あの日の約束
帰宅した頃には、すっかり夜も更けていた。
馬車を降りたクラリッサとセオドリックは、屋敷の玄関ホールで足を止める。
「今日はありがとうございました」
クラリッサがそう言うと、セオドリックは小さく頷いた。
「ああ」
クラリッサは、どこか気まずそうに視線を逸らした。
様子がおかしいことには気付いている。
だが、自分には話してくれそうにない。
「……今日は疲れただろう。もう休め」
「はい。おやすみなさいませ」
クラリッサが頭を下げる。
「おやすみ」
クラリッサが何かを言いかけてやめ、セオドリックに背を向ける。
クラリッサの姿が角の向こうへ消えるのを見届けてから、セオドリックも静かに歩き出した。
◇
セオドリックは、静かな部屋で一人、天井を見上げた。
クラリッサの様子がおかしい。
ダンスを踊っていた時は楽しそうだった。
変わったのは――皇帝に呼び出されてからだ。
指定された場所へ向かったが、そこに皇帝はいなかった。
嫌な予感がして公爵家の控え室へ戻ると、クラリッサの姿もない。
気付けば皇城中を探し回っていた。
ようやく見つけた時、安堵したはずだった。なのに、クラリッサの表情は暗かった。
皇帝は「他愛もない話だ」と言った。
帰りの馬車で尋ねると、クラリッサも「帝国での暮らしを励ましていただいた」と答えた。
だが、それだけで自分への態度が変わるのは変だ。
(控え室で何かあったのか?)
思考を巡らせる。
控え室。
本棚。
そこでふと、一冊の小説が頭をよぎった。
オスカーが置いていった恋愛小説。
(まさか……)
嫌な予感がする。
(あの本を私が読んでいると知り、幻滅されたのか……?)
そこまで考えたところで、自分でも馬鹿げていると思う。だが、頭が言うことを聞かなかった。
最近は祝賀会の準備に追われ、まともに眠れていない。
思考は鈍り、頭も回らなかった。
久しぶりの自室の寝台だった。
寝台の横にあるテーブルにはガラスに保管された四つ葉が飾られている。
セオドリックがそれを見つめているうちに、意識は闇へ沈んでいく。
◇
懐かしい記憶が流れ込んでくる。
――金の瞳だから選ばれただけだ。
そう言う者もいた。
だが、弟は逃げなかった。
皇太子として課せられた重責からも。
第一皇子こそ皇帝に相応しいと声をあげる者たちは、何もわかっていない。
自分は与えられた役目を果たしていただけ。
弟のように、自ら進んで何かを成そうとしたことはない。
公爵の立場から弟を支える。
それで十分だと思っていた。
だが弟の即位から間もなく、預言者が現れた。
『人間の青い瞳を持つ少女を娶り、金の瞳を持つ子を成せ』
その言葉は、セオドリックにとって呪いにも等しかった。
ファフニール伯爵家に青目の少女が生まれるたび、周囲は伺いを立ててきた。
一人目も。
二人目も。
三人目も。
心は動かなかった。
自分の寿命は他の龍人より長い。急ぐことはない、と周囲も気長に構えていた。
しかし皇帝が、思わぬことを言い出した。
『セオドリックが伴侶を迎えるまで、皇后の席は空いたままだろう』
正当な後継者はどうなるのか——家臣たちの悲鳴が聞こえそうだった。
重いため息をつき、セオドリックは旅支度を整えた。
アストレア王国へ向かう前に、フードを深く被る。銀髪は人間の目を引きすぎる。
伯爵領の森に、少女はいた。
草むらの中を何やら探しながら、栗色の髪を揺らしている。
不意に動きが止まり――次の瞬間、嬉しそうに駆け出した。
気配を消し、後を追う。
木陰で休む女性の元へ駆け寄る少女。
少女が差し出したのは四つ葉のクローバーだった。
女性は優しく笑う。
少女も笑う。
だが、その直後。
女性は苦しそうに咳き込んだ。
少女は慌てて背中をさする。
その青い瞳が、不安そうに揺れていた。
それから母親は、日を追うごとに弱っていき、やがて寝台から起き上がることもできなくなった。少女はずっと、その傍にいた。
最期の日が近いのだろう。
以来、少女は母の部屋から出てこない。
気付けばセオドリックは、最初に少女を見かけた森の中にいた。
(ヴァイスガルドへ戻らなければ)
予定の滞在日数はとっくに過ぎている。
それでもセオドリックの目は、少女から目が離せなかった。
「そこにいるのは誰?」
声がした。
振り返ると、青い瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
(屋敷にいるはずでは……)
セオドリックは驚く。
少女はフードの下から見えるセオドリックの瞳を見つめた。
「青い目……」
少女は少しさみしそうな顔をした。
「あなたもお父様に叱られたの?」
「いや……」
ファフニール伯爵のことだろう。
もちろんセオドリックが叱られることなどない。
「それならよかった」
少女はしゃがみ込み草を指でかき分ける。
「……よく、叱られるのか?」
「お父様は青い目が好きじゃないの」
少女は小さく笑った。
「どうせ選ばれないって。何に選ばれないのかは知らないけれど」
選ばれない。
――自分の伴侶に。
胸の奥がざわつく。
自分の無関心が、この少女の心に傷を刻んでいた。
気付けば怒りが滲んだ言葉が口をついていた。
「君の父は間違っている」
少女が顔を上げる。
「どうしてあなたが怒るの?」
「……わからない」
少女はぱちりと瞬きをした。
「変なの」
そう言ってくすりと笑った。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
やがて少女が、名残惜しそうに呟く。
「……また来てくれる?」
「ああ。またすぐに」
少女の顔がほころんだ。
「約束よ」
差し出された小さな手に、四つ葉が握られていた。
「約束だ」
セオドリックは静かにそれを受け取った。
その足で帝国へ戻ったセオドリックは、皇帝のもとへ向かった。
今代の青目の少女との縁談を進めるよう、自ら申し出るために。
その後、公爵邸に戻ると、オスカーを呼び出した。
セオドリックが陽の光を受けて銀色に輝く鱗を差し出す。
それを見た瞬間、オスカーの顔色が変わった。
「これは、もしや……」
「私の鱗だ。伴侶に贈る品に使ってくれ」
「……仰せのままに。細工師を呼びましょう」
オスカーは深く頭を下げ、その鱗を両手で受け取った。
オスカーが退出し、書斎に一人残されたセオドリックは、静かに息を吐いた。
龍人の伴侶は、生涯に一人だけ。
預言者の言葉は、呪いにも等しい。
それでも――選ぶのなら。
あの少女がいい。
その考えは、不思議なほど自然に胸へ落ちていった。
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