EP 7
夕暮れのハーモニカと、小料理屋の夜想曲
大国の徴税監察使バルガスが裸足で逃げ去り、巻き上がった土煙がようやく収まった頃、ポポロ村にはいつもの、そして何よりも愛おしい長閑な日常が戻っていた。
西の空に広がる雄大なポポロ山の稜線が、燃えるような茜色と深い紫のグラデーションに染まっていく。吹き抜ける夕風は肌に涼しく、畑の黒土と青草の匂いを優しく運んでいた。
村の中央広場に、どこからともなく子供たちの笑い声が響き始めた。
「あ、マスターだ! マスター、今日も吹いてくれるのー!?」
「おじちゃん、また聞かせて!」
駆け寄ってきたのは、第1話で優太が治療した獣耳の少年──傷がすっかり癒えて元気に駆け回るあの子を先頭にした、村の子供たち十数人だった。
広場の古びた木製ベンチに腰を下ろしていた鬼神龍魔呂は、子供たちの声にゆっくりと顔を上げた。
身長百九十センチ、体重八十四キロ。黒と深紅の特注レザージャケットに身を包んだその巨躯は、一見すれば百戦錬磨の傭兵か処刑人にしか見えない。だが、子供たちを見つめるその漆黒の双眸には、昼間の悪党たちに向けた天災のような殺気は微塵もなかった。
「……騒ぐな。座って聴け」
低く、だがどこか温もりを帯びた声で呟くと、龍魔呂はジャケットの内ポケットから一本の細長い銀色の金属器を取り出した。
使い込まれ、角が滑らかに擦り減った十穴のハーモニカ。
龍魔呂がそれを無骨な両手で包み込み、薄く唇を当てる。
ふう、と静かに息が吹き込まれた瞬間──。
夕暮れの空気を震わせて紡ぎ出されたのは、あまりにも澄み切った、哀愁を帯びた旋律だった。
ドヴォルザーク『交響曲第9番 新世界より』第2楽章──『家路』。
遠き山に日は落ちて、星は空に瞬き始める。
一日の労働を終え、温かい家と食卓へ帰る人々を慈しむような、素朴で切ない調べ。
普段は言葉少なに包丁を振るい、角砂糖を奥歯で砕く男の指先から、奇跡のように柔らかな音がこぼれ落ちていく。
広場に集まった子供たちは、さっきまでの騒がしさが嘘のように静まり返り、草の上に座り込んでじっとその音色に聴き入っていた。畑仕事を終えて鍬を担いだ農夫たちも足を止め、夕暮れの空を見上げて目を細める。
「……いい音だな」
少し離れた木陰で、中村優太は両手をパーカーのポケットに入れたまま、静かに呟いた。
戦術医として、人の生死の境目を数え切れないほど見てきた優太には分かる。
あのハーモニカの音色は、単なる趣味や余興の音ではない。底知れぬ地獄の底を素手で這いずり回り、大切なものを奪われ、それでもなお「子供の笑顔」だけは絶対に守り抜くと誓った男の、魂の祈りそのものだった。
曲が終わると、子供たちから一斉に歓声と拍手が沸き起こった。
「わぁーっ! やっぱりマスターの音、すっごく綺麗!」
「もう一曲! 『シャボン玉』やって!」
「調子に乗るな。もう暗くなる。……ほら、さっさと家に帰って飯を食え」
龍魔呂はぶっきらぼうに言いながらも、子供たち一人ひとりの頭を大きな掌でぽんぽんと軽く叩いてやった。
子供たちが名残惜しそうに手を振りながら家路へと散っていくのを、龍魔呂はその背中が見えなくなるまでじっと見送り続けた。
「子供の笑顔を見る目、すごく優しいんだな、龍魔呂」
優太が歩み寄ると、龍魔呂はハーモニカをポケットへ仕舞い込み、静かに立ち上がった。
「……子供が腹を空かせて泣く世界なんざ、存在してるだけで反吐が出る。それだけだ」
「十分すぎる理由だよ。……戻ろうか。夜の仕込みがあるんだろ」
「ああ」
二人は並んで、茜色が夜の藍色へと移ろう石畳の路地を歩き出した。
夜の帳が完全に下り、空に満天の星が瞬き始める頃、路地の奥にある『小料理・BAR 鬼龍』の軒先には、柔らかな行灯の明かりが灯っていた。
昼間の引き戸を開けると、店内の空気は昼の小料理屋のそれから一変していた。
照明は落とされ、間接照明の琥珀色の光が檜の一枚板カウンターを濡らしている。
奥の棚には、地球から持ち込まれたウイスキーや、異世界各地の厳選された蒸留酒のボトルが美しく並んでいた。
そして、静寂の空間を支配していたのは、一編の物悲しくも気品に満ちたピアノの調べだった。
ショパン『夜想曲 第20番 嬰ハ短調 遺作』。
闇の中を手探りで歩むような、胸を締め付ける繊細な旋律が、夜の店内に染み渡っていく。
優太がカウンターの中央の席に腰掛けると、黒のタートルネックの上にバーテンダー用のベストをまとった龍魔呂が、氷山のような純氷の塊をまな板の上に置いた。
手にしたアイスピックが、リズミカルに氷を削り出していく。
削り落とされる氷の破片の音と、ショパンのピアノの音が完璧に調和していた。
やがて、宝石のように真円に磨き上げられた丸氷が、重厚なロックグラスの中へと滑り込む。
カラン……。
琥珀色の液体が静かに注がれ、龍魔呂の手によって優太の前へ差し出された。
「『サケスキー』のロックだ。村の火山水で仕込んだ地ウイスキーを、内側を焦がしたオーク樽で十年寝かせてある」
「……ありがとう。いただきます」
優太がグラスを持ち上げ、香りを愉しんでから一口含む。
スモーキーなピートの香りと、バニラのような芳醇な甘み、そしてキレのあるアルコールが喉を熱く滑り落ちていく。昼間の緊張と疲労が、心地よくほどけていく感覚があった。
龍魔呂は自分の分として、厚手のショットグラスにストレートの酒を注ぐと、カウンターの隅のガラス瓶へと手を伸ばした。
指先で摘み上げたのは、白くて四角い角砂糖二粒。
酒の中へ入れるでもなく、それをそのまま自らの口の中へ放り込む。
ボリッ、ボリボリッ……。
夜のノクターンを背景に、なんとも乾いた、小気味いい破砕音が響いた。
龍魔呂は角砂糖を奥歯で噛み砕いて嚥下すると、ショットグラスの強い酒を一気に煽った。
「……一本、いくか」
「ああ」
龍魔呂が赤箱の無骨な紙巻タバコを一本抜き、唇に咥える。
同時に、レザージャケットのポケットから真鍮製のオイルライターを取り出した。
カチッ……シュポッ。
澄んだ開閉音と共に、静かな黄色のオイル炎が立ち上る。
昼間、悪徳役人たちを戦慄させたあの音と同じはずなのに、今この空間で灯る火は、ただただ静かで孤独な男の体温を宿していた。
優太もまた、ジップアップパーカーから無添加の青い紙巻タバコを取り出し、軍用マッチで火を灯した。
二つの紫煙が立ち上り、間接照明の光の中で緩やかに絡み合いながら、天井へと消えていく。
「昼間、広場で吹いてた曲……『新世界より』だったな」
優太はグラスの丸氷を指先で揺らしながら、静かに口を開いた。
「昔、ハワイで訓練を受けていた頃、教官の部屋でよく流れてたんだ。……故郷を遠く離れた人間が、帰る場所を想って聴く曲だ」
「……故郷、か」
龍魔呂はタバコを挟んだ指先を見つめ、短く自嘲するように鼻を鳴らした。
「俺に帰るような故郷はねぇよ。品川の吹き溜まりの貧民街で生まれて、母親は俺が七歳の時に過労と病気でくたばった。残されたのは、生まれたばかりの幼い弟だけだった」
「弟さんがいたのか」
「……ああ。名前はユウっていう」
龍魔呂の瞳の奥に、遠い記憶の残滓が揺らめいた。
「荒れ地を耕して野菜を育て、弟を食わせるために必死で生きてた。十歳の時、大名行列で傲慢に振る舞う生贄の巫女──結って少女に出会ってな。周りが神輿にかついで機嫌を取る中、子供をいじめようとしたそいつの頬を引っぱたいたんだ。『小さい子をいじめるな』ってな」
「龍魔呂らしいな」
「そしたら、そのユイって子が俺たちの粗末な小屋に通うようになって、ユウと無邪気に遊ぶようになった。『世界を救うために命を捧げなきゃいけない』なんて寂しそうに笑うから、言ってやったんだ。『世界がどうだか知らねぇが、お前を犠牲にして生きようなんて思わねぇ。ユウも守るし、ついでにお前も守ってやる』ってな」
そこまで語ったところで、龍魔呂の言葉がふっと途切れた。
ノクターンの切ないピアノソロが、痛切なまでの静けさで耳に刺さる。
「……だが、守れなかった」
龍魔呂の低い声が、わずかに軋んだ。
「巫女の心の変化を嫌った大神官に家を焼かれ、ユウを人質に取られた。俺は反撃もできずに袋叩きにされて、地下闘技場へ奴隷として売り飛ばされた。……ユイには『たつまろ達は死んだ』と嘘が伝えられ、絶望したあいつは俺を救えると信じ込んで、自ら炎の祭壇へ飛び込んだ」
「そんなことが……」
「俺は地下闘技場で、ユウを生かすためだけに五年もの間、無敗の怪獣として人を殺し続けた。だが、十五の時だ。……八百長で子供の兵士を殺すのを拒んで刃を受け、倒れたその日、ユウは地下牢で病死した。ゴミ捨て場に投げ捨てられた俺の横に、冷たくなったユウの遺体がドサリと落とされたんだ」
カウンターの檜に置かれた龍魔呂の拳が、白くなるほど強く握りしめられていた。
鋼のような肉体を震わせる、消えることのない業火。
「母さんも、ユイも、ユウも……俺は誰一人守れなかった。何一つ、どうにもならなかった。……そこで俺の中で何かが完全に壊れて、『死を呼ぶ四番(DEATH4)』になった」
タバコの灰が、灰皿の中へと静かに落ちる。
「だから俺は、この大陸に来た。小料理屋で穏やかに暮らすためでも、死んだ弟を蘇生させるためでもねぇ。……『生き返らせる』程度じゃ、俺の魂は一生納得しねぇんだよ」
龍魔呂はグラスを置き、優太の目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳に宿っていたのは、神すらも焼き尽くすほどの、純粋にして狂気の宿願だった。
「『ユウがそもそも死ななかった事にする』。ユウが病に苦しみ、ゴミ捨て場に捨てられたという歴史そのものを、この宇宙から完全に消滅させて書き換える。……そのために、俺はこの世界にいる」
常人であれば、その途方もない狂気と執念に言葉を失い、恐怖して後ずさりしたかもしれない。
だが──優太は、ゆっくりとタバコの煙を空へ吹き消すと、穏やかに微笑んだ。
「……そうか」
優太の瞳にもまた、一切の迷いはなかった。
「俺もね、防衛医大に入る前、ハワイで大切な友人を目の前の銃撃戦で救えなかった過去があるんだ。傷口から血が溢れていくのを、ただ手を血まみれにして見ていることしかできなかった。……だから俺は医者になった。『目の前の命を絶対に落とさない』って決めたんだ」
優太はグラスを掲げ、龍魔呂のショットグラスへと軽く当てた。
チリン、と澄んだ音が響く。
「『一人で無双は禁止』。それが俺のルールだ。お前が過去の死そのものを消し去りたいなら、俺も付き合うよ。お前一人に地獄の泥をすすらせるわけにはいかないからな。……過去の命も、今ここで生きている子供たちの命も、知恵と準備と悪知恵を全部使って、二人で救いに行こう」
打算も、神への媚びも、自己犠牲の酔いもない。
ただただ真っ直ぐな、戦術医・中村優太の覚悟。
龍魔呂は数秒間、虚を突かれたように優太を見つめていたが、やがてフッと口元を歪めた。
「……お前、つくづくお人好しの馬鹿だな」
「よく言われるよ。相棒」
龍魔呂はタバコをもみ消すと、ポケットから再び銀のハーモニカを取り出した。
今度は子供たちの前で見せる曲ではない。
独りの夜にだけ、遠い空へ向けて吹き鳴らす鎮魂歌──アイルランド民謡『ロンドンデリーの歌』の切なく美しいフレーズが、ショパンのノクターンと溶け合うようにして静かに流れ始めた。
静かな、だが確かな誓いに満ちたポポロ村の夜。
──だがその平穏の裏で、暗雲はすぐそこまで迫っていた。
村の境界線近くの街道の闇の中、二つの邪悪な影が蠢き、ポポロ村の明かりを冷笑と共に見下ろしていたのである。
読んでいただきありがとうございます。
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