たちは頭を下げ、自分の持ち場へ戻っていく。
「行こう」
セオドリックに促され、ついていくクラリッサ。
◇
農村を離れ、二人だけで畑道を歩く。
景色に気を取られていたクラリッサの足が、小さな石につまずいた。
「きゃっ」
身体が傾く。
その瞬間、ぐっと引き寄せられた。
「平気か」
気付けば、セオドリックの腕の中にいた。
「は、はい……!」
慌てて体勢を整える。
「あ、ありがとうございます」
頬が熱い。
ほんの一瞬触れられただけなのに、心臓が騒がしく脈打っていた。
セオドリックは少し考え込むように視線を落とす。
「……一つ聞いてもいいだろうか」
「はい」
「君は、私に触れられるのは嫌か」
突然の問いに、クラリッサは目を瞬かせた。
「嫌、ではありません」
即座に否定する。
「ただ……」
言葉を探す。
「緊張してしまうのです」
本当の気持ちだった。
セオドリックは静かに頷く。
「そうか」
しばらく沈黙が流れる。
やがてセオドリックは静かに口を開いた。
「私は君が嫌がることはしない」
クラリッサは驚いて顔を上げる。
「もし、君が私に触れられてもいいと思える日が来たなら」
氷青の瞳がまっすぐこちらを見る。
「その時は合図をくれ」
「……」
クラリッサは小さく頷いた。
「……はい」
セオドリックが歩き出す。クラリッサはその背を追うように、一歩踏み出した。
畑を渡る風だけが、静かに二人の間を吹き抜けていった。
◇
その夜。
クラリッサはソファへ座り、一人考え込んでいた。
(触れられてもいい、ってそういう意味よね……?)
鼓動の音が速くなる。
(私がこの国へ嫁いできた意味を考えれば……)
今すぐにでも”合図”を送るべきなのだろう。
(でも……)
胸が苦しくなる。
(私はまだ、何もできていない)
公爵夫人としても。
妻としても。
セオドリックに認めてもらえるようなことは、何一つ。
それに──。
(『子どもはいらない』は……まだ撤回されていないもの)
彼は以前そう言った。
(そもそも……合図って何をすればいいの?)
言葉で?抱きつく?そんなことを考え始めると、頭の中がぐるぐると回り始めた。
その時、部屋の扉が静かに開く。
セオドリックだった。
思わず、立ち上がるクラリッサ。
「今日は、私がソファで寝ますから」
「駄目だ」
即答だった。
「君はベッドを使え」
「いいえ、セオドリックが!」
しばらく見つめ合う。
どちらも譲らない。
セオドリックがクラリッサに近づく。
「また運んでもいいが?」
焦ったクラリッサは勢いのまま口にした。
「そ、それなら、一緒に使いましょう!ベッドは広いのですから!」
言葉が部屋に響く。
(しまった……!)
頭の中で警鐘が鳴る。
(こ、これって……合図には当たらないわよね?)
内心で大慌てになっていると。
セオドリックの口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
気のせいかもしれないほど、小さな笑み。
「……わかった」
青い瞳が穏やかに細められる。
「安心しろ。合図とは思わない」
その一言に、クラリッサは胸を撫で下ろした。
二人は同じベッドへ横になる。
互いに端と端。
それでも、意識はセオドリックの方へ向いてしまう。
(き、緊張する…!)
ふと、セオドリックの香りが漂ってくる。
緊張するのに、不思議とずっとこのままでいたくなった。
やがて、ゆっくりと思考が遠くなり、クラリッサは静かに眠りについた。
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