専属侍女の危機管理
和平記念祝賀会の準備も終盤を迎えていた。
皇城での礼儀作法。
主要貴族の名前と家柄。
そして、セオドリックと揃いの衣装。
クラリッサは順調に学びを重ねていた。
だが、ひとつだけ残された大きな課題がある。
「ダンス……」
思わずため息が漏れる。
祝賀会では、和平の象徴であるセオドリックとクラリッサも人々の前で踊る予定になっている。
最低限の経験はある。
だが、人前で披露するとなれば話は別だ。
窓から差し込む橙の光の中で、クラリッサは腕を組んで考え込んだ。
困っていると、傍らでお茶を淹れていたエレノアが口を開いた。
「旦那様に相談されてはいかがでしょう」
「セオドリック様に?」
思わず聞き返す。
セオドリックは、即位記念パーティが近づくにつれて日に日に忙しくなっていた。最近は朝食だけ共に取り、その後は夜遅くまで皇城に詰めている。今日も夕食の席に、彼の姿はなかった。
負担をかけたくない。
しかし、本番で失敗すれば迷惑をかけることになる。
クラリッサはしばらく考え込んだ末、ふと思いついたように顔を上げた。
「オスカーに頼むのはどうかしら」
「オスカー様ですか!?」
エレノアが目を丸くする。
「ええ。屋敷の中では一番セオドリック様と背格好が近いでしょう? 本番を考えるなら、近い方が練習になると思うの」
その言葉を聞いた瞬間、ミレイユの顔色が変わった。
「それはなりません!!!」
ミレイユは真剣そのものだった。
「龍人はパートナー以外の異性と踊ることは、不貞行為も同然なのです」
「……練習でも?」
「いかなる場合も、でございます」
龍人のマナー本にも確かにそう記されていた。パートナー以外とは踊らないと。ただ、まさか練習の場にまで適用されるとは思っていなかった。
夜会で様々な異性と踊ることを当然とする人間とは、根本から価値観が違うのだ。
「龍人はどうやってダンスの練習をするの?」
「同性の講師をつける場合もありますが、ほとんどはパートナーと行います」
ミレイユはまっすぐにクラリッサを見た。
「絶対に旦那様へご相談しましょう」
語尾に妙な力が入っている。
「え、ええ……」
ミレイユの気迫に押され、クラリッサは頷くしかなかった。
講師をつけてもらうとしても、セオドリックへの相談は必要だろう。
「明日の朝ならお話できるかしら……」
その時。
屋敷の外から馬車の音が聞こえた。
「旦那様がお戻りになったようですね」
「これから訪ねても平気かしら」
「確認して参ります」
ミレイユは一礼すると、部屋を後にした。
部屋に残されたクラリッサは、どう切り出したものかと思案する。
一方その頃。
ミレイユは長い廊下を足早に進んでいた。
オスカーは知らない。
先ほど、自分が龍人生最大の危機を乗り越えたことを。
(あの場に旦那様がいなくて本当に良かった……)
いくら奥様が龍人の慣習に疎いとはいえ、旦那様がお許しになるはずがない。
適切な説明を怠ったとして、エレノアや自分にまで責任が及んでいただろう。
もしも『ダンスの練習相手はオスカーにします』
などという言葉が旦那様の耳に入っていたら――。
ミレイユはぶるりと身震いした。
考えたくもない。
(このことは墓まで持っていく)
ミレイユは固く決意したのだった。
◇
クラリッサはセオドリックの書斎の前に立っていた。
軽く扉を叩く。
「入れ」
中から低い声が返る。
扉を開くと、セオドリックが机に向かっていた。
机の上には書類が山積みになっている。
ランプの灯りに照らされた横顔は真剣そのもので、今も仕事の途中なのだと一目でわかった。
こんな時に相談しても大丈夫だろうか。
少し躊躇していると、セオドリックがペンを置いた。
「どうした」
「その……祝賀会でのダンスについてご相談がありまして」
氷青の瞳がこちらを向く。
視線が合った瞬間、胸が小さく跳ねた。
「アストレア王国でも最低限の経験はありますが……できれば講師をつけてダンスの練習をしたいのです」
そう告げると、セオドリックはわずかに眉をひそめた。
「何故だ」
「え?」
予想外の返答に目を瞬く。
「講師など呼ばずとも、私がいるだろう」
思わず言葉を失った。まさかそんな返事が返ってくるとは思わなかったのだ。
「ですが、セオドリック様はお忙しいですよね」
机の上の書類を見れば明らかだった。
皇帝直属特務官としての仕事に加え、即位記念パーティの準備もある。ダンスの練習に割く時間などないはずだ。
「時間は作る」
少しの間を置いて、セオドリックは静かに続けた。
「君が踊る相手は私だけだ」
その声は不思議なほど重く胸に響く。
「違うのか」と問われているように真っ直ぐ向けられた視線。
クラリッサの心臓が大きく跳ねた。
彼は龍人にとって当然のことを言っているだけなのに。
胸の奥が熱くなるのを止められなかった。
「私の踊る相手は、セオドリック様だけです」
答えると、セオドリックの表情がわずかに和らいだ。
それがわかるくらいには、最近のクラリッサは彼をよく見ていた。
しばしの沈黙が落ちる。
落ち着かない。
セオドリックと二人きりでいるだけで、胸の鼓動が少しずつ速くなっていく。
やがてセオドリックが口を開いた。
「三日後――いや、二日後に時間を作る」
「わかりました。よろしくお願いいたします」
クラリッサは頭を下げる。
そして顔を上げた瞬間、再びセオドリックと視線がぶつかった。
――君が踊る相手は私だけだ。
先ほどの言葉が胸の中で何度も繰り返される。
どうしてこんなにも心が騒ぐのだろう。
「そ、それでは失礼します」
そう言って書斎を後にした。
扉を閉めた途端、思わず頬に手を当てる。
熱い。
自室に戻ってからも、クラリッサは胸の奥に残る温かな余韻から目を逸らせずにいた。
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