9.歴史が変わる日
その朝も、魔界はいつもと変わらぬ静けさの中にあった。
ガルマイドはバルザスへ挨拶をすべく、魔王城の長い階段を上っていく。石造りの廊下が、足音を低く反響させる。七階の集中治療室の前に立ったとき、突如部屋の扉が開き、中から落ち着いた声が飛んできた。
「やぁ、ガルマイド君。おはよう」
目の前に、バルザスのバイタルチェックを済ませたクロムがそこに立っていた。
「クロム卿、おはようございます」
「万魔殿に行く前に、バルザスに会いに来たのかい?」
「はい」
クロムは静かに目を細めた。
「そうか……本日より、新たな時代が訪れる。どんな結果になろうとも、魔界は前へ進み続けると信じて私も見届けるつもりだ。…また後で会おう」
「ありがとうございます」
ガルマイドは深く一礼し、部屋へと入っていった。
部屋の中は、以前よりもさらに静まり返っていた。ベッドに横たわるバルザスの姿は、魔王城に戻った時よりも明らかに衰弱している。肌は血の気を失い、呼吸だけが微かに規則正しく続いている。
ガルマイドはベッドの傍らに立ち、静かに口を開いた。
「……バルザス様。おはようございます。魔界は、今日も変わらぬ朝を迎えております。……ただ、今日という日は我々にとって特別な日となるでしょう。数時間後には、バルザス様の後継者が誕生することとなります」
言葉が途切れ、彼はわずかに息を詰めた。
「…覚えておりますか。私が四天王に就任して間もない頃のことを……」
そこまで言って、ガルマイドは一瞬、言葉を飲み込んだ。胸の奥に沈んでいた感情が、わずかに揺れる。
「……私には、貴方様のように聡明で、気丈に振る舞うことができるでしょうか」
バルザスは、依然として沈黙を貫いていた。答えることも、目を開けることもしない。
それでもガルマイドは、深く頭を下げた。
「形は変わっても、意志は継いでみせます。何卒、見届けてください」
一礼を終えると、彼は静かに部屋を退出した。
一階のエントランスホールに足を踏み入れた瞬間、ホール中央に据えられた炎の祭壇が激しく燃え上がった。赤く揺れる炎の中から、真紅の美しい髪を靡かせた人影が静かに浮かび上がる。
「あら、ガルマイド。ご機嫌よう」
「ヴァルテリア卿、おはようございます」
「貴方もバルザス様の様子を?」
「えぇ。先ほど挨拶を済ませました」
二人は向かい合い、互いに一礼を交わす。対立こそすれど、先導者としての敬意が、無言の間に通い合った。
「今日はよろしくお願いします」
「今回は、貴方の土俵に乗ることにしたわ。……どちらが魔王に相応しいか、有権者に判断してもらいましょう」
ヴァルテリアはそう言い残すと、ガルマイドとすれ違いざま、堂々とした足取りでホールを後にした。
——万魔殿四階・大放送室
正午になり、魔界全土へ向けた公約演説の時刻が、静かに訪れようとしていた。
進行役の魔族が、二人を壇の前に呼び寄せる。
「定刻になりましたので、これより魔王選挙に伴い公約演説を行います。両者、御準備はよろしいですか?」
「問題ない」
「えぇ。いつでもよろしくてよ」
「では、これより演説順を決めさせていただきます」
進行役は懐から一枚のコインを取り出し、指で弾いた。コインは高く舞い上がり、回転しながら落ちてくる。受け止められた掌の中で、表が上を向いていた。
「……表であるため、最初にガルマイド様、次にヴァルテリア様の順となります。ではガルマイド様、どうぞこちらへ」
ガルマイドは静かに壇上へと歩を進めた。
スポットライトが彼を照らす。正面には、魔術によって作り上げられた巨大なスクリーンが浮かび、その向こう側に——魔界に生きる無数の魔族たちの視線が集まっている。
歴史を変える主張が、今、始まろうとしていた。




