2.沈黙の再会
日が沈み、魔界に夜が降りてきた。
空はすでに深い紫から漆黒へと沈み、星々さえも魔気に霞んで見える。魔王城の尖塔は闇の中に溶け込み、ただ静かに、重く、そこに在ることを主張していた。
――魔王城一階・エントランスホール
静寂が支配する広間に、ひとりの魔族が静かに足を踏み入れた。
彼は目の前の空間を、まるで古い傷を撫でるような視線で見つめた。すると空気が微かに震え、空間そのものが歪み始める。光も音も、一瞬だけ世界から切り取られたかのようだった。
「……開いたよ。もう通って大丈夫」
この言葉を皮切りに歪んだ空間の奥からガルマイドとアレンが姿を現した。
「クロム卿。お久しぶりです。夜分遅くに、無理を申し上げてしまい、申し訳ありません」
ガルマイドは深く頭を下げ、目の前の男と挨拶を交わす。
彼の名はクロム・エルニタス卿。魔界において唯一、転移魔術を完全に操る者であり、魔王バルザスとは、長い歳月を共に歩んできた旧知の友である。
クロムは静かに首を振った。
「気にしなくていい。こちらも、ちょうど君に使いを送ろうと思っていたところだ。積もる話は後で。まずは……バルザスに会ってきな」
ガルマイドは小さく頷いた。その仕草には、すでに覚悟の影が落ちていた。
アレンがそっと声をかける。
「ガルマイド様。私は侍女たちの方へ参ります」
「ああ。また後で」
短い言葉を交わし、ふたりはそれぞれ別の影の中へと消えていった。
――同七階・特別集中治療室
部屋の中央に、大きな寝台が鎮座していた。
その上で、魔王バルザスが眠っている。もはや「眠っている」という言葉さえ、適切ではないかもしれない。体には何本もの管が繋がり、皮膚の下を流れる魔力が、かすかに、しかし確実に、減少していくのが見て取れた。回復薬を口にする力すら、すでに失われている。
ガルマイドは扉の前で一度息を吸い、ゆっくりと部屋に入った。
「バルザス様。只今、戻りました」
返事はない。
ただ、かすかな呼吸音だけが、静かな部屋に溶けている。
ガルマイドはバルザスの傍らに立ち、動かなかった。長い時間、ただ立ち尽くした。言葉を失った者の沈黙が、部屋を満たしていく。彼は知っていた。この沈黙の重さを。そして、自分がこれから背負わねばならないものを。
――同三階・応接室
ガルマイドはしばらくの間、ただ漫然と椅子に座っていた。
覚悟はしていた。頭では理解していた。それでも、実際にこの目で見たとき、胸の奥が、静かに、しかし深く、抉られるような感覚があった。
そんな彼の前に、クロムが静かに近づいてきた。
「これを飲みな。少しは落ち着く」
そう言って、温かい湯気の立つ紅茶を差し出す。
「……これは?」
「ダリア領の森で採れた回復葉と、魔王城の上級ポーションを合わせたものだ。魔力だけでなく、気力もわずかに戻る。私の調べではな」
ガルマイドはカップを受け取りながら、わずかに眉を寄せた。
「……勝手に魔王城の備品を使われて、いくらクロム卿でも、後で叱られるのでは?」
クロムは鼻で小さく笑った。
「備品など、使われてこそ意味がある。叱られるなら、それでいい」
そう言って、自らも一口、紅茶をすすった。
ガルマイドもカップに口をつけた。
思ったより、穏やかな味だった。苦みの奥に、わずかな甘みが残る。後でアレンにも教えてやろう、と、ふとそんなことを思う自分に、彼は少しだけ救われた気がした。
クロム卿との軽い会話が続くうちに、確かに胸の重さがわずかに薄れていく。紅茶の効能か。それとも、この男の、誰にでも分け隔てなく差し伸べられる気配りのせいだろうか。
誰にでも気さくに接するクロムだからこそ、バルザス様も、長い歳月を友人として共に生きてこられたのだろう。
ガルマイドは、カップを置き、改めて問うた。
「クロム卿。バルザス様の意識は……戻られるのでしょうか」
クロムはしばらく黙っていた。窓の外の闇を見つめるように、静かに時を置いてから、口を開いた。
「今朝も上級ポーションを五本、エリクサーを二本、追加してみた。私の延命魔術も、効果は今ひとつだ。……正直に言うと万策尽きかけている。このままだと、余命はあと一ヶ月ほどだろう」
「一ヶ月……ですか」
人間に比べて遥かに長命な魔族にとって、一ヶ月という時間は、あまりにも短い。あまりにも、残酷なほどに短い。
魔王の命が、今、砂時計のように静かに落ちている。
ガルマイドは紅茶を飲み干した。カップの底に残ったわずかな茶葉を見つめながら、彼は静かに立ち上がった。
一日たりとも、無駄にはできない。
彼は次の行動へと、重い足を踏み出した。




