【奥様、不機嫌です】
勇者邸の馬車が、城門の見えるところまで滑り込んでいけば、城門付近はそれはもう大変な騒ぎに――、……今日は、なっていなかった。
おや、とジノが、御者席のエンと顔を見合わせる。
リックのことだから、また怪我まみれで「早く帰る!!」と大騒ぎをしていそうだと思ったが。
――ごとり、と馬車が進みを止めて、ジノが窓越しに城門前を見やれば、人影はある。勇者と、――親しげにする、水色の髪の女性。ぴくっとジノの動きが止まる……どころか、ぽかんと口が開いた。
「ッ……!」
じゃ、ジャズマンだ……!!
ジノの目が、その女性に釘付けになった。気づいて駆け寄ってくるリックなど、もう視界の端にしか映っていない。
がちゃりと馬車の扉が開かれ、リックの手によってひょいッとジノが抱き下ろされ、その女性……ジャズマンに向き直される。
「ジャズ!この人が私の奥さんだよ!♡」
「あらぁ♡あなたが噂の”ジノ”ね~♡」
ずい、とジノの前に、ジャズマンの瞳が迫った。勇者パーティーの治療師で、何度も勇者との交際説が流れたその人。
豊かな髪、豊かな胸、男を虜にする笑顔……とくれば、世の男たちは全員彼女が好きだと言っても過言ではなく、ジノも漏れなくそのうちの一人。
そんな女神のようなひとが、目の前にいる。そして今、ジノだけを見ている。
「リックが『結婚する~!』って大騒ぎするから、どんな人かと思ってたのよ♡大丈夫ぅ?無理強いされてなぁい?」
「っへぇ!?あっ、はい、あの、はい!」
「ひどいなぁ、ちゃーんと愛を深めてるところだよ!ね♡ジノ♡」
「は、あ……?」
愛を深めている覚えはないが、女神の手前、暴言はとどめておく。……えっ、いやいや、っていうか……と、ジノが慌ててリックを見上げた。
もしもあの”勇者とジャズマンが元恋人同士”という噂が本当だったと仮定して、今お前元カノと嫁を会わせてることになるが……!?と。いや、”嫁”を認めたわけでは、決してないが。
「ねっ、ジノのこと見せたからもういいだろう!私は早く帰りたいんだ!」
「やだよくないわ!まだ話し足りないもの、ねっ、ジノ♡」
「えっあっはい……」
「ジノ~~~!?」
ハッ、ダメだ、流れるように肯定してしまう、と……ジノがパッとジャズマンから目を逸らした。
あの威力に耐えられる男、恐らくこの世に存在しない。いや、リックは耐えられるのか……?と迷走していると、馬車の御者台の上、エンが小さく首を振っていた。
どこか、焦ったような顔。ダメ!と言っているようにも見える。
「ねぇ、ジノ~♡あたし、貴方たちのおうちにお邪魔したいわぁ♡」
「えっ……」
「邸の人たちにも会ったことあるの♡久々にご挨拶させてくれないかしら♡」
「だっ、ダメダメ!ジャズが来ると大変なんだから!」
「えっ」
ジノの眼差しが、リックとジャズマンを行ったり来たりと忙しない。
ジャズマンはリックの家に行ったことがあんの……?邸の皆とも会ってんの……?あと大変って何……?つかお前ら揃って顔面偏差値たけぇな……?といった具合。
困ったジノがまたもエンに目を向ければ、……やはり必死に首を振っている。指先で、小さいばってんもついてきた。――だ、ダメってことか……?
「いいじゃなぁい!それに、あたしはジノに聞いてるのよ?」
「じゃ、ジャズマンさん……!」
「ジノ!相手することないよ!?」
「邪魔しないでリック!なぁに、ジノ♡」
「な、何もご用意できていないので、ええと、またの機会……で……?」
あらぁ……と残念そうに、ジャズマンの勢いが鎮火する。むい、と下唇を突き出し、どこか名残惜しそうな表情。……やはり、まだリックに未練が……?いやそれよりも、そんな寂しそうな顔……!!
思わず、立場も忘れ、ジノが前言を撤回しそうになる。それが未遂で済んだのは、リックが光の速さでジノを馬車に突っ込み、エンが素早くそれを発進させたからだ。
「えっえっおまっ、挨拶は!?」
「いらないいらない!!ジャズにはそういうのいらない!!」
「いらないってことねぇだろ仲間だろ!?」
がたごとと遠ざかる車窓からジノが城門前を見やれば、小さく手を振る女神の姿。……こ、心が……痛む……。
御者席でエンが額の汗をぬぐい、肩を落としている。手綱を握る手に、まだわずかに緊張が残っていた。
「……リック様……あの人が、いるなら、言ってください……!」
「ごめん!さっき城でたまたま会って捕まっちゃって!」
「……綺麗だったな……」
ジノがぽつりと漏らすと、すぐさま背後からリックがぐい、と距離を詰めてきた。焦り九割、と言った顔。
「え!?じ、ジノはああいうのが好き!?」
「俺がっていうか、男なら皆好きだろ……」
「えぇ~~~!?」
――あ、元カノ……?がそういう目で見られてたら、いい気しないか……、とジノがリックを見やれば、当該勇者は両手を自分の胸に当てているところ。大きさはないけど柔らかさはまぁ……という呟きが聞こえてきて、無視を決行することとする。
「ジノを紹介したかっただけなんだけどなぁ……」
「…………」
「あっ、でもさっき『またの機会に』って♡あれ、奥さんみたいですっごいよかった♡」
「黙れ馬鹿」
即答できた自分を褒めたいとジノが目を伏せると、馬車は緩やかに邸への道へ入っていくところ。まだ胸のどこかに、女神の笑顔が焼きついている。あんな顔で手を振られて、どう忘れろというのか。
なお隣では、馬車の窓枠にこつんと頭を預け、甘やかな眼差しでリックがジノを見ている。
「……ジノ、ちょっとだけでいいから撫でて癒して……?♡」
「うるせぇ」
「うわーん♡でも迎えに来てくれたんだもんね♡」
「……お前黙ってればツラはいいのにな」
「えッッ!?!?♡♡」
……言った言ってねぇの騒ぎを抱えた馬車での帰り道は、今日も騒がしさと熱が渦巻いていた。
* * * * *
「じゃあ、今回の怪我はジャズマンさんに治してもらったんだな」
「うん♡『奥さんに会うのにそんなぐちゃぐちゃじゃダメでしょ』って♡」
「ぐちゃぐちゃって……」
夕食の席で、どこかうっとりとジノを眺めながら喋るリックに、……ジノはしかめた眉で言葉を返した。
今回の任務も、やはり十日ほど。”会えない時間が愛を育てる”を地で行くかのような勇者に、もはやため息しか出ない。
「……けどいくらなんでも、ウチに来たいってのをあんなぶった切ることなかったんじゃねぇか」
「ええ?でもジャズ、多分ジノには微塵も興味ないよ?」
「なっ、はあ……?」
きょとん、とするリックに、ジノの片眉が吊り上がった。
――そんなこと、言われなくてもわかっている。あれはあくまで勇者の元カノで、勇者邸に来たいと言ったのも、きっと……勇者といたかったからで……、と。
傍らでは、控えているアキアがリックに賛同するように、小さく頷いている。それはどこか困ったような頷きだったが、その”同意”が余計に、ジノの眉間にしわを寄せた。
「ね♡そんなことよりさ、今日一緒にお風呂――」
「入んねぇよバカが」
ぴしゃり、と出た声は、思った以上に冷たかった。それにはジノ自身驚いたようで、――けれど、リックの表情を窺うには至らない。明るい声だけが返ってくる。
「そっか♡じゃあ順番で入ろうね♡ジノ、先に入っていいからね♡」
「…………」
スープの皿の端にスプーンをひっかけて、……ジノは、何が何だか混乱していた。俺がおかしいのか、と。
だが、いや、そもそも、離婚前提で暮らしているのに、こんな――まるでヤキモチを妬くような、…………。
ため息が、一つ。眉間のしわは、とれない。
馬鹿馬鹿しい、落ち着いてよくよく考えろ。相手は、勇者だ。ジャズマンに限らず、きっと引く手あまた。リックがそれに応えるかは、別としても。
(……。もうわかんね)
「アキア。風呂、入る」
「はい、奥さま」
食事もそこそこに、ジノは席を立った。アキアがすっと動いて、皿を引き取る。湯気の引いたスープに手を添えつつ、いつもの笑顔。
「お着替え、タオルは、いつもの場所に」
「……おう」
そのまま浴室へと向かうジノを見送りながら……ちらりとだけ勇者に視線をやる。リックはというと、こちらも頬杖をついてジノの背中を見送りながら、ほわ、と湯気みたいな笑みを浮かべていた。
「……お風呂入ったら、機嫌、直るかな?」
「さぁ?それはアキアの担当ではございませんので」
くるりと振り返ったアキアが、にこり。容赦はない。リックが肩を落として項垂れた。
「うぅ、今夜のベッド、冷たくされちゃうかも……♡」
「冷たくされるだけで済めばいいんですけど」
リックの私室の奥の扉、――湯気の上がる浴室では、ぴしゃ、と水音が響いた。
静かな気配と、ひとつ、長めの吐息。
アキアが静かに扉を閉じると、勇者邸の夜は、また少しだけ湿度を増した。
――【奥様、不機嫌です】




