【これはあのその手違いです】
リックが風呂から戻れば、寝室のベッドの上で、ジノは書棚から引っ張り出してきた本を広げて寝そべっていた。
向けられた背は振り返る素振りもなく、無視である。ガン無視。
「……ジノ~♡あがったよ♡」
「…………」
「何読んでたんだい?私にも見せて♡」
「……うっせ」
冷たいジノの返事に、あーん、と大根役者な泣き声が返ってくる。リックが隣に寝転べば、ジノが広げていたのは”焼き菓子大全”の本。恐らく、ドマが選んで書棚に入れてくれたもの。
「お菓子?いいね♡」
「…………」
「私はね、ブラウニーが好き♡ジノは何が好きかな~♡♡」
じろ、とジノの睨みが飛んできて、ぴゃん、とリックの肩がすくんだ。それでもどこかでれでれしているのは、さすがリックといったところか。
開けた窓からは夏の夜風が吹き込んでいる。刈られた芝の匂いと、夜気に冷やされた石畳の気配。夏虫の音。
サリ、とシーツを滑ってきたリックの指先が、ジノの背に触れ、撫でる。どこか機嫌を取るような、撫で方。
「……家には、今度、呼ぼうね」
「…………」
そこじゃねぇんだよ、と、ジノは思った。
ジャズマンを家に呼ばなかったから怒っている、とか、そういうんじゃない。
あんなにフランクに、元カノと俺を会わせて、紹介したかったとか言って、そんで向こうは家に来たいとか言って。
あまつさえ”多分ジノには興味ない”だなんて堂々と言って、土俵にも上がってねぇってか、という……。
…………。
……そうか、土俵にあげられてないことに、キレてんのか俺は……。……ジノが、うっすらと頭を抱えた。
――最悪である。
意識の中、けれど自分の与り知らぬところで、”奥様”がしっかりと根付いている。さっきはあんなにメロメロになっていた女神相手に、イラつく程度には。
「……リック」
「うんッ♡」
相変わらずの甘ったれっぷりに、……ジノから、ため息が一つ。自分だけがイライラしていて、こいつだけがでれでれしているのは……大変癪に障る。
「……普通な、元カノと……嫁、は、会わせねぇんだよ」
「えっ、嫁ッ!?♡♡」
バッ!と飛びかからん勢いで間を詰めてきたリックに、ずばん、と枕が飛ばされる。この三か月で培われたジノの反射神経は……残念ながらこのベッド上においてでしか、役に立たなさそうである。
「嫁って!♡ジノっ嫁って!!♡♡♡」
「ばっ、そこじゃねぇ!!元カノだよ元カノ!!会わせねぇだろって!!」
「元カノ!?だだ誰が!?」
――両者、止まる。
ぽかんとしたリックと、同じくぽかんとしたジノ。
互いに、……え?と言った表情。
「……誰がってお前……有名だろ、勇者とジャズマンが付き合ってたって話……」
「えっそうなの!?付き合ったことないよ!?私の好みのタイプの話になった時、『あんた激重』って言われたくらいだし……!」
なんですと――!と、ジノが目を白黒とさせた。
いやまぁ、確かに武勇伝と比べて、色恋に関わる部分は不確かなものも多い。誰それが付き合ってるとか、どこのどいつが誰のことを好きだとか、ほぼほぼ外野の妄想なことも、ままある。
とはいえ、とっ、とはいえだ、ああして親密で、勇者邸にも来たことがあって、邸の使用人にも会いたいみたいなことを言って、疑えという方が無理な話。
「……い、家に来たいとか言ってたじゃねぇか……!?」
「アッ!?ああっ、そっ、違う違う!!ジャズは女性が好き!!」
「ぁあ!?」
情報の処理が追い付かず、ジノは頭から煙が上がりそうだった。
脳内は、ジャッ、じょ、ええ!?という具合である。つまり稼働率一割未満。
「彼女は!ミルヴァとアキアがすんごいタイプで!!」
「なっ、な、えっ」
「それを狙ってうちに来ようとするんだけど!!さすがにうちの使用人に対するセクハラは看過できないから!!」
――リック、必死である。
ようやく、ジノの不機嫌の理由が判明し、必死に弁明をしているといったところ。
しかし同時に、”ジノが不機嫌な理由”に頬が緩みそうなのもまた事実。まるで、ヤキモチか、――独占欲のような。
「そっ、なん、ええ……」
「だ、だからジノには興味ないよって……ごめん、言い方悪かったね……?」
「い、いや、もうそれはいい……ってか、な、なるほど……?」
――ジノの納得の声を以てして、寝室に静寂が訪れた。
なるほどそうだとすれば、エンのあの慌てようも、急いで帰ろうとしたリックにも、食事の席で黙って頷いていたアキアにも、説明がつく。
そうだったのか……と一人頷くジノの面前、ちょっと様子を窺うように、リックが覗き込んでいる。いつの間にやら至近距離。
「……何してんだお前」
「……え、いや、……な、仲直りのちゅーできないかなって♡」
「…………ぶん殴るぞ」
「ああッ♡」
キャッとでも言うようにリックの肩がすくめられ、そのまま倒れ込んでいく形で、ぼすん、と枕に白金色の髪が埋まった。
騒ぎすぎた犬がようやく落ち着いたような、そんな静かな空気。
「……あー♡ジノがヤキモチ妬いてくれるなんて」
ぼそり、そんな呟きが宙に溶ける。語尾に甘さはあれど、その声に熱はない。
ただ、真っ直ぐで――嬉しそうだった。
まぁ、こんなことを言えば、またバカだのうるせぇだの、何言ってんだ、のようなお叱りがとんで――、……くるのだ、が……。
そろりと、リックが隣を見れば、黙したまま、半目でこちらを睨みつけているジノ。
「…………」
「…………」
リックの手が、静かに伸びる。
ジノの背に触れる。叱られない。
そうっと引き寄せる。――これも叱られない。なお、今回は熱は出ていない。
「……え、ほんとにヤキモチ妬いた……?」
「…………」
「……ちゅーしていい?」
「…………うっせ」
――リック、腹に力を込めた。
明確には、叫ぶのを我慢した。
内容としては、「それ拒否じゃないよね!?♡♡♡」である。英断。
唇を触れる。拒まれない。それが、あまりにも大きな肯定に思えた。
「……あ、あれぇ……?……黙ってると、勘違いするよ、ジノ♡」
そう、笑いながら言ったがしかし……リックは目が逸らせなくて、冗談の続きが出てこなかった。
ごくり、喉が鳴る。唇をもう一度触れる。拒まれない。
ひとつだけ、ベッドを鳴らして間を詰める。ジノの手がリックの肩口にかかるが……押し返す力はない。なんだったらちょっと首に回りそう。
――リック、脳みそフル回転である。おいでませ、会議室――。
これはもう受け入れられたってことでOKですね!?キスして拒否されない、これすなわち結婚です!!
でもおかしくない!?ジノだよ!?いつもだったら殴られてる!!黙ってるだけ!?なんで黙ってるの!?いいの?いいのォォ!?
落ち着こう私。まずは抱き寄せよう。えっ、ていうか首に手……?回って……きてない!?いけてるのでは!?!?
いつ殴られてもいいように腹筋に力は入っています。顔面については甘んじて正面から受け止める姿勢。愛の拳だから。それがふたりの愛の形だから。
でもジノだよ!?夢かな!?夢……あでも味覚ある……なにこれ……幸せ…………無理……もう無理……。
……前言撤回、リックの脳みその回転数は、すでに過熱で焼き切れていた。
接触を推進するリックと、なお混乱を続けるリックが、脳内をぐるぐると回る。
体勢を変え、ベッドが軋む音。唇が濡れる音。もうそのまま黙っていればよかったのに。
「ジノ……♡」
「……ん」
「……か、身体の相性確かめるのも、だっ、大事じゃない……?♡♡」
「…………は」
――はた、とジノが、我に返る。
――カッ!と一気に、頬が染まっ、いや青ざめ、いやなんだかもう青くなったり赤くなったりくるくると顔色を変えたのち、華麗な右ストレートが一発。
「調子に乗んなッッ!!!」
「えぇえぇーッ!?♡♡♡」
おまけにもうひとつ、ジノの肘が飛ぶ。慣れたもので、リックはひょいと避けてからシーツを抱えて転がった。
「大事だよ!?結婚生活において身体の相性は大事!!♡♡」
「許してねぇ!まだそこまでは許してねぇ!!」
「“まだ”!?♡」
「だっ黙れ!!」
「あっ♡そっ、……ああっ♡♡」
飛ぶ枕、舞う布団、夏の夜の静けさはどこにもなく、あっ、今クッション飛んで行った……もう、しっちゃかめっちゃかである。
転がるリックの足がジノの足に絡まり、大の男二人、ベッドの中央でぐにゃぐにゃともつれこむ。
ベッドの上、汗をかき、ゼェゼェと息を切らす。状況だけを見れば艶っぽいが、残念ながら艶の欠片もない。
ジノが諦めて、シーツに顔を埋める。やっと室内が静かになったかと思えば、ごそ……と寄ってくる勇者の気配。
「……待ってるね、ジノ♡」
今度は低く、シーツ越し。
語尾の甘い囁きに、枕が押し付けられた。
「んぶっ!?」
「寝ろ!!」
「寝る~っ♡♡♡」
シーツの中、むに、と重みが乗る。ぴったりと。
……三か月目の倦怠期……やら何やらは、やはり当該勇者には適用されないらしい。
芝の匂いと夏虫の声が遠のく中、寝室は、……やっとこさ、静かになった。
――【これはあのその手違いです】




