大事なこと
クラリッサは夜更かしをして資料を読み漁ることはやめた。
もちろん学ぶことをやめたわけではない。
(何十年も公爵家を支えてきた人たちに敵うはずがないもの)
皆、それぞれの立場で長い年月を積み重ねてきた。
だからこそ、頼れるところは頼ればいい。
公爵夫人だからといって、すべてを一人で抱え込む必要はないのだ。
その代わり――。
(力の使い方だけは間違えないように)
公爵夫人という立場には大きな影響力がある。
自分の判断には責任を持ちたい。そう決意していた。
エレノアが机に地図を広げ、声をかける。
「お待たせいたしました。それでは、旅程の確認をいたしましょう」
クラリッサは気持ちを切り替えるように、エレノアへ視線を向けた。
「よろしくね」
「帝都を出発後、途中で一泊し、二日目の夕刻には領都へ到着する予定です」
「予定より早いのね」
「龍馬を使いますので」
龍馬。龍の血を受け継ぎ、普通の馬を遥かに超える速さで駆ける生き物だ。
嫁ぐ日、迎えに来た龍馬を初めて目にした時の驚きを、まだ覚えている。
皇族の許しがないと使えない馬だ。皇帝陛下の心遣いに、クラリッサは静かに感謝した。
「同行するのは護衛の騎士数名とミレイユです。私はこちらで、お帰りをお待ちしております」
クラリッサは少し不安そうに頷いた。
エレノアはそれを見て、静かに口を開く。
「奥様ならば、心配ございません」
「……そうかしら」
「ええ。私がいなくても、大丈夫です」
クラリッサは小さく頷く。
初めて訪れる領地。
緊張はあったが、少し楽しみでもあった。
◇
その頃。
別室ではミレイユが真剣な顔でオスカーに相談を持ちかけていた。
「オスカー様」
「何でしょう」
ミレイユは声を潜めた。
「旅の宿、一部屋しか取らないという作戦はどうでしょう?」
オスカーは無言になった。
そして数秒後。
脳裏に浮かんだのは、主人の冷たい青い瞳だった。
――無言でこちらを睨むセオドリック。
あまりにも容易に想像できる。
「やめておきましょう」
「ええっ?」
オスカーは深々とため息をついた。
「我々がすべきことは、落とし穴を掘ることではありません」
「落とし穴……?」
ミレイユが眉を寄せる。
「距離は縮まるかもしれない。しかし、どちらかが――あるいはお二人とも傷つくことになれば?」
ミレイユが口を閉じた。
「旦那様は奥様の気持ちを待っておられる。奥様はまだご自分に自信がない。そのお二人の間に、我々が無理に手を入れるべきではありません」
「……」
オスカーは穏やかに言う。
「お二人の感情を正しく汲み取り、必要な時だけそっと支える。それが我々の役目です」
ミレイユは少し不満そうな顔をしたが、やがて頷いた。
「……わかりました」
◇
その日の夕方。
書斎で書類を整理していたセオドリックに、オスカーが声をかけた。
「旦那様」
「何だ」
「旅の宿泊先ですが」
そこでオスカーは一拍置いた。
「奥様とお部屋はご一緒にされますか」
セオドリックの手が止まった。
ゆっくりと視線が上がり、青い瞳がオスカーを射抜く。
「……お前は何を言っている」
(ミレイユには落とし穴を掘るなと言ったばかりですが――)
オスカーは涼しい顔のまま続けた。
「新婚旅行で部屋が別というのも、いかがなものかと思いまして」
セオドリックはしばらく睨んでいたが、やがて視線を逸らした。
「当然、別だ」
「なるほど」
セオドリックは淡々と続ける。
「私は待つと決めている」
その言葉に偽りはなかった。
クラリッサが自分を受け入れる準備ができるまで急かすつもりはない。
オスカーは静かに頷いた。
「では、奥様の心の準備ができたかどうかは、どのように判断されるのですか?」
「……」
セオドリックが止まった。
珍しく言葉に詰まる。
オスカーは内心で苦笑した。
どうやらそこまでは考えていなかったらしい。
セオドリックは腕を組み、考え込む。
昨晩の出来事が脳裏をよぎった。
自分の手を握ったあたたかな手。
――あれは。
少しは心を許してくれたということなのだろうか。
だが、それだけで判断していいのか。
そもそも何をもって「心の準備ができた」とするのか決めていなかった。
「私のことを愛しているのか」と尋ねても、困らせてしまうだけだろう。
それに「いいえ」などと言われたら終わりだ。
沈黙するセオドリックを見ながら、オスカーは何も言わない。
主人が自分で答えを見つけるのを、ただ静かに待つ。
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