もう少しだけ、このままで
「ノルデンフェルト公爵夫妻のご到着です」
案内役の声が高らかに響く。
重厚な扉がゆっくりと開かれた。
皇城の大広間は、まるで別世界だった。
高い天井には無数の魔導灯が輝き、夜空の星々を閉じ込めたかのような光を放っている。
磨き上げられた白亜の大理石の床には光が反射し、壁を彩る金細工や巨大な絵画が帝国の栄華を物語っていた。
談笑していたであろう貴族たちの視線が、集まった。クラリッサは思わず背筋を伸ばした。
今日の祝賀会に招かれているのは帝国の有力貴族ばかり。
人間との和平に反対する者がいたとしても、この場に呼ばれる者たちは和平の重要性を理解している。
露骨な敵意を向けてくる者はいなかった。
隣を歩くセオドリックは気にした様子もなく、いつも通りの無表情で会場を進んでいく。
(慣れているのね……)
これだけ人目を引く容姿をしているのだ。
銀の髪も、氷青の瞳も、この場にいるだけで絵になる。
どこへ行っても注目を浴びるのだろう。むしろ今さら気にする方がおかしいのかもしれない。
緊張はする。
けれど、いつもと変わらず泰然としているセオドリックが隣にいると、少し肩の力が抜けていく。
◇
やがて会場が静まり返った。ヴァイスガルド帝国皇帝陛下の入場である。
誰もが頭を垂れる。クラリッサも倣った。
「面をあげよ」
よく通る声が響く。
顔を上げた瞬間、クラリッサは息を呑んだ。
黄金の瞳。陽光を溶かして閉じ込めたような美しい金色だった。
人間には存在しない龍人の皇族だけが持つ特別な瞳。
まるで生きた伝説を目の前にしているようだった。
「ヴァイスガルド帝国とアストレア帝国は幾多の戦乱を越え、新たな絆が結ばれた。」
皇帝の視線がセオドリックとクラリッサへ向く。
「クラリッサ・ファフニールがノルデンフェルト家へ嫁いできたことで、長き争いの終わりを告げた。これは帝国の勝利ではない。双方の民が血を流し続けることをやめた、その結果だ。」
「今宵は共にこの夜を祝おう」
拍手と共に、いくつもの視線がクラリッサへ向いた。好奇、敬意、値踏み——様々な感情が入り混じっている。
セオドリックが静かに皇帝の御前へ進み出る。クラリッサも並んで続く。
「今日までの準備、ご苦労だったな」
「勿体なきお言葉です」
セオドリックが恭しく頭を下げる。クラリッサも続いた。
「公爵夫人も他国から嫁いできて大変だろう。今夜は楽しんでくれ」
「ありがたく存じます」
皇帝は二人を見比べ、何故か楽しそうに口元を緩める。
隣のセオドリックはわずかに目を細めた。まるで警戒しているようだった。
皇帝相手にそんな態度を取って大丈夫なのだろうか。
クラリッサは内心ひやりとする。
しかし皇帝は気にした様子もなく、愉快そうに笑った。
「仲は良さそうで何よりだ」
「……」
セオドリックは答えない。
クラリッサはそっと二人を見比べた。
皇帝の言葉が冗談なのか本気なのか、読み取れない。
ただ、セオドリックが答えないのならば自分も黙っているのが正解なのだろう。
クラリッサはただ静かに微笑みを返すにとどめた。
皇帝は満足そうに頷くと、視線を次の貴族へ向けた。
それを潮時と見てとったセオドリックが、クラリッサをうながすように小さく動く。
二人は静かに御前を辞した。
◇
その後、皇帝への挨拶が一巡すると、会場には音楽が流れ始めた。
セオドリックが静かに手を差し出す。クラリッサは微笑み、その手に自分の手を重ねた。
あの日、練習したワルツだ。
二人はゆっくりと踊り始める。
音楽に合わせて身体を預ける。
不思議なくらい楽しい。
緊張していたはずなのに、今は心地良さの方が勝っていた。
ふわりと香りが漂う。森を吹き抜ける風のような、澄んだ雪解け水のような、不思議と心が凪いでいく香り。
クラリッサはそっと顔を上げた。
氷青の瞳がこちらを見ていた。
初めて目を合わせた時は冷たい人だと思った。けれど今は違う。
ミレイユは言っていた。龍人は相性の良い相手に特別な香りを感じるのだと。
(なら……)
自分とセオドリックは相性が良いのだろう。
これまでの日々を思い出す。
不器用な優しさ。
自分を気遣う言葉。
何気ない視線。
無表情だから気付きにくいだけで、彼はいつも自分を見てくれていた。
もしかしたら。
セオドリック様は私のことを――
その瞬間、曲が終わった。大きな拍手が会場に響く。
クラリッサは慌てて思考を打ち切り、微笑みながら礼をした。隣ではセオドリックも頭を下げる。
セオドリックと踊る時間は楽しかった。
今はそれだけで十分だった。
◇
「公爵閣下」
一人の男がセオドリックへ近付く。特務官の部下だろうか。耳元で何かを告げた。
セオドリックの表情は変わらない。セオドリックが頷くと男は去っていった。
クラリッサへ向き直った。
「呼び出された。少し席を外す」
クラリッサが頷くと、セオドリックは周囲を見回した。
「公爵家の控室へ行こう」
「私はホールにいた方がいいのでは?」
「ダンスは踊った。これ以上ここに留まる義務はない」
そう言われると反論できない。
正直なところ、知り合いのいない会場へ一人残されるより安心だった。
二人は会場を後にする。
案内されたのは皇城の奥にある一室だった。
「ここで待っていてくれ」
「はい」
セオドリックは短く告げると部屋を出て行った。
扉が閉まる。急に静かになった。
(何をして待とうかしら)
室内を見回す。壁際には本棚が並んでいた。
近付いて背表紙を眺めると、領地の経営に関する本などが並んでいる。
すると見覚えのある背表紙が目に入った。
「これって……」
手を伸ばした時だった。
コンコン。
扉が叩かれる。
セオドリックが戻るには早すぎる。クラリッサは首を傾げながら扉へ向かった。
開くと、そこには近衛兵姿の男が立っていた。整った敬礼と共に告げられる。
「ノルデンフェルト公爵夫人。高貴なお方がお呼びです」
その声音は丁寧だったが、有無を言わせぬ重みがあった。
クラリッサは思わず目を瞬いた。相手の名は告げられない。いや、告げる必要がないのだろう。
「……私だけ、ですか?」
「はい」
近衛兵は静かに頷く。
(セオドリック様に知らせるべきだろうか。でも、下手に時間を取らせるわけにも……)
クラリッサは小さく息を吐き、覚悟を決めるようにゆっくりと一歩を踏み出した。
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