指先に残るもの
クラリッサの公爵夫人としての勉強が始まって、数日が経った。
だが、どうやら無理をしているらしい。
「昨夜も遅くまで起きていらしたそうです」
珍しく渋い顔をしたオスカーが報告する。
その言葉にセオドリックは手を止めた。
「……そうか」
「旦那様。奥様は、少々頑張りすぎです」
「分かっている」
「本当に分かっておられますか?」
セオドリックが視線を向ける。
オスカーは小さくため息をついた。
「奥様は旦那様ほど頑丈ではありません」
「……分かっている」
――休暇は領地に行きたい。
あの言葉以来、クラリッサが書斎に足を運ぶことが増えた。
自室にまで持ち込み、寝る間も惜しんでいるとは。
公爵夫人として懸命な姿は喜ばしい。
だが、そのために体を壊しては意味がない。
(どう伝えたものか……)
◇
その夜。
クラリッサは寝間着の上からガウンを羽織り、廊下を歩いていた。
読んでいた本に書いてある内容を確認したくなったのだ。自室の窓から書斎を確認したが明かりはなかった。
(今なら誰もいない)
確認したい資料は書斎に保管されていたはずだ。少しだけ探して、すぐ戻ろう。
そう考えながら、書斎の扉を開けた。
すると――。
「……何をしている」
背後からの声に、クラリッサは肩を震わせた。
ゆっくりと振り向くと、セオドリックが立っていた。
「せ、セオドリック様……」
「こんな時間に」
深夜をとうに過ぎた刻だった。
クラリッサは気まずそうに視線を逸らす。
「眠る前に少し、確認したいことがあって……」
セオドリックはクラリッサの手元の本に目を落とした。
領地運営、特産品、外交の記録——。片端から読み漁っているようだった。
「領地のことも、社交のことも、別の者が支えてくれている」
クラリッサが目を瞬かせた。
「君がひとりで背負う必要はない」
静かな声だった。
クラリッサの胸はぎゅっと痛んだ。
自分がどんなに頑張っても、公爵夫人としてはまだ未熟だ。
茶会にさえ参加できず、領地運営も分からない。
だからこそ必死だった。
それなのに――。
君がやる必要はない、と言われた気がしてしまった。
セオドリックの顔をみることができなかった。
未熟で役に立たない自分に呆れているかもしれない。
「っ……」
視界が滲む。
慌てて顔を背けたが、遅かった。
涙が一粒、頬を伝う。
セオドリックが息を呑んだ。
「……泣いているのか」
クラリッサは首を振った。
「ご、ごめんなさい……」
それでもーーセオドリックの背負っているものを理解したかった。
一度溢れた涙はなかなか止まらない。
セオドリックの長い指がクラリッサの頬へ触れた。
そっと涙を拭われる。
「……もっと頼ってくれ」
低い声が落ちてくる。
クラリッサが顔を上げると、氷青の瞳と目が合う。
先ほどの言葉を思い出す。
ーー君がひとりで背負う必要はない
(できる人に頼ってもいいのね……)
クラリッサは肩が軽くなるのを感じた。
セオドリックは少し困ったように眉を寄せた。
「睡眠が足りていないと、正常な判断ができなくなる」
実感が込められたような言葉だった。
「部屋まで送ろう」
そう言ってセオドリックが手を差し出す。
クラリッサはその手を取った。
◇
部屋の前に着いた瞬間、クラリッサは無意識に手に力を込めた。
「どうした」
セオドリックに尋ねられるが、自分でも何をしているのか分からなかった。
「あの……もう少しだけ……」
しかし言葉が続かない。
もう少しだけ一緒にいたい。
泣いてしまったからだろうか。気持ちが溢れてしまう。
セオドリックの氷青の瞳と目が合う。
クラリッサはそっと手を離した。
「……おやすみなさいませ」
「……ああ。おやすみ」
扉が静かに閉まった。
クラリッサはそのままベッドに倒れ込む。
ここしばらくあった胸の中の焦りは消えていた。
その代わり。
指先にはまだ、セオドリックの手の感触が残っていた。
少し冷たいその温度を思い出しながら、クラリッサは静かに目を閉じた。
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