ダンスと香り
それから二日後。
昼食後に皇城から一時帰宅をしたセオドリックと、舞踏室で向き合うクラリッサ。
約束通り、練習が行われることになった。
「まずはワルツから」
「はい」
エレノアが壁際に置かれた音響装置へ歩み寄る。磨き上げられた銀色の箱にエレノアが触れると小さな光が灯り、静寂だった広間に柔らかな旋律が流れ始めた。ゆったりとしたワルツの音色が高い天井へと響き渡る。
「手を」
「は、はい」
クラリッサは差し出されたセオドリックの手を取る。
腰に手がまわされ、クラリッサは必死に平静を装った。
対するセオドリックはいつも通りに見える。ただ、よく見ると目の下にうっすら隈があった。
睡眠時間を削ってまで、自分とのダンス練習の時間をつくってくれた。
申し訳ないような、嬉しいような。そんなことを考えていると――。
ふわりと香りがした。
爽やかで落ち着く香り。雪解け水のような、不思議と安心する香りだった。
緊張で固まっていた肩から、知らず力が抜けていく。足が自然に音楽のリズムを拾い始めた。緊張が少しずつほどけていく。
クラリッサの力が抜けたことを感じ取ったセオドリックが、静かに視線を向ける。
クラリッサは思わず口にした。
「セオドリック様は、良い香りがしますね」
その瞬間。氷青の瞳が見開かれた。
まるで信じられないものを見たような表情だった。
「急に申し訳ありません」
見たことのない表情をするセオドリックに、クラリッサは反射的に謝った。
「嫌でしたよね……」
(男性の香りを褒めるなんて、はしたなかったかもしれない)
しゅんと肩を落とすクラリッサに、低い声が返る。
「……別に構わない」
どことなく気まずい空気の中、ダンスは続行された。
◇
一通り踊り終える頃には、クラリッサもすっかり慣れていた。
「これだけ踊れれば問題ないだろう」
「はい。ありがとうございました」
自然と笑みがこぼれる。最初の緊張が嘘のようだった。
「これで本番も怖くありません」
自分の腕が上達したわけではない。それでも不思議なほど上手く踊れた。きっとセオドリックのリードが上手いのだろう。
即位記念パーティへの不安も、今はほとんど消えていた。これなら練習は今回だけで十分だろう。
セオドリックは忙しい。
問題なく踊れるのに、何度も練習の時間をいただくわけにはいかない。
この後も皇城へ戻り、仕事に向かう予定だ。
ダンスへの不安は和らいだが、別の寂しさが湧いてきた。
その様子を壁際で見守っていたエレノアが口を開いた。
「奥様、本日はサンルームにお茶をご用意しております」
「ありがとう」
普段は自室に用意されているのに珍しい。
その隣で、セオドリックが何かを考えるような仕草をした後、口を開いた。
「一緒に行っても構わないか」
「ご一緒してくださるのですか?」
思わず聞き返す。
「ああ」
クラリッサの顔がぱっと明るくなる。
「はい!」
弾むような声が出た。
セオドリックは練習が終われば、そのまま皇城へ戻るものだと思っていた。だからこそ嬉しい。
胸の奥がふわりと温かくなる。
そんなクラリッサを見て、セオドリックもどこか安堵したように目を細めた。
「行こう」
「はい」
こうして二人は並んでサンルームへ向かった。
窓から差し込む午後の日差しは柔らかく、ダンスの余韻を残したままの二人を優しく包み込んでいた。
◇
ティータイムの後、セオドリックは皇城へ向かった。
クラリッサは屋敷の玄関前に立ち、遠ざかっていく馬車を見送る。
その姿が見えなくなった頃、不意にあることを思い出した。
「ミレイユ」
「はい」
「セオドリック様がお使いの香水はどちらのものかわかる?」
ミレイユの動きがぴたりと止まった。
「香水、ですか?」
「ええ」
クラリッサは少し首を傾げる。
「ダンスの時、とても良い香りがしたの」
数秒の沈黙。
ミレイユの表情が見る見るうちに変化していく。
驚き。
理解。
そして喜び。
「良い香り、と仰ったのですか?」
「ええ。でも、男性に向かって良い匂いがするなんて言うのは少し失礼だったかしら」
「いいえ!」
即答だった。
思わず声を張り上げたミレイユは、慌てて咳払いをする。
「とても良いことです」
「良いこと?」
「はい。龍人の男性から良い香りがするということは、その方と相性が良いということですから」
クラリッサは目を瞬いた。
「相性が良い……」
その言葉に、今日の出来事が脳裏によみがえる。
『良い香りがしますね』
そう言った時のセオドリックの驚いた顔。そして逸らされた視線。
(もしかして……)
頬が熱くなる。
(私たち、相性が良いですね、と言ってしまったようなものでは……?)
恥ずかしい。
申し訳ない。
そんな気持ちが一気に押し寄せた。困らせてしまったのかもしれない。
どうしよう……と悩むクラリッサ。
ミレイユもまた、本来の意味は口にしていなかった。
龍人の男性が相手にだけ好ましい香りを感じさせるのは、本能的な求愛行動の一つ。
そして、その香りを心地よいと感じ取れるのは、相手も好意を抱いている証だった。
つまり。
『良い香りがしますね』
という言葉は、龍人社会ではほとんど告白に等しい。
ミレイユは必死に表情を取り繕う。
もし今その事実を伝えたら――奥様は恥ずかしさのあまり倒れてしまうかもしれない。
だから今は黙っておこう。
その代わり、心の中で盛大に歓喜する。
(旦那様、おめでとうございます!)
一方、その頃。
皇城へ向かう馬車の中では、セオドリックが窓の外を眺めていた。
その表情はいつも通りだが、その胸中は穏やかな喜びで満たされている。
クラリッサは自分の香りを好ましいと言った。
彼女は龍人にそれを伝える意味は知らないのだろう。
だが、信じられないほど嬉しかった。
生まれて初めて知る幸福を噛み締めるように、セオドリックは静かに目を閉じた。
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