EP 5
絶対愛憐の処方箋と、動き出す腐敗貴族の影
大理石の噴水広場に展開された半透明のエアバッグ越しに、ヴァルター公爵は自らの黒革の手袋をじっと凝視していた。
マイナス五十度の冷気闘気を放つ魔剣の切っ先はキャルルの木製ダブルトンファーに完全に押さえ込まれ、眼前には物理的な「一・五メートルの不可侵領域」が弾力を持って横たわっている。
「……適正対人距離……社会的境界線……」
公爵の彫刻のように整った唇から、微かな呟きが漏れた。
プラチナシルバーの長髪を揺らす美貌の奥で、月の女神カグヤが仕掛けた『強制溺愛プログラム』の魔導コードと、中村優太が突きつけた現代行動心理学の論理が、激しく衝突して火花を散らしているようだった。
「か、閣下! これ以上の滞在は、市警備隊および憲兵隊の交通規制規定に抵触いたします!」
「ひとまず……ひとまず司令部へお引き上げを!」
背後で直立不動のまま冷や汗を流していた副官たちが、死んだ魚のような目にわずかな生気を取り戻し、おずおずと公爵の左右から割って入った。
ヴァルターは抵抗することなく、氷のように冷涼な青い瞳をゆっくりと優太へ、そして優太の背後に隠れるエミリアへと向けた。
「……エミリア。私は、退かん。貴様がどれほど遠ざかろうと、我が愛は貴様の呼吸圏内へと必ず回帰する」
最後までソーシャルディスタンスを粉砕する気満々の捨て台詞を残し、公爵は翻した濃紺の軍服の裾と共に、軍靴の音を整然と響かせながら貴族街の回廊へと去っていった。
「……ふぅ。嵐が一つ去ったな」
優太は耐衝撃デジタルウォッチのアラームを止め、エアバッグの減圧バルブをひねった。
プシューと音を立ててしぼむ防護壁の向こうで、エミリアがへなへなと噴水の縁に座り込んだ。
「たす……助かりましたぁぁぁ……! 本当に死ぬかと思いました……! あんなゼロ距離で睨み続けられたら、前世の最終面接の圧迫面接でもここまで胃が痛くなりませんでしたよ……!」
エミリアは両手で顔を覆い、タクティカル防毒マスク越しに深く安堵の息を漏らした。
その膝の上には、優太のナノテク鎮静弾によって完全な「賢者モード」へ移行した手のひらサイズの子狐──九尾の聖獣コン太が、丸くなってすやすやと眠っていた。
「エミリアさん、広場に長居するのは危険だ。大気中の硫化水素と香水エステルの複合ガス濃度が、午後になってさらに上昇している。……商隊が手配したゴルド商会の提携宿舎へ移動しよう」
「はいっ、喜んでついていきます……! 綺麗な空気が吸える場所なら、地の果てでもお供しますわ……!」
白亜の並木道を抜け、商隊が到着したのは、商業区の一角に佇む堅牢な石造りの高級宿舎『銀月楼』だった。
ニャングルの手配により、最上階のワンフロアが丸ごとポポロ村の貸し切りとなっている。
部屋に入った瞬間、優太はリュックから取り出した広域悪臭中和触媒スプレーを室内の通気口へ噴霧し、窓枠の隙間を密閉テープで塞いだ。
さらに善行ガチャで配備した小型換気ユニットを稼働させると、室内を満たしていたドブと薔薇の混ざり合った異臭が一瞬で消え去り、高原の清冽な朝のような無臭の空気が広がった。
「ぷはぁぁぁぁぁっ! マスクを外しても……鼻がもげない! 目がチカチカしないですわぁぁぁん!!」
エミリアはマスクを外すと、部屋の絨毯の上に大の字になって歓喜の涙を流した。
キャルルも白い兎耳をパタパタと嬉しそうに揺らし、タローマン特注安全靴を脱いでソファーへと腰を下ろす。
「すごいですね、優太さん! あんなに酷かった外の匂いが、魔法みたいに消えちゃいました!」
「魔法じゃない、化学反応による分子分解と物理的濾過の組み合わせだよ」
優太は穏やかに微笑みながら、テーブルの上に聴診器と携帯型生体パルスチェッカーを並べた。
そして、ソファーの上で目を覚まし、前脚で目をこすりながら震えている子狐──コン太へと視線を向けた。
「……う、うぅ……俺は……俺は一体何を……?」
「目が覚めたかい、コン太」
「ひぃぃぃっ!? ハサミ! ハサミを持ったヤブ医者だぁぁっ!!」
コン太は短い毛を逆立て、九本の尻尾で股間を必死にガードしながら後ずさった。
「安心しろ、去勢用メスも園芸ハサミも片付けたよ。……だが、君の生体データを問診させてもらう必要がある」
優太は手袋をはめ、ペンライトでコン太の瞳孔を照らした。
「対光反射正常、脈拍毎分百十。……先ほど君が発情暴走を起こしたのは、君自身の精神の弱さだけが原因ではない。エミリアさんの放つ固有権能『絶対愛憐』の無意識のフェロモン励起と、この街の劣悪な環境ストレスが引き起こした、急性の中枢神経受容体パニックだ」
「ぜ、絶対愛憐……? 私のこの体質のせいなんですか……?」
エミリアが不安そうに胸元を押さえた。
優太は頷き、エミリアの瞳の奥を見つめた。
「ええ。エミリアさん、あなたの前世における過酷な労働環境──慢性的な睡眠剥奪、承認の欠如、過密な対人ストレスが、転生時に魂の深い傷として刻まれていた。そこへ女神カグヤが適当に『全方位から無条件に肯定・愛憐される権能』をパッシブで植え付けた結果、あなたの自律神経が不安を感じるたび、周囲の雄性個体の脳内枢機をハックする高濃度オキシトシン誘発波が無意識に漏れ出しているんです」
「うわぁ……! あの適当なブランド狂い女神、なんて迷惑な初期設定を押し付けてくれたんですか……!」
エミリアが頭を抱えて唸った。
「ヴァルター公爵の異常な接近行動も、コン太の理性の崩壊も、根本原因はあなたの放つシグナルと、受け手側の認知バグの共鳴現象です。……だから、コン太の男の誇りを物理的に切り落としても、問題の本質は一ミリも解決しませんよ」
「よ、よかったぁぁぁ……! 俺のタマ袋は助かったんだぁぁぁっ!!」
コン太がソファーの上で号泣しながら優太の膝にすがりついた。
「ただしコン太、君にも行動療法の課題を与える」
優太はコン太の鼻先へ、人差し指をピシリと突きつけた。
「エミリアさんの下着を漁る行為、および太ももへの過剰な摩擦行動は即時禁止だ。再発が確認された場合、ポポロ村の客員教授ネギオによる『ロイヤル・クレンズ(高純度活性生薬の臀部直撃注入)』の刑に処す」
「ひ、ヒィィッ! ネギの尻爆撃だけは勘弁してくれぇぇっ! 清く正しい聖獣として生きますぅぅっ!!」
コン太が直立不動でお辞儀を繰り返す姿を見て、エミリアもキャルルも思わず吹き出した。
「そしてエミリアさん、あなたにはこれを処方します」
優太が救急リュックから取り出したのは、白磁の小瓶に詰められたエメラルドグリーンの液体だった。
「ポポロ村特産の陽薬草と、世界樹ネギの抽出液を配合した『精神安定芳香エッセンス』です。ハンカチに数滴垂らして胸元に忍ばせておけば、自律神経の過剰興奮を鎮静化させ、周囲へのフェロモン漏洩を八割以上遮断できますよ」
「ありがとうございます、優太さん……! これで、少しはあの公爵のレーダーからも逃げられるかもしれません……!」
エミリアが両手で小瓶を大切そうに受け取った、その時だった。
トントン、サクッ、サクッ──。
宿舎の簡易厨房から、小気味いいリズムを刻む包丁の音が響いてきた。
続けて、ジュワァァァ……という香ばしい焼き音が鼻腔を刺激する。
漂ってきたのは、焦がし醤油の芳醇なアロマと、昆布と干し椎茸から丁寧に引かれた黄金出汁の、暴力的なまでに食欲をそそる匂いだった。
「……腹が減っちゃ、治療も逃走もできねぇぞ」
重厚な声と共に厨房から現れたのは、黒革の特注タクティカルジャケットの袖をまくり、白い割烹着を身にまとった巨漢──鬼神龍魔呂だった。
百九十センチの体躯から放たれる処刑人の気配は完全に消え去り、その両手には湯気立ち上る藍色の陶器の深鉢が四つ、盆に乗せられていた。
「へい、お待ち。毒気抜き特製、『炙り肉椎茸と焼き世界樹ネギの滋味出汁茶漬け』だ」
テーブルの中央にドンと置かれたのは、目を見張るほど美しい一杯だった。
ふっくらと炊き上げられたサンライスの麦飯の上に、炭火でじっくりと焼き目をつけられた極厚の肉椎茸と、とろけるように甘い世界樹ネギが惜しみなく盛り付けられている。
その上から、沸き立つ熱々の黄金出汁がたっぷりと注がれ、刻み海苔と本ワサビが天盛りに添えられていた。
「う……うわぁぁぁぁぁっ……! なんですかこれ……! 料亭の締めのご飯みたいですわ……!!」
エミリアの喉がゴクリと鳴った。
スプーンを手に取り、出汁の染みたご飯と肉椎茸を豪快に口へと運ぶ。
その瞬間、エミリアの瞳が限界まで見開かれた。
「んんんーーーーッッ!? お、おいしいぃぃぃぃぃッ!!」
エミリアはドンブリを抱え、涙を流しながら絶叫した。
「出汁が……出汁の旨味が五臓六腑に染み渡っていく……! 肉椎茸を噛んだ瞬間に、極上の牛肉ステーキみたいなジュワッとした肉汁とキノコのエキスが溢れ出して、焦がしネギの甘さとワサビの爽快感がドブ臭い街の記憶を全部洗い流してくれますわぁぁぁん!!」
「ふふ、龍魔呂さんのご飯は大陸一ですからね!」
キャルルも嬉しそうにドンブリを抱え、ハフハフと湯気を立てながら夢中でかき込んでいく。
コン太に至っては、小さな皿に分けてもらった出汁をペロペロと一心不乱に舐め尽くし、「うめぇ……! 狐に生まれて良かったぜぇ……!」と尻尾をプロペラのように回していた。
「美味いよ、龍魔呂。気道が荒れていたエミリアさんの喉にも、最高の滋養食だ」
「……素材が良かっただけだ」
ぶっきらぼうに応じる龍魔呂は、棚のガラス瓶から取り出した角砂糖を二粒、迷いなく口の中へ放り込んだ。
ボリッ、ボリボリッ……。
静かな室内に、小気味いい破砕音が響き渡る。
ブラックのポポロ・コーヒーで喉を潤した龍魔呂は、赤箱の無骨な紙巻タバコを取り出し、使い込まれた真鍮製オイルライターを親指で弾いた。
カチッ……シュポッ。
澄んだ開閉音と共に静かな黄色のオイル炎が灯り、立ち上る紫煙を換気口へと燻らせる。
優太もまた、無添加の青い紙巻タバコに軍用マッチで火をつけ、深く紫煙を吹き出した。
だが──その温かな食卓の静寂を破るように、宿舎の重厚なオーク材の扉が、ドタドタと慌ただしい足音と共に開け放たれた。
「えらいこっちゃ! 優太ハン、キャルル! 大変なことになりよったでぇぇぇッ!!」
金糸のベストを汗で湿らせ、息を切らしながら飛び込んできたのは、猫耳商人ニャングルだった。
小脇に抱えた特注魔導金算盤の枠を激しく鳴らし、その手には赤く禍々しい封蝋が施された羊皮紙の書状が握りしめられている。
「ニャングル殿。落ち着きなさい。……商業ギルドと市政庁への登録手続きで、何かトラブルでも?」
優太がタバコを携帯灰皿へ消して立ち上がると、ニャングルは書状をバンッとテーブルの上へ叩きつけた。
「トラブルどころの話やあらへん! ムーンキャピタルの商業利権と衛生管理を一手に握る腐敗貴族連合──『パルファン伯爵』と『ド・ロワ子爵』の連中や!」
ニャングルの三角の猫耳が、怒りで逆立っている。
「ウチらが持ち込んだ最高級の『ポポロシガー』と『月光薬』のサンプルを見るなり、あいつら顔色を変えよったんや! 『こんな田舎者の粗悪品が市場に出回れば、我らの高貴なる香水と神聖薬のシェアが脅かされる』とかぬかし腐ってな……! 不当な独占禁止法違反の言いがかりをつけて、ポポロ村商隊の『全積載物資の即時無償差し押さえ』と『関係者全員の身柄拘束令状』を一方的に発行しよったんやでぇぇぇッ!!」
「な……なんですってぇぇぇッ!?」
キャルルが思わず立ち上がり、紅い瞳を怒りに染め上げた。
「不当な差し押さえですって!? ポポロ村のみんなが丹精込めて育てた葉巻と、私が調合したお薬を、タダで奪い取るつもりですか!?」
「せや! しかも今、宿舎の周囲に伯爵家の息のかかった悪徳私兵団と闇ギルドのゴロツキ共が、武器を持って集結し始めとる! 完全に力ずくでウチらを身包み剥ぐ気や!!」
ニャングルの悲鳴のような報告に、室内の空気が一瞬で氷点下へと凍りついた。
だが──その混乱の中、背後の壁際から、スッと影のように進み出る男がいた。
仕立ての良い漆黒の燕尾服を寸分の乱れもなく着こなした人狼執事、リバロンだった。
銀縁の片眼鏡の奥のアイスブルーの瞳を怜悧に細め、純白の手袋をはめた指先で、胸ポケットから薄い金属名刺を一文字に抜き放つ。
「……おやおや。美の都を自称しながら、やることは三流の山賊以下の追剥ぎでございますか」
リバロンの唇に、氷よりも冷徹な紳士の笑みが浮かんだ。
「法と契約の適正手続きを無視し、我が主の慈愛を踏みにじる豚には……相応の社会的・物理的制裁が必要でございますね」
同時に、煙草を燻らせていた龍魔呂が、真鍮製オイルライターの蓋を親指でカチャリと弾いた。
──カチッ。
静かな開閉音。
男の漆黒の双眸に、獲物の骨を解体台に乗せる直前の、絶対の静謐が宿っていた。
「……優太。食材を奪いに来るネズミ共を、どう料理する?」
優太は深く息を吸い込み、耐衝撃ウォッチのベゼルをカチリと回した。
その瞳に、病巣の切除を決意した執刀医の光が宿る。
「1人で無双は禁止だ。……相手が権力と暴力で押し通す気なら、俺たちは知恵と悪知恵、そしてチームワークで、奴らの腐敗した利権構造ごと根こそぎ解体してやろう」
【要救護者の精神安定および地域権力闘争の不当介入を感知】
【重大な不当弾圧への抵抗決意:善行ポイント+200P獲得】
【現在保有善行ポイント:6,059P】
虚飾のメガシティ『ムーンキャピタル』の闇が、牙を剥いて迫っていた。
ポポロ村のしたたかな男たちによる、腐敗貴族への大反撃の狼煙が、今まさに静かに上がろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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