第2話 差し出された花
シーウェル王国の王都は、花の都と呼ばれるほどに美しい。
整えられた石畳の道路の脇には花が咲き乱れ、流行の最先端をゆくブティック、貴人たちが集うカフェなど、洒落た建物が多く建ち並ぶ。田舎の娘たちが一度は行ってみたいと夢見る、憧れの場所なのだ。
「オーズリー洋菓子店……。あれ、どこだろう……」
デイジーお嬢様に、今話題の洋菓子店で人気のスコーンを買ってくるよう言われ、渡された地図を手に歩き続けて早二時間が経とうとしている。
ここは王都の中でも高級ブティックが建ち並ぶ通りで、私のような姿の人間が歩くのはあまりにも浮いていた。
現に、着飾った令嬢とすれ違うたびに、怪訝そうな顔をされている。
恐らく、お嬢様からの嫌がらせの一つだろう。この地図は洋菓子店への行先など示していないのだ。
だが買わないで帰ったら、きっと罵られ、もっと酷い目に合う。お嬢様の思うつぼだった。
「どうしよう……」
歩き続けても見つからない行き先に、立ち止まって途方に暮れる。そんな私を避けるように人々は足早にその脇を通り過ぎていった。
そんな数々の足音の中に、たたたっ、という石畳を走る軽やかな足音が混じる。その足音の正体は私の前までくると、ちょい、とスカートの裾を掴んだ。
「おねーちゃん! これ! あげる!」
幼子特有の高い声にびくりと体をすくませる。下を見れば、小さな男の子が私に向けて一輪の花を差し出していた。
その身なりは、幼いながらに立派なもので、どこかの貴族の令息であることが見て分かった。
私のような身分の低い者に声をかけるなど、幼いからこそできたこと。あまりに恐れ多くて思わず両腕を挙げてしまう。
差し出された一輪の花を受け取れずにいると、「アル!」と私のスカートを掴む令息の名前を呼ぶ、美しい女性が現れた。
「アル、ダメでしょう。急にいなくなったら。……貴女も、急なことで驚いたでしょう、ごめんなさいね」
「い、いえ……! 私のような者が、申し訳ありません……」
思わず頭を下げる。平民の私が、貴族の令息に手を出したなんて、何たる不敬なのだろう。実際には手を出したわけではないが、平民の私にそれを言う権利はない。
自分の靴しか見えない視界の中で、きっと罵られるだろうとぎゅっと手を合わせた。
その手を、温かい手がそっと包む。
思わず上を向くと、そこには優し気な表情をした婦人が、私を気遣うように見つめていた。
「そのように自分を卑下してはだめよ。貴女を生んだお母さまに失礼だわ」
婦人は私に頭を上げるように言うと、未だにスカートの裾を掴む令息の頭を撫で、そして笑った。
「アルは心の綺麗な人にしか話しかけないの。子供ながらに分かっている子なのよ。だから、この花、受け取ってあげて」
「……ありがとう、ございます」
「ん!」
純粋でキラキラと輝く瞳に負けて、そっと差し出された花を受け取る。
すると満足したのか、令息はとたたっ、と母親であろう婦人のそばへ戻っていった。
「貴女、オーズリー洋菓子店へ行きたいの? だとしたらこの通りではないわ。その地図は間違ってるわね」
「……そう、ですか」
どうせそうだろうとは思っていたが、やはりお嬢様の嫌がらせだと思うと気分は重くなる。
婦人はそんな私の表情に思うところがあったのか、気遣うようにもう一度私の手を包むと、優しい笑みを浮かべた。
「この通りから右に三つ行ったところの通りにあるの。人がたくさんいるからすぐに分かると思うわ」
「……! ありがとうございます!」
「今は大変だろうけれど、心の綺麗な貴女なら、きっと幸せになることができると思うわ。貴女の幸運を祈ってる」
ふいにかけられた優しい言葉に、ぐっと出かけた涙を我慢して頭を下げる。
そんな私に婦人は微笑むと、令息と手を繋いで先へと行ってしまった。
その後ろ姿がふと、夕暮れに母と子道を歩いた自分と重なる。
“『いい? エイダ。魔法は使えるということで満足してはだめなの。なんのために使うのか、使う者の意思が大事なのよ』”
「お母さん……会いたい」
在りし日の思い出が蘇り、そんな叶わぬ願いが口に出る。
母はもうこの世にいない。私は一人で頑張って生きていくしかない。
小さく息をつき、パシリと両頬を叩く。
「早く帰らないと、お嬢様に怒られてしまう」
急いで言われた通りに向かおうと走る。行き先が分かってしまえば、あとは買って帰るだけ。
先ほどの婦人の優しい言葉に、少しだけ心も軽くなった気がする。
あと一つの通りを過ぎれば、目的の場所へたどり着く。転ばないよう気を付けながら通り過ぎようとしたその時だった。
細く暗い道が、まるで口を開けているかのように現れたのだ。
王都には数多くの裏道が存在する。それは過去の貴族の逃げ道だとか、盗賊の作った道だとか、様々な言い伝えがあるが、今でもその道だけは治安がいいとは言えない。
私だって、普段は見て見ぬふりをする。それでも足を止めてしまったのは、聞こえてしまったからだった。
「ッぐ、はぁ、ッ……」
それは苦しんでいる人の声だった。
その人以外に、声を出している人はいない。もしかしたら、怪我をして一人で逃げてきたのかもしれない。
(ここで見ないふりしたら、きっと後悔する)
意を決して、方向を変えて裏道へと入っていく。
どうか悪人がいませんようにと願いながら、進んでいくにつれ濃くなっていく魔力の勢いに、息が詰まるような感覚がした。
「大丈夫、ですか!?」
口元に手を当てながら、蹲る影に駆け寄る。
「ッ、誰だ!」
響き渡る声は苦しそうで、今にも倒れてしまいそうだった。私はぐっとこらえて、倒れそうな体を支える。
そして目が合った瞬間、思わず息を飲んだ。
ローブに身を包んだ美しい黒髪の彼の瞳は、まるで空のように澄んだ青色だったのだ。